第8話:遺断師の牙
「……最悪だ。逆瀬の野郎、ついに禁忌に手を出しやがった」
火野が事務所に駆け込んできたとき、その手は小刻みに震えていた。
彼が持ってきたのは、ある連続強盗殺人事件の現場写真だ。だが、その現場は異様だった。被害者の遺体はどれも、まるで最初から存在しなかったかのように、輪郭がボロボレと崩れ、灰のようになっていたのだ。
「奴は死者の『未練』を断ち切るだけじゃねえ。死者がこの世に残した『痕跡』そのものを、強制的に消去して回ってやがる」
九条漸は、無機質な瞳で灰の山を見つめた。
「……痕跡を消せば、その死は無かったことになる。生者が抱く悲しみも、怒りも、行き場を失って腐敗するだけだ」
「先生! 逆瀬さんを止めないと……このままだと、誰も『お別れ』ができなくなっちゃいます!」
ハルが必死に訴える。九条はゆっくりと立ち上がり、いつものコートを羽織った。
現場は、雨の降る寂れた廃工場。逆瀬は、崩れかけたクレーンの下で、次の「獲物」を待っていた。
今回の被害者は、裏社会の抗争に巻き込まれた若い男。男の喉元には、逆瀬の指先が触れようとしていた。
「また会ったな、九条。お前の『お節介』を待つ必要はない。この男の無念も、罪も、私がすべて虚無に帰してやる」
逆瀬が手を下ろそうとした瞬間、九条がその間に入った。
「逆瀬。お前が断ち切っているのは想いではない。……お前自身の、死への恐怖だ」
逆瀬の顔から余裕が消え、鋭い殺気が放たれた。
「黙れ。お前のように、死者の幽霊に守られてぬくぬくと生きている偽善者に、何がわかる!」
逆瀬が九条の胸元に拳を叩き込む。
その瞬間、工場の天井から巨大な鉄骨が「偶然」落下してきた。九条を押し潰そうとするかのようなタイミング。だが、九条の背後に蠢く「先祖の壁」が、目に見えない圧力となって鉄骨を弾き飛ばした。
弾かれた鉄骨は、逆瀬の退路を断つように地面に突き刺さる。
「お前の『断絶』は、ただの孤立だ」
九条は逆瀬の腕を掴み、強制的に「漸託」の回路を繋いだ。
九条の体を通じて、逆瀬の中に「死者たちの合唱」が流れ込む。
それは九条がこれまで濾過し、受け入れてきた何百、何千という人間の、泥臭くも愛おしい人生の断片だった。
「ぐっ……! 何だ、この不潔な……情報の奔流は……!」
逆瀬は耳を塞ぎ、のたうち回る。
彼にとって、死とは「消すべきノイズ」だった。しかし、九条が突きつけたのは、死が「生の一部」であるという重たい真実だった。
「お前が断ち切ってきた死者たちも、お前の中に残っている。……彼らは消えたがっているのではない。ただ、誰かに自分たちがいたことを認めてほしかっただけだ」
九条の「壁」から溢れ出した白光が、工場内を包み込む。
逆瀬の周囲に漂っていた怨念の残滓が、九条の濾過によって、穏やかな光の粒子へと変わっていく。
光が収まったとき、逆瀬は膝をついていた。
彼の白いコートは初めて汚れ、その瞳からは鋭い刃のような光が消えていた。
「……九条。お前はいつか、その重さに耐えかねて、自分自身が消えたくなる。その時、私を呼べ。……お前の望み通り、すべてを消してやる」
逆瀬はふらつきながら、雨の夜へと消えていった。
「先生……逆瀬さん、また来ますかね」
ハルが不安げに尋ねると、九条は拾い上げた死者の遺品――小さな銀のコイン――を見つめた。
「ああ。彼は私の影だ。光がある限り、影は消えない」
火野が「やれやれ、命拾いしたな」と肩をすくめる。
九条は自問自答する。自分を生かしている先祖たちは、逆瀬のような破壊者からも自分を守り続けるのだろうか。
「……私の時間は、まだ止まったままだ」
九条漸の冷たい瞳には、雨に濡れた都会のネオンが、まるで死者の灯火のように映っていた。




