第2話:静かなる墜落
「死ぬ間際の人間が吐き出す言葉には、二種類ある」
九条漸は、錆びたピンセットで、届けられたばかりの「遺書」の端を摘み上げた。
「一つは、生への未練を塗り固めた嘘。もう一つは、死という完成を目前にした真実。……だが、これはどちらでもない」
「どちらでもないって、じゃあ何なんですか、先生」
助手のハルが、淹れたてのコーヒーを盆に乗せておずおずと近づく。
事務所のソファでスポーツ新聞を広げていた火野が、ガラガラとした声で割って入った。
「『ゴミ』だよ、ハル。この一週間、線路に飛び込んだ男の『遺書』が、街中の至る所で見つかってる。駅のベンチ、公園のトイレ、警察署の受付。防犯カメラには誰も映っちゃいねえ。風に吹かれて飛んできたように、スッと現れるんだとさ」
火野が持ってきた資料には、線路に飛び込んだ身元不明の男の写真があった。
遺書の内容はどれも同じ。『今日、私は死ぬことにした。明日の降水確率は三〇パーセントだ』。
遺族からは「早く成仏させてくれ」と依頼が来ているが、九条はその紙片から漂う、凍りつくような虚無感に目を細めた。
「……この男、死ぬつもりなどなかったな。行くぞ。彼の『居場所』が、まだそこにある」
深夜二時。最終列車が過ぎ去った後の駅ホーム。
九条は一人、男が飛び込んだとされる地点、黄色い点字ブロックの上に立った。
「先生、危ないですよ!」
ハルの制止を無視し、九条はあえてホームの縁に爪先を出す。
その瞬間、九条の背中を、氷のように「冷たい手」が押した。
物理的な衝撃ではない。魂を崖下に突き落とすような「拒絶」の力。
九条の体は、吸い込まれるようにホームから線路へと落下した。
(……また、これか)
宙を舞う一瞬。九条の視界に飛び込んできたのは、迫り来る鉄塊ではなく、線路脇に放置された山積みの緩衝用マットだった。保線工事のために「たまたま」置かれ、回収し忘れられていたもの。
九条の体は柔らかなマットの上に沈み込み、反動で軽く跳ねた。致命的な瞬間に、世界の物理法則が彼を救うように捻じ曲がる。
九条は無傷で立ち上がり、煤けた服を払うこともせず、線路の暗闇を見つめた。
そこには、バラバラになったはずの男が、五体満足な姿でうずくまっていた。
「……悪いが、私には先約が多すぎるんだ。一人の時間は、当分与えてもらえそうにない」
九条は男の傍らに座り、自問自答するように静かに語りかける。
「君は、誰かに止めてほしかったわけじゃない。ただ、自分が消えても世界が回り続けるのが、どうしても信じられなかった。だから、自分の言葉(遺書)を世界にばら撒き、楔を打ち込もうとした。……だが、君の言葉は誰にも届いていない。ただのノイズだ」
男の影が、ガタガタと震え出す。
「……配ってなんて、いない。ただ、書かなければ。明日、雨が降るなら傘を持っていかなきゃいけない。そう思っているのに、どうしても体が先に落ちてしまったんだ」
男は、死にたかったわけではなかった。あまりに平凡で、誰にも気づかれない日常に耐えられず、「死」というイベントで世界に自分を刻もうとした。増殖する遺書は、彼の「私を見てくれ」という叫びの残骸だった。
「君の『明日』は、私が預かろう。……もう、手紙を書く必要はない」
九条は男の影に手を伸ばした。
「漸託」の開始。九条の体の中に、巨大な空虚が流れ込んでくる。
九条の脳裏に、かつて自分が経験した事故の記憶が重なる。トラックのライト、悲鳴。そして自分を包み込む、無数の先祖たちの冷たい抱擁。
九条が深い溜息をつくと、男の影は霧のように霧散していった。
翌朝。街中に溢れていた遺書は、嘘のように一枚も発見されなくなった。
事務所に戻った九条は、机の上に一枚の真っ白な便箋を置いていた。
「先生、結局あの遺書には何が書いてあったんですか?」
ハルの問いに、九条は少しだけ目を細めた。
「何も。……ただの、一日の献立の予定と、明日の天気の心配だけだ。彼は、明日も生きるつもりで、今日死ぬことを選んでしまった。人間は、矛盾したまま死ねる唯一の生き物だよ」
「報酬、きっちり回収してきたぜ!」と火野が部屋に飛び込んでくる。
九条はその喧騒を背に、窓の外を見上げた。
昨日、男を突き落としたあの「冷たい手」の感触が、まだ微かに残っている。
それは先祖たちの手だったのか。それとも、死にたがっている自分自身の手だったのか。
答えは出ない。ただ、彼にしか見えない微かな跡で、便箋にはこう記されていた。
『明日は、晴れるといいですね』
「……ああ。そうだな」
誰に宛てるでもない言葉を一つ零し、九条漸は再び、掴みどころのない観察者の目に戻った。




