第3話:声の墓標
「……これ、壊れてるんじゃないですか? ずっとザーザー鳴ってるだけで」
ハルが眉をひそめ、ボイスレコーダーを耳に押し当てた。
「いや、ハルちゃん。それが『壊れてねえ』から、こっちに回ってきたんだよ」
火野が、面白がるようにガムを噛みながら言った。
今回の依頼品は、ある有名な登山家が遭難死した際、その手に握りしめられていたというボイスレコーダーだ。
遺族の話によれば、中身を確認しようとしてもノイズしか聞こえない。だが、不思議なことに、九条漸の事務所があるこの雑居ビルに持ち込まれた途端、録音の残り時間が「リアルタイムで増え続けている」という。
九条は、ハルの手から無造作にその機械を奪い取った。
彼が再生ボタンを押した瞬間、部屋の温度が数度下がったような錯覚をハルは覚えた。
「先生、やっぱりノイズしか……」
「いや。……聞こえるぞ。彼は、まだ『話して』いる」
九条の瞳は、レコーダーの小さな液晶画面を冷たく見据えていた。
九条の言葉通り、それは奇怪な録音だった。
死後三ヶ月が経過しているはずの男の声が、ノイズの底から這い上がってくる。
「……寒い。……まだ、書き足りない。……あいつに、……あいつにだけは、伝えないと……」
九条は火野に命じ、男が最後に登った山の麓へと向かわせた。
アングラな情報網を持つ火野が突き止めたのは、その登山家が、かつてパートナーを見捨てて自分だけ助かったという黒い噂だった。
「なるほどな。裏切り者の罪悪感ってわけだ。こりゃあ、未練の塊だな」
火野が鼻で笑うが、九条は何も答えない。
彼は時折、フラッシュバックする自分の過去を反芻していた。
事故の瞬間、自分を押し止めた「無数の手」。
彼らは自分に何を伝えたかったのか。あるいは、何を伝えさせないために、自分をこの世に留めているのか。
九条は、事務所の奥にある防音室に籠もり、「漸託」の準備を始めた。
死者の声を「濾過」するには、自らがその声を依代として受け止めなければならない。
九条がレコーダーのイヤホンを耳に刺した瞬間、背後で重い棚が音を立てて倒れた。
ハルが悲鳴を上げる。だが、倒れた棚は九条の座る椅子の数ミリ手前で止まり、彼を傷つけることはなかった。
「……黙っていろ。今は、彼の時間だ」
九条の声が、不自然に低く響く。
録音されていたのは、恨み言ではなかった。
ノイズの正体は、猛吹雪の音。そして、その中で男が最期まで叫び続けていたのは、見捨てたはずのパートナーの名前と、「お前が落としたピッケルは、あそこの岩陰にある。生きて戻れ」という、必死の道標だった。
男は、自分の罪を贖うために、死後もなお、ノイズの中に「声の地図」を刻み続けていたのだ。
翌朝。
ボイスレコーダーの録音時間は止まり、中身は完全な無音に変わっていた。
九条は、抽出した「地図のデータ」を、匿名で
その件のパートナーへ送り届けた。
「先生、あの人は救われるんでしょうか」
ハルが心配そうに尋ねる。
「さあね。死者の想いを受け取った生者が、どう生きるかまでは私の管轄外だ」
九条は、いつものように冷たい瞳で窓の外を見た。
自分を取り囲む先祖たちの気配。彼らもまた、自分に何かを「伝えたい」からこそ、こうして死を遠ざけているのだろうか。
九条は、電源の切れたボイスレコーダーに自分の声を吹き込むように呟いた。
「……私は、まだ何も持っていない」
自問自答の末に、彼は再び沈黙に沈んでいく。
お調子者の火野が「次の仕事だ!」とドアを蹴破るように入ってくるまで、その静寂は続いた。




