第13話:浸食される肉体
火野の妹、サキの「記憶」を奪還してから数日。事務所には平穏が戻ったかに見えたが、九条漸の体には、隠しきれない異変が生じ始めていた。
「……先生、その右手の震え、まだ止まらないんですか?」
ハルが心配そうに覗き込む。九条の右手は、ペンを持つことさえままならず、細かく痙攣していた。先祖の壁を失った状態で、極楽師の「忘却の呪い」を強引に濾過した代償は、彼の神経系に深い傷跡を残していた。
「……ただの筋肉疲労だ。気にするな」
九条は左手で右手を抑え込み、冷淡に言い放つ。だが、彼の視界の端には、時折、現実には存在しない「白い花びら」がチラついていた。極楽師の毒は、濾過しきれずに九条自身の精神に深く根を張っていたのだ。
そこへ、逆瀬が血相を変えて飛び込んできた。
「九条! 悠長に震えている暇はないぞ。奴らの本陣を見つけた。……『静謐なる繭』。街の地下にある巨大な廃貯水槽だ」
逆瀬の情報によれば、極楽師のリーダーである**『聖母』**と呼ばれる人物が、街全体の「死」を一括して消去し、巨大な集団幻覚の中に市民を閉じ込めようとしているという。
「九条ちゃん、今のあんたの体じゃ無理だ。俺が行く」
火野が散弾銃を握りしめるが、九条はよろけながらも立ち上がった。
「……火野。お前の妹を救ったのは、私の力ではない。お前の『痛み』だ。……聖母の楽園を壊すには、私の濾過と、逆瀬の断絶、そしてお前たちの『生』の力が必要だ」
九条の瞳には、かつての無機質な光ではなく、燃えるような執念が宿っていた。
「私は、自分の時間が止まっていた頃には戻りたくない。痛くても、傷ついても、私はこの世界で生きたいんだ」
地下貯水槽。そこは、数千、数万もの白い花が天井から垂れ下がり、甘ったるい死の香りが充満する異界となっていた。
中央の祭壇には、一人の美しい女性が座っている。彼女こそが極楽師の頂点、『聖母』。
「……哀れな子供たち。なぜそれほどまでに『苦しみ』に執着するのですか? 私に身を委ねれば、あなたたちの傷も、過去も、すべて美しい花びらに変えてあげられるのに」
聖母が両手を広げると、地下空間全体が激しく震動し、九条たちの足元から無数のツルが這い上がってきた。
「九条! ここは俺が断つ! お前はあの女の『核』を濾過しろ!」
逆瀬が叫び、黒い刃で道を切り開く。
「先生、私の手を! 離さないでください!」
ハルが九条の左手を握り、火野が前方から迫る信者たちを散弾銃のストックでなぎ倒していく。
九条は、震える右手を聖母の胸元へと突き出した。
触れた瞬間、九条の脳内に、聖母が抱えていた「究極の恐怖」が流れ込んでくる。
彼女はかつて、愛する者を一度にすべて失い、その喪失感に耐えきれず、世界から「死」という概念そのものを消去することを望んだ、悲しき狂人だった。
「……あなたの絶望も、私が預かる」
九条の体から、真っ黒な煤のような霧が溢れ出した。
それは、かつて彼を守っていた先祖たちの形見でもあり、彼がこれまで濾過してきた何百人もの「未練」の総体。
九条は自分自身の肉体を濾過器とし、聖母の巨大な怨念を、一滴残らず自分の中へ流し込んでいく。
「ぐ、ああああああ……!!」
九条の皮膚がひび割れ、そこから白い花ではなく、赤い血が、そして黒い想念が噴き出す。
「漸!!」
火野が叫ぶ。九条の意識が遠のき、世界が白く染まりかける。
その時。
九条の背後に、消えたはずの「無数の先祖たち」の幻影が一瞬だけ現れた。
彼らはもはや九条を守る壁ではなく、九条の背中を、ハルや火野と共に「支える手」として現れたのだ。
「……私は、一人ではない」
九条が力を込めると、聖母の「楽園」が内側から爆発するように崩壊した。
白い花はすべて枯れ果て、地下空間にはただ、冷たい水の音だけが響き渡った。
決戦の後。
聖母は力なく膝をつき、ただの老いた女性の姿となって涙を流していた。
逆瀬は剣を引き、忌々しげに顔を背けた。
「……チッ。結局、お前が全部吸い込みやがったな、九条」
九条は、ハルの腕の中で深く眠りに落ちていた。
その寝顔は、生まれて初めて「夜泣き」から解放された赤ん坊のように、穏やかだった。




