第7話:反転する境界線
「九条ちゃん、最悪なニュースだ。あんたの『商売仇』が現れたぜ」
火野が事務所のドアを蹴破るようにして入ってきた。その顔には珍しく、焦燥の色が混じっている。
「商売仇……? 漸託師は、この街には先生しかいないはずじゃ」
ハルが首を傾げると、火野は一枚の不鮮明な写真をデスクに叩きつけた。
そこに写っていたのは、燃え盛る火災現場の前に、平然と立ち尽くす一人の男だった。
崩れ落ちる火の粉を浴びながらも、男の白いコートには煤一つ付いていない。
「奴の名は、逆瀬。……自称『遺断師』。死者の想いを濾過して引き継ぐあんたとは真逆だ。奴は死者の未練を『断ち切り、踏み潰す』ことで、この世から完全に消し去る」
九条漸は、写真の中の男の瞳をじっと見つめた。
それは、自分と同じ、この世の何物にも興味を持たない冷たい目。だが、九条の瞳が「静かなる虚無」だとするなら、男の瞳は「すべてを拒絶する刃」のような鋭さを持っていた。
「……私の『壁』とは、性質が違うようだな」
九条が呟いたその時、事務所の電話が鳴った。
依頼人は、若くして病死した画家の遺族だった。
「亡くなった息子が、死ぬ直前に描いた最後の一枚が……なぜか、見る者すべてを狂わせるんです」
現場のアトリエに向かった九条たちを待っていたのは、すでに先客として現れていた逆瀬だった。
彼は九条とほぼ同年代の、20代半ばの男。九条が無機質な機能美を纏っているのに対し、逆瀬は不遜な笑みを浮かべ、どこか退廃的な色気を漂わせている。
「お前が漸託師か。まどろっこしいことをしているな」
逆瀬は九条を一瞥し、アトリエの中央に置かれた布を剥ぎ取った。
そこにあったのは、一面が真っ黒に塗り潰されたキャンバス。だが、その黒の中には、見る者の心臓を直接掴むような、凄まじい「死への恐怖」が凝縮されていた。
「この絵には、死者の絶望が詰まっている。引き継ぐ価値などない。……消去すべきだ」
逆瀬がキャンバスに手を伸ばす。彼の指先が触れた瞬間、キャンバスから苦悶の声のようなノイズが響き、黒い絵具がひび割れ始めた。
「待て」
九条が、逆瀬の手首を掴んだ。
その瞬間、二人の周囲で激しい異変が起きる。アトリエの天井にある巨大なシャンデリアのチェーンが「偶然」千切れ、二人の間に落下したのだ。
火花が散り、ハルが悲鳴を上げる。だが、二人は一歩も動かない。
シャンデリアの破片は、二人の体を避けるように左右に弾け飛んでいた。
「……お前もか。死に嫌われているな」
逆瀬が冷たく笑う。
「私は嫌われているのではない。……託されているだけだ」
九条はそのまま、逆瀬の力を押し戻すように、絵の「黒」の中に自分の手を沈めた。
逆瀬の力は、想いを根絶やしにする「破壊」。
対する九条の力は、想いを自分の中へ受け入れる「受容」。
相反する二つの力が衝突し、アトリエの窓ガラスが次々と砕け散る。
九条の脳裏に、画家の最期の声が流れ込んできた。それは恐怖ではなく、「完成させられなかった、この黒の先にある『光』を見つけてほしい」という、祈りに近い願いだった。
九条は、逆瀬の「断絶」の力を自身の「先祖の壁」で受け流しながら、絵の中にある猛毒のような絶望を、ゆっくりと自分の中へ濾過していった。
やがて、キャンバスの黒は薄れ、その奥から透き通るような青い空の輪郭が浮かび上がる。
「……フン、下らん。死者に希望など残してどうする」
逆瀬は忌々しげに手を離し、背を向けた。
「九条。お前がいつかその『重み』に耐えられなくなって潰れる時、私がその未練ごと、お前を消してやるよ」
逆瀬は風のように去っていった。
「……先生、大丈夫ですか?」
ハルが駆け寄る。九条の手は、絵具で黒く汚れていたが、傷一つなかった。
「ああ。……ただ、少しだけ理解したよ。私の『壁』が、なぜ彼を弾こうとしたのか」
九条は、青く変わったキャンバスを見つめる。
逆瀬の周囲にいたのは、先祖ではない。彼がこれまでに「断ち切ってきた」死者たちの、行き場を失った怨念の残滓だった。
「火野。逆瀬の動向を追っておけ。……彼と私は、鏡合わせだ」
「ああ、分かってるよ。あんな危ねえ野郎、放っておけるかよ」
九条は自問自答する。
想いを繋ぐ自分と、想いを断つ彼。どちらが死者にとっての救いなのか。
その答えはまだ、九条の手の中にある「洗浄されたばかりの絵具」のように、形をなしてはいなかった。




