第6話:共犯者の温度
「殺人現場に、死体がない。……これ以上のミステリーがあるかよ」
火野が事務所のデスクを叩き、苛立たしく吐き捨てた。
今回の現場は、都心の高級マンション。防犯カメラには被害者が入室する姿が映っていたが、それ以降、誰も出ていない。部屋の中には大量の血痕と、何者かが激しく争った形跡。だが、肝心の遺体だけが煙のように消えていた。
「警察は血痕の量からして『生存は不可能』と断定した。だが、遺体が出ねえ限り事件は進まねえ。そこで、俺たちの出番ってわけだ」
九条漸は、火野が差し出した現場写真の一枚を、細長い指でなぞった。
「……血の匂いがしないな」
「はあ? これだけ派手な現場で何言ってんだよ」
九条は立ち上がり、コートを羽織る。
「物理的な匂いの話ではない。この部屋には、『死を完結させた者』の気配がないと言っているんだ」
厳重に規制線が張られたマンションの一室。九条たちは、火野の裏ルートを使い、深夜の現場に潜り込んだ。
ハルは、ライトを手に血溜まりの跡を避けながら歩く。
「先生、ここ……すごく嫌な感じがします。誰かが、まだそこに隠れて見ているような……」
九条は部屋の中央に立ち、目を閉じた。
彼を取り囲む先祖たちの気配が、ざわりと波立つ。
その時、九条の足元で「たまたま」床板の隙間から、一本の古いカセットテープが姿を現した。棚が倒れた際の衝撃で、隠し場所から弾き出されたのだろう。
「ハル。レコーダーを」
九条がテープを再生すると、そこには激しい罵り合いと、肉体が叩きつけられる鈍い音が録音されていた。そして、最期に響いたのは、刺されたはずの被害者の、震えるような笑い声だった。
『……これで、お前も私と同じ、あちら側の人間だ』
その瞬間、九条の背後で、倒れていたはずの重厚なクローゼットが不自然に傾いた。
「先生、危ない!」
ハルが叫ぶ。
だが、クローゼットは九条のすぐ脇を通り抜け、床の血溜まりを押し潰すように倒れ込んだ。その衝撃で剥がれた壁の奥から、腐敗した「本当の遺体」――数十年前に殺され、この部屋に埋められていた別の人間の骨――が転がり出た。
「なっ……なんだよこれ、今回の被害者じゃねえぞ!」
火野が顔を引きつらせる。
「……漸託を始める」
九条は転がり出た骨に触れた。
流れ込んできたのは、凄まじい「執念の連鎖」だった。
今回の「被害者」は、実は数十年前の殺人犯だった。そして、彼を殺そうとした「加害者」は、その事実に気づいた復讐者。
だが、被害者は死の直前、自らの遺体を巧妙に隠し、現場に「自分が生きているかもしれない」という疑念を残すことで、加害者が一生、捕まる恐怖と死の影に怯えて生きるように呪いをかけたのだ。
九条は、骨から立ち昇るどす黒い未練を、自分の中の「死の過密地帯」へと引きずり込んだ。
彼の脳裏に、自問自答の声が響く。
(救いとは何だ。死なせることか。それとも、罪を抱えたまま生かせることか)
九条の背後の影たちが、骨を包み込むように蠢く。
やがて、部屋を満たしていた不気味な視線が、霧が晴れるように消えていった。
「結局、今回の被害者の遺体は、マンションの受水槽から見つかったよ」
翌朝、火野がコーヒーをすすりながら報告した。
「加害者は、自分が殺した男の幽霊に追い詰められて、自ら出頭したそうだ。……九条ちゃん、あんたが骨を『洗った』せいで、呪いのバランスが崩れたんじゃねえか?」
九条は、窓の外を眺めながら答えなかった。
机の上には、あのカセットテープが置かれている。今はもう、ただのノイズしか流れない。
「先生。あの骨の人は、もう静かになったんでしょうか」
ハルが心配そうに尋ねる。
「……ああ。彼らは、次の受取人を待つ必要がなくなっただけだ」
九条は自分の手のひらを見つめた。
他殺という強烈な悪意に触れても、自分の体は一向に傷つかない。
死者の憎しみすら、自分を守る「先祖の壁」に阻まれて、自分を殺すことができない。
「私は、彼らの罪を託された。だが、私の孤独を誰が引き取ってくれるのか」
九条漸の呟きは、都会の喧騒にかき消されていった。
お調子者の火野が「さあ、報酬の分配だ!」と笑い、ハルがそれに頷く。
そんな、いつもと変わらない、けれどどこか歪な日常が、再び続いていく。




