1.伯爵令嬢、売られる
まるで絵に書いたような、あっけない転落劇だった。
「……離してください!」
「ぎゃあぎゃあ騒ぐな、このクソガキ!」
くすんだグレーのウエストコートの男に腕を掴まれ、一人の少女が声を荒らげていた。
石畳があちこち崩れ、すえた臭いが蔓延する薄暗い裏通り。その少女は、そんな場所にはまったく不似合いな、異端の存在だった。
上質なドレスに身を包み、抜けるように白い肌と艷めくヘーゼル色の髪は、一目で丁寧に手入れされていると分かるものだった。男に引きずられながらも、姿勢よく背を伸ばし歩く姿は、うらびれた通りを背を丸めて歩く人々の中で、あからさまに浮いていた。
伯爵令嬢――いや、『元』伯爵令嬢のオデット・フルーリは、今まさに、娼館に売り飛ばされようとしているところだった。問答無用で彼女を引きずっているのは、彼女の身柄を預かっている女衒だった。
オデットは歯噛みしながら、男の手を振り払おうともがいていた。
借金のカタに売り飛ばされることは、もう仕方がない。けれど、娼館だけは。
密かに逃げようと焦る彼女に気付いてか、女衒の男が剣呑な表情を浮かべる。彼はオデットの腕を捻り上げながら、恫喝するように言った。
「痛い目見ねぇと分かんねぇか? お前はもう、お貴族様でも何でもねぇんだよ!」
(殴られる……!)
振り上げられた拳を、オデットが思わず睨み付けた、その時だった。
「――商品に手ぇ上げるのは、まずいんじゃないか?」
「いっ……」
拳を固めた方の腕を背後から掴まれ、女衒の男が悲鳴を上げる。オデットの手を掴んでいた方の腕も弾き飛ばされ、男は体勢を崩した。
突如現れたのは、質の良いウエストコートと上着をまとった、背の高い男性だった。顔は帽子に隠れ、よく見えない。磨き上げられた靴を履いた足が、素早くオデットを背後に庇った。
痛めた腕を擦りながら、女衒の男は忌々しそうに言った。
「てめぇ、何モンだ!?」
怒鳴りつけられた男性は、どこか軽い調子で答える。
「ただの通りすがりの、中年男だ」
そうして、ちらりとオデットの方を振り返って微かに笑い、すぐに正面に向き直った。
「このお嬢さん、いくらだ?」
「……はあ!?」
女衒の男はまたも声を荒らげ、オデットもサッと顔面を蒼白にする。助けられたと思ったが、自分の身体を買おうというつもりか。逃げ出そうとつま先に力を入れた瞬間、前を向いたままの男に腕を捕まえられ、オデットはギョッとする。
「……勘違いするな。俺は人買いじゃないし、こんな子どもを寝台に連れ込む趣味もない。ただ、お嬢さんの身元を引き受けたいたけだ。いくらで店に売る気だった?」
男の言い分に目を白黒させていた女衒は、不意にニンマリと頬を歪める。何らかの皮算用が働いたようで、女衒の男は、もったいぶるように言った。
「そうだなぁ。……この女なら、八百はくだらない」
途端に、男は大声で笑い始める。気色ばむ相手を制して、彼はこともなげに言った。
「四百。ただし今晩中に、即金で払おう」
「なっ……」
金銭の価値に疎いオデットには、女衒の男が絶句した理由は分からない。腕を掴まれたまま、わけも分からずその場に佇む彼女をよそに、男たちは言い合いを続けた。
「ふ、ふざけるな! そんな金額じゃ……」
「四百五十。お前さんへの補填金も含めてだ」
一歩も引かない様子の男に、女衒の男はついに諦めたように両手を上げた。
男はオデットの腕をようやく離し、「逃げるなよ、お嬢ちゃん」と釘を刺す。そうして、胸ポケットから紙片を取り出し、彼はそこに何かを書き込んだ。戸惑い顔の女衒の取れかけたポケットに、男はその紙片を押し込む。
男は「金はそこに取りに来てくれ」と言い、再びオデットの腕を掴んで歩き始めた。諦めた表情で、オデットは後に続く。
「話は通っている。その紙片を見せれば、そこにいるヤツが、その金額を用意する。……じゃあな」
背後で女衒の男が騒ぐが、振り返ることもなく、男は大股で構わず進んで行った。オデットは半ば小走りになりながら、彼の背中に続く。
「――あ、あの、助けてくださってありがとうございました。貴方はいったい……」
不安げに眉を顰めるオデットに構わず、男はひとり、満足気に頷いた。
「体幹が強い。乗馬が趣味だったか? 声も腹から出ていて、発声も安定している。……良い買い物だったな」
言い当てられ、オデットは目を剥く。驚愕した様子の彼女に、男は小さく笑って言った。
「俺はフィリップ・ゴティエ。半年後に開業する予定のオペラホール、『睡蓮座』のオーナー兼、脚本家だ。
――お嬢ちゃん。うちで、プリマドンナを目指さないか?」
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