第14話 名前のない花束
極楽師との死闘から二週間。
地下貯水槽の事件は、公式には「大規模な集団食中毒を伴う幻覚症状」として片付けられた。九条の右手の震えは、奇跡的に収まりつつあったが、代わりに彼は**「ある一人の人物」**の記憶だけが、どうしても思い出せずにいた。
「……火野。あの日、私の背中を最後に押したのは、誰だった?」
九条漸は、事務所のソファでブランケットに包まりながら問いかけた。
「はあ? 俺とハル坊、それにあの偏屈な逆瀬の野郎に決まってるだろ」
火野がリンゴを剥きながらぶっきらぼうに答える。ハルも隣で小さく頷いた。
だが、九条の心には、パズルの最後のピースが欠けているような、奇妙な空虚感が居座っていた。
「漸託」の際、聖母の巨大な絶望を飲み込む直前。確かに、自分ではない「誰か」が、その重みの半分を、黙って肩代わりしてくれた感触があったのだ。
その「小さな謎」を解く鍵は、事務所のポストに投げ込まれた、一通の無記名の手紙だった。
中には、押し花にされた、見たこともない「紫色の小さな花」が一つ。
九条はその花に触れた瞬間、意識が深い記憶の底へとダイブした。
「……あ」
それは、あの時、救った、あの**『線路に飛び込んだ、明日を気にしていた男』**の残留思念だった。
男はあの時、九条に「明日」を預けて消えたはずだった。しかし、彼は完全に消滅したわけではなく、九条の「先祖の壁」の内側に、一人の『居候』として、密かに居座っていたのだ。
極楽師との戦いの最期。先祖たちがその身を捧げて消えゆく中で、この「名前のない男」だけが、九条を守るためではなく、**「明日を生きる友人」**として、九条の精神を支え、毒の半分を連れて消えていったのだ。
「……そうか。お前だったのか」
九条は、押し花をじっと見つめた。
男は最期に、九条にこう伝えたかったのかもしれない。
「死者に囲まれるのは窮屈だろうから、せめて最後は、ただの『隣人』として助けたかった」と。
事務所の窓の外。逆瀬が黒いコートの襟を立てて、ビルの下を通っていくのが見えた。
彼は一度だけ立ち止まり、九条の事務所の窓を見上げた。そして、短く鼻を鳴らすと、人混みの中へと消えていった。
彼の手にも、同じ紫色の花が握られていたことを、九条は知らない。
「先生、どうかしたんですか? その花、綺麗ですね」
ハルが覗き込む。
「……ああ。これは、私が初めて『依頼』としてではなく、私物として預かったものだ」
九条は、あの「何も入っていないフォトフレーム」に、その紫色の押し花を収めた。
かつては「不在」を象徴していたフレームが、今は「誰かがいた」という確かな証拠を飾っている。
「火野。ハル。……次の依頼に行こう」
九条は、まだ少しだけ覚束ない足取りで立ち上がった。
右手の震えは、彼が自分自身の意志で抑え込んだ。
「今度は、どんな想いを洗えばいい?」
九条漸の瞳には、もう迷いはない。
自分を守る壁はなく、未来を保証する偶然もない。
けれど、彼には「痛み」を分かち合った仲間と、名前も知らない友人が残してくれた、温かな記憶があった。




