9.思いを届ける
いよいよ三ヶ月後に迫った旗揚げ公演に向け、役の練習が始まった。
午前はそれぞれのパートを個別に、午後はソリストが集まり全体の流れを確認していく流れだ。アンサンブルとの合流は、来月からになる。
パート練習にもっとも手こずっているのは、メイド役のオデットだった。
音程も正確で、歌詞も明朗。譜面に書かれている指示の通りに、間違いなく歌えている。
それでもカミーユは、オデットに「やり直し」を突きつけ続けた。
午後の全体練習、またもカミーユに歌唱を止められたオデットを、一緒のシーンが多いアンヌマリーが横目で伺っている。怒りや苛立ちもあるが、その目に一番に浮かんでいるのは気遣いだった。
しかし、それには気付けず、オデットは呆然と立ち尽くしている。そんな彼女に呆れたように、カミーユが口を開いた。
「音程も正しいし、譜面の指示にも正しく対応している。歌詞もちゃんと入っている。……でも、それだけよ」
容赦ない言葉を、オデットは俯きながら受け止める。カミーユに目線を向けられたジャンが、そっとオデットに寄り添った。
「……演じている人物が、何を感じ、何を思っているのか。それを歌で表現し、観るものに届け、共感してもらうのが、オペラという芝居の基本だからね。技巧ももちろん、大切なんだけど」
思いを表現する。
それは貴族として、特に女性として、忌避される行動の一つだった。基本は微笑み。驚きや怒りは、表現することで有利になるのならば、許容範囲。涙など、もってのほか。
そんな規範の中で十六年間生きてきたオデットにとって、その指示は、「人前で真っ裸になれ」と言われているに等しいものだ。むしろ彼女は、自分が「貴族女性に相応しい冷静沈着さに欠けている」とさえ思っていた。それが全く足りない、もっと出せと言われても、どうしたら良いのか分からなかった。
途方に暮れるオデットに、その時、アンヌマリーが歩み寄ってくる。彼女は腰をかがめて、下からオデットの顔を見上げるようにして、おもむろに嘲笑を浮かべた。
「……いい気味。自分が何でも出来る優等生だと、これまで信じて疑わなかったんでしょ?」
刃物のような鋭い彼女の言葉に、オデットは何も返せない。ジャンが一歩踏み出しかけるが、アンヌマリーはそれを制して続けた。
「そんな世間知らずの自意識過剰だから、娼館に売られかけたりするのよ。あんたの父親も、同類なんでしょうね。借金背負って、名門伯爵家をあっさり潰して。……どうしようもない愚か者だわ」
「――父を侮辱しないで!」
オデットは咄嗟に叫び、アンヌマリーの両肩を掴み、彼女の身体を引き起こした。息を飲む周囲に気付かず、オデットはアンヌマリーを正面から睨み付け、言葉を連ねる。
「父は確かに、呆気なく事業に失敗したわ。でも、領地を豊かにしたいという気持ちは、真実だった。何も知らないあなたに、そんな風に言われる筋合いはない!」
啖呵を切り、肩で息をするオデットに、間近に立つジャンが目を丸くしている。しんと静まり返った空気に、オデットの荒い呼吸だけが響いていた。
両肩を掴まれたまま、無表情を保っていたアンヌマリーが、不意に小さく笑った。
「――なんだ。ちゃんと、怒れるんじゃない」
「……え?」
「涙」
頬を指さされ、オデットはハッと息を飲んで自分の頬に触れる。アンヌマリーの指摘の通り、そこに一筋の涙が零れ落ちているのに気付いて、驚きに目を見開いた。
怒りのあまり、涙が零れるなんて。人生で初めての経験にオデットは目を見開いた。ジャンの、モーリスの、講師たちの、労りだったり気圧されたりしたような表情を、オデットは驚きとともに眺める。
アンヌマリーは微笑み、オデット左肩を右手で叩いた。
「……カミーユ先生。もう一回、二人の掛け合い、見てもらえますか?」
彼女の言葉に、カミーユはいつものように片眉を上げ、頷いた。
「では、第二幕の頭から」
その日の夜、練習終わりに食堂へ向かいながら、アンヌマリーがポツリと呟いた。
「……悪かった」
何に対して謝られているのか分からずに、オデットは瞬きを繰り返す。アンヌマリーは苦笑して、星が煌めく夜空に目線を向けた。
「あんたの親父さん、バカにして。あんたに対して言ったことも……、半分は、本心じゃないから」
それでは、半分は本心だったということか。
率直で、容赦のないアンヌマリーの言葉に、オデットは思わず笑ってしまった。
彼女は強い。自分の感情に正直で、誤解を恐れず妥協せず、自分が悪者になっても誰かを助けられる。
(確か、マリーは十七歳だと言っていた。一つ上なだけなのに、私とは全然違う……)
歌い手としても、人間としても。はるか先を行く彼女に、オデットは尊敬の念を抱く。
小走りでアンヌマリーの横に並び、オデットは彼女の顔を見上げて言った。
「……ありがとう、マリー」
鼻を鳴らしたアンヌマリーは、プイッと顔を背けた。
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