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没落した『元』貴族令嬢は、歌姫への道を駆けのぼる  作者: 冬生 恵
【第一幕】睡蓮座、デビュー
12/14

11.初演前夜、そして(前編)

 稽古もいよいよ佳境に入り、オデットたちは練習の場を、地下室から実際の舞台に移した。

 ひと足早く完成していたオペラホールは、収容人数こそ『白鳥座』や『黄金座』の半数にも満たないが、オーナーであるフィリップの哲学が随所に見られる建物だった。音の反響や照明の届き具合を緻密(ちみつ)に計算し、使う材料から細部の彫刻にまでこだわった。

 稽古室とはまったく違う響きに、オデットたちは驚き喜んだ。オペラの経験が長いジャンやアンサンブル部隊まで、目を見開いていたほどだ。

 オデットたちは夢中になって、本番を想像しながら練習に励んだ。しかし、舞台のイロハを骨の髄まで叩き込んできたカミーユは、新人歌手たちの楽観を許さなかった。


「客が入れば、声の響き方も変わる。自分の声と周囲の声、オーケストラとの調和に、常に意識を配りなさい」


 フィリップの指導のもと、オデットたちは客席に隅から隅まで布を広げ、音の変化を確認するようになった。

 また、時には『睡蓮(すいれん)座』建築に関わってきた業者や作業員を招き、実際に幕の一部を演じた。人の入り具合でも、声は大きく変わる。連日満席が目標だが、客入りがまばらな時の状態も、確認出来たのは良かったのかも知れない。

 もちろん、プレ公演を行うことで、宣伝代わりにする狙いもあった。建築業者の責任者から、労働者まで、『睡蓮座』が狙う幅広い層の顧客に事前にアピール出来るのは大きかった。


 彼らの口から、少しずつ、『睡蓮座』の噂が広まっていく。


 期待と興味を一身に集め、ついに、オデットたちは(こけら)落とし前日を迎えていた。




 初演に備え、前日は午前の通し稽古のみとなった。実際の衣装と化粧、ヘアセットに、実際に使用する楽器と照明。本番とまったく同じ条件での練習だ。

 客席には、どうしても初演当日の観劇が難しい支援者たちを招いていた。その中には、侯爵夫人のマルグリット・ドラクロワの姿もある。


 ジャンとアンヌマリーが、最後の一節を歌い終える。

 一瞬の沈黙をおいて、観客たちが一斉に立ち上がった。


(やった……!)


 舞台の袖でその姿を見守っていオデットとモーリスは、手を取り合って歓喜に震えた。拍手を浴びるジャンとアンヌマリーも、安堵したように微笑んでいる。

 同じく、客席で見守っていたカミーユと老翁――オノレも、微笑みと共に手を打ち鳴らしていた。普段は手厳しい師の笑顔に、オデットたちはこそばゆい気持ちを懸命に押し殺していた。


 オデットたちがいるのと反対側の舞台の袖から出てきたフィリップが、支援者たちに何度も頭を下げる。やがて拍手が収まると、彼は演者全員に舞台に出るよう告げた。全員が舞台に集まったところで、フィリップが声を張り上げる。


「皆様の多大なるご支援のおかげで、我々はいよいよ、初演を迎えることが出来ます。感謝申し上げますと共に、まだまだ経験不足の我々を、暖かく見守りつつ、今後もご指導(たまわ)れますと幸いです」

 

 フィリップの力強い言葉に、また客席が沸く。オデットはアンヌマリー、ジャン、モーリスと顔を見合わせ、改めて四人で頭を下げた。




 オデットたち演者はそれぞれに大荷物を抱え、ホールのすぐ横の寮に戻っていた。

 荷物の中身は、明日の衣装や楽器の予備だ。新たなホールの開場に、嫌がらせが起こらないとも限らない。「常に最悪の事態を想定するように」というカミーユの忠告に、皆一も二もなく従った。

 午後は、寮で自由に過ごすことを許されている。最終の自主練習を行うも、明日に備えて睡眠を取るも、時間の使い方はそれぞれに一任された。禁じられたのは、外出と飲酒、刺激物や味の濃いものを食べることのみ。


 オデットも、昼寝をしたあとは、のんびりと部屋で譜面を確認しながら過ごした。夕食の時間になり食堂に向かうと、明日の初日を控えた仲間たちが、続々と集まってくる。気が付けば全員が揃い、思い思いの席でくつろぎ始めた。

 オデットは定位置である、アンヌマリーの隣に向かった。彼女の向かいには、今日はアンサンブルの一人のレオニーがいる。演者の中で最年長である彼女は、もともと庶民向けのオペラホールに所属していた。だが、際どい演出ばかりを強要されることに嫌気がさし、活路を見出して『睡蓮座』にやってきたのだ。

 衣装や化粧、ゴシップなど、他愛ない話で盛り上がる。遠くに座った男性アンサンブルたちが茶々を入れ、レオニーが小気味よい言葉で応じる。食堂全体が笑いに包まれた。

 オデットも会話に混じりながら、声を上げて笑う。ここに来た当初は、皆歓迎の意を表しながらも、『元貴族』というオデットの肩書きに若干引いているところもあった。共に苦労を重ねた今、その垣根はなくなったように思う。


(軽口を交わしながら、声を上げて笑い合うことは、こんなにも楽しいことだったのね……)


 貴族には貴族の理屈、付き合い方があるし、貴族以外の立場の者も、本音と建前はもちろん使い分ける。嫌味も足の引っ張り合いだって、日常茶飯事だ。けれど、以前の窮屈な生活にはもう戻れないと、オデットは思ってしまうのだ。



 もちろん、ここでの生活に馴染めたのは、アンヌマリーが何くれとなく世話を焼いてくれたことが大きい。ジャンやモーリスも、折に触れて気にかけてくれる。

 オデットは、食堂に集う仲間たちを見やり、一人静かに微笑んだ。

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