12話『欠けた風景』
「……九条ちゃん、悪いが今日は店じまいだ。俺、ちょっと野暮用があってよ」
火野が珍しく、依頼の資料も持たずに事務所を出ていこうとした。いつもなら軽口を叩くはずの彼の背中が、どこか強張っている。
九条漸は、包帯が巻かれた自分の手をじっと見つめ、火野の後ろ姿に声をかけた。
「火野。……その用事に、『白い花』は関係しているのか?」
火野の足が止まった。振り返った彼の瞳には、いつもの飄々とした光はなく、底冷えするような憎悪が宿っていた。
「……あんた、人の心まで濾過できるようになったのかよ。気色悪いぜ」
火野はそれだけ言い残し、ドアを乱暴に閉めて去っていった。
「火野さん、どうしちゃったんでしょう……。あんな怖い顔、初めて見ました」
ハルが不安そうに呟く。九条は立ち上がり、コートを手に取った。
「……彼は、自分の『欠けた風景』を埋めに行ったんだ。ハル、逆瀬を呼べ。火野を追うぞ」
火野が向かったのは、街の外れにある、今は使われていない古い廃校だった。
そこはかつて、火野が「掃除屋」になる前に、たった一人の妹と暮らしていた場所だった。
廃校の校庭は、異様な光景に塗り潰されていた。
一面に咲き誇る白い花。その中心に、一人の男が立っている。真っ白な法衣を纏い、顔をベールで隠した男――『極楽師』の一人だ。
「……また来たのか、火野。君の妹さんは、この『楽園』の中で、永遠に十歳のまま笑っている。悲しみも、貧しさも、死の恐怖もない世界でね」
「黙れ……! 妹を返せ、このペテン師野郎!」
火野が散弾銃を構えるが、銃口からは弾丸ではなく、白い花びらが溢れ出した。極楽師の「死(破壊)を無効化する」異能だ。
「君が妹さんを『死んだ』と認識するから苦しいんだ。忘れなさい。彼女は最初からいなかった。そう思えば、君の心も楽園になる」
火野が膝をつき、頭を抱えて絶叫する。彼の記憶の中から、妹の顔が、名前が、急速に白く塗り潰されていく。
「……いい加減にしろ。その『楽園』は、ただの独房だ」
校門に、九条と逆瀬が現れた。
逆瀬は忌々しげに舌打ちしながら、黒い手袋を脱ぎ捨てる。
「おい極楽師。お前のその薄ら寒い『無』の匂い、反吐が出るぜ」
逆瀬が地を蹴り、極楽師へ向かって黒い斬撃を放つ。だが、極楽師は動じない。
「『遺断師』か。すべてを断ち切る君こそ、私たちの世界に相応しい。君が消し去ってきた未練の分だけ、楽園は広がるのだから」
逆瀬の攻撃が、花のカーテンに吸い込まれて消える。
「クソッ、手応えがねえ……! 九条、何とかしろ!」
九条は、震える火野のそばに膝をついた。
「火野……思い出せ。お前の妹は、確かに死んだ。寒くて、痛くて、苦しい最期だったかもしれない。……だが、お前が彼女の死を悼んだあの時間は、偽物ではなかったはずだ」
九条は、火野の脳内に無理やり手を突っ込むように「漸託」を開始した。
極楽師が植え付けた「忘却の白」を、九条の痛みを伴う「記憶の色彩」で上書きしていく。
「……ぐ、あああああ!」
九条の目から血が流れる。先祖の壁がない今、他人の記憶を修復する負荷は、彼の脳を直接焼き焦がそうとしていた。
だが、九条の指先が、火野の記憶の奥底にある「小さな、泥のついた赤いリボン」に触れた。
「……サキ。……妹の名前は、サキだ!」
火野の声が響き渡った瞬間、校庭に咲き乱れていた白い花が一斉に枯れ、どす黒い塵へと変わった。
「……バカな。楽園を拒むのか? 悲しみを選ぶというのか!」
極楽師のベールが剥がれ、その下にある空っぽの顔が露わになる。
逆瀬はその隙を逃さず、極楽師の心臓部にある「異能の核」を、真っ二つに切り裂いた。
「……死者は死者だ。生者が勝手に塗り替えるんじゃねえよ」
極楽師は霧となって消え、廃校には再び、冷たい夜の風が吹き抜けた。
火野は、地面に落ちた本物の「赤いリボン」を拾い上げ、ボロボロと涙を流していた。
「……九条ちゃん。ごめんな。……あいつを忘れそうになった。俺、最低だ」
九条は、肩を激しく上下させながら、火野の肩を叩いた。
「……いい。忘れることも、思い出すことも、生者の特権だ」
逆瀬は遠くでそれを見ながら、鼻を鳴らした。
「……ケッ。揃いも揃ってウェットな野郎どもだ。……九条、立てるか? 帰るぞ。お前のそのボロ雑巾みたいな顔、見てられん」
九条は、逆瀬の肩を借りて立ち上がった。
かつての「無敵の神」だった頃よりも、今の九条は、ずっと強く、そして脆い。
「……火野。事務所に戻ったら、サキさんの話を聞かせてくれ。……漸託師として、記録しておきたい」
月明かりの下、三人の男と一人の助手が、ゆっくりと歩き出す。
彼らの影は、かつての「先祖の壁」よりもずっと小さかったが、その足取りはしっかりと地面を捉えていた。




