第9話:不在の肖像
「先生の両親って、どんな人だったんですか?」
事務所に差し込む夕日が、埃を金色の粒子に変えていた。ハルが何気なく発したその問いに、火野が飲んでいた缶コーヒーを吹き出しそうになる。
「おいハル、それは禁句……」
「……構わない。話すほどのことは何もないからな」
九条漸は、机の上に置かれた「何も入っていないフォトフレーム」のガラスを、丁寧にクロスで拭き上げながら答えた。
九条の記憶にある両親は、常に「背中」だった。
幼い頃、九条の周囲で奇妙な現象――自分を狙うように落ちてくる看板を避ける突風や、死を予感させる黒い霧――が起きるたび、両親は怯え、彼から距離を置いた。
彼らが最後に九条に見せたのは、ある大雨の夜の、絶望に満ちた瞳だった。
「漸、お前がそこにいると……私たちの命まで吸い取られるような気がするんだ」
そう言い残し、二人は九条を親戚の家に預け、夜逃げするように姿を消した。
だが、運命は冷酷だった。
九条を捨てて逃げた両親の車は、数キロ先で崖から転落。車体は粉々に大破した。
……しかし、二人の遺体はどこからも発見されなかった。
「……死んだのか、生きているのか。それすら、私には『託されて』いない」
そんな折、火野が「身元不明の二人の男女」が関わる奇妙な案件を持ってきた。
郊外の廃村にある古い屋敷。そこには、二十数年前から時が止まったかのような生活の跡があり、最近になって「二人の影」が夜な夜な現れるという。
「九条ちゃん、これ……あんたの両親の失踪場所と、方角が一致してんだよな」
九条たちはその屋敷へ向かった。
荒れ果てた畳の上、九条はかつて自分が幼少期に遊んでいたはずの「木彫りの熊」を見つける。
その瞬間、九条の背後の「先祖の壁」が、かつてないほど激しく波打った。
「……漸。来ないで、漸」
霧のような声が響く。屋敷の奥から現れたのは、半透明の、だが憎悪と恐怖に歪んだ男女の姿――九条の両親だった。
彼らは死んでいたのではない。九条を取り囲むおびたただしい数の「先祖」たちが、九条を守るためのスペア、あるいは「盾」として、彼らを生霊のような状態でこの屋敷に縛り付け、九条から遠ざけていたのだ。
「先生、これって……!」
ハルが絶句する。
九条の両親は、息子を愛せなかった。だが、先祖たちは「九条漸」という依代を守るために、その両親さえも部品として利用していた。
「……残酷だな。私を守るために、私から家族を奪ったのか」
九条は、両親の影に歩み寄った。
彼の周囲で天井が崩落し、鋭い木材が降り注ぐ。先祖たちが「これ以上近づくな」と警告しているのだ。だが、九条は無傷のまま、両親の凍りついた手に触れた。
「漸託」の開始。
だが今回は、死者の想いを濾過するのではない。自分を縛り付けている「先祖たちの過保護」を、自らの意志で捻じ伏せる作業だった。
「もういい。彼らを、解放しろ」
九条の内側から、漆黒の衝動が溢れ出す。彼を囲む無数の影たちが悲鳴を上げ、屋敷全体が激しく震動した。
やがて、両親の影は恐怖から解き放たれたような顔を見せ、穏やかな光となって消えていった。
二十数年、呪縛のように続いていた「家族の不在」が、ようやく完結した瞬間だった。
帰り道。車内で火野は珍しく沈黙し、ハルは九条の袖をぎゅっと掴んでいた。
九条は一人、窓の外を眺める。
両親を解放したことで、彼を取り囲む「先祖の壁」は、以前よりも少しだけ薄くなったように感じられた。
だが、その分、九条の頬には、跳ねてきた小石による「小さな切り傷」が刻まれていた。
彼が初めて、この世界から受けた「痛み」だった。
「先生……血が出てます」
ハルが慌ててハンカチを出す。九条は指先でその血を拭い、まじまじと見つめた。
「ああ。……ようやく、私の時間が動き出したのかもしれないな」
九条漸の瞳には、冷たさの中に、初めて「人間」としての色が宿っていた。
お調子者の火野が、わざとらしく明るい声で言った。
「ま、怪我するようになったなら、これからは俺がもっとしっかり守ってやらねえとな!」
自問自答は終わらない。だが、九条はもう、フォトフレームのガラスを拭く必要はなかった。




