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漸託師 【sentakushi】  作者: Alicecloud


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第5話:境界線の子供

先生は、私を助けたつもりなんてないって、そう言うんですよね」

ハルが、事務所の古い棚を丁寧に拭きながら、背を向けたまま呟いた。

九条漸くじょう ぜんは、机に並べられた古い懐中時計を分解する手を止めず、低く答える。

「事実だ。あの日、お前が私の前に現れたのも、私がそこを歩いていたのも、統計学上の偶然に過ぎない」

「……それでも。あの時、先生が私の手を掴まなければ、私は今ここにいませんから」

ハルが振り返り、少しだけ困ったように笑う。

九条はその視線を受け流し、時計の微小な歯車をピンセットで摘み上げた。

二年前。九条と火野は、地方にある「自殺の名所」と呼ばれる断崖を訪れていた。

依頼は、半年前にそこで消えた女性の遺品探し。

冷たい海風が吹き荒れる中、九条は柵も何もない崖の縁を、まるで平地を歩くように進んでいた。

「おい九条ちゃん、あんたは落ちても死なねえだろうが、俺は無理だぜ。あんまり攻めるなよ」

離れた場所から火野が声をかける。

九条が足元に転がっていた「赤い靴」を拾い上げた、その時だった。

茂みの奥から、一人の少年が飛び出してきた。

当時、まだ中学生だったハルだ。

ハルの瞳は焦点が合わず、ひどく濁っていた。彼は何かに導かれるように、迷いのない足取りで崖の端へと向かっていく。

「おい、坊主! 止まれ!」

火野の叫びは風にかき消された。

ハルの足が、崖の縁を越えた。

重力が彼を暗い海へと引きずり込もうとした、その瞬間。

九条の体が、物理的にはありえない速度で前傾した。

彼の足元にある岩が「たまたま」崩れ、その反動で九条の体は前方へ弾き飛ばされたのだ。

九条は空中でハルの手首を強く掴んだ。

二人の体は、断崖の外へと放り出される。

「……終わった」

火野が顔を背けた。

だが、奇跡が起きた。

九条のコートの裾が、崖から突き出していた枯れ木の根に、まるで意思を持っているかのように絡みついた。さらに、九条を掴もうとしたハルの指先が、崖の亀裂に深く入り込んだ。

二人を繋ぐその細い腕を、九条を囲む「無数の影」が支えていた。

九条は、宙吊りの状態でハルを見つめた。

ハルの背後には、彼を崖下へと誘っていた「別の死者の執念」が、黒い泥のようにまとわりついていた。

「……お前の『死』は、まだ誰にも託されていない」

九条の冷たい声が、ハルの意識を覚醒させた。

九条はそのまま、自由な方の手でハルの額に触れ、彼を支配していた「毒」を自分の中へと引き抜いた。

泥のような未練が、九条の体を通り、背後の先祖たちの壁へと霧散していく。

漸託ぜんたく」の衝撃。

その直後、二人の重みに耐えかねた木の根が折れた。

しかし、落下した先には、満潮でせり上がっていた海面と、そこに「たまたま」流れてきていた巨大な漁網の束があった。

二人は、冷たい水飛沫を浴びただけで、生還した。

「あの時、私を引っ張っていた嫌な重さが、先生に触れられた瞬間に消えたんです。……あ、これが『洗う』ってことなんだって」

ハルは掃除の手を止め、九条の机に歩み寄る。

「だから私、先生の近くにいたいんです。いつか先生が、自分自身の重さに耐えられなくなった時、今度は私が何かを託してもらえるように」

九条は、ようやく時計から目を離し、ハルを見た。

その瞳は相変わらず冷たかったが、わずかに揺れたようにも見えた。

「……お前は、死の匂いに慣れすぎている。普通の子供に戻れと言ったはずだ」

「無理ですよ。先生の助手以上に、刺激的な仕事なんて他にありませんから」

ハルが茶目っ気たっぷりに笑うと、ドアが乱暴に開いた。

「よお! 湿っぽい話はそこまでだ。九条ちゃん、次は『他殺』の匂いがプンプンする特大の案件だぜ。現場は封鎖されてるが、あんたの運なら余裕で潜り込めるだろ?」

火野が、血生臭い資料をテーブルに放り出した。

九条は再び無機質な顔に戻り、コートを手に取った。

「ハル。記録の準備を」

「はい、先生!」

一人の観察者と、一人の仕掛け人、そして一人の継承者。

歪な三人の「死を巡る日常」が、再び動き出す。

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