11話『剥落する楽園』
九条漸が「普通の人間」になってから、三ヶ月が過ぎた。
事務所の空気は少しだけ変わった。以前は「死の気配」を洗浄する場所だったが、今は「生者の未練」を整理する場所へと、その温度を上げている。
九条の右腕には、決戦の時に負った傷が、今も消えない薄紅色の痕として残っている。
「先生、またそんな高いところの資料を……! 台を使ってくださいって言ったじゃないですか」
ハルの叱咤が飛ぶ。脚立に登る九条の足取りは、かつてのように「絶対に滑らない」保証などどこにもない。九条は苦笑いしながら、一冊の古いアルバムを手に取った。
そこへ、火野が飛び込んでくる。その顔は、かつてないほど強張っていた。
「九条ちゃん、一大事だ。……『死体がない』どころじゃねえ。街から『死』そのものが消え始めてやがる」
現場は、この街で最も大きな総合病院だった。
一晩のうちに、末期患者や危篤状態だったはずの人間、計13人が、文字通り「消えた」のだという。争った形跡も、連れ出された形跡もない。ただ、彼らが眠っていたベッドには、奇妙な「白い花びら」だけが散乱していた。
「……これは死ではない。強制的な『生の延長』だ」
九条は、ベッドに残された花びらに触れた。
指先から伝わってくるのは、芳醇すぎるほどの生命力。だが、それは自然なものではなく、腐敗を無理やり止めたような、歪な熱だった。
「ひどい匂いだ。……吐き気がするな」
背後から、聞き覚えのある冷たい声がした。
振り返ると、そこには逆瀬が立っていた。
以前のような傲岸不遜な態度は影を潜め、どこかやつれた様子で、黒い手袋をはめた手で口元を覆っている。
「逆瀬……生きていたか」
「お前に背負わされた『重み』のせいで、死者たちの声がうるさくて眠れん。……九条、この事件、お前の手に負えるものではないぞ。これは想いの濾過だの断絶だのといったレベルではない」
逆瀬によれば、この街に**『極楽師』**と名乗る新たな異能者が現れたという。
その男は、死にゆく者の未練を喰らい、代わりに「終わらない幸福な夢」を植え付けることで、肉体ごと別次元の『楽園』へと連れ去ってしまうのだ。
「奴は死を否定し、すべての物語を『強制終了』させている。……九条、お前の大好きな『想いの継承』さえも、奴の楽園では無意味だ」
その時、病室の壁が波打ち始めた。
壁の隙間から、無数の白い花のツルが伸び、ハルの足首に絡みつく。
「わっ、何これ……! 先生、助けて!」
九条は反射的にハルの元へ駆け出そうとした。だが、今の彼には、かつてのような「偶然の神風」は吹かない。廊下に置かれたストレッチャーが足元に滑り込み、九条は派手に転倒した。
「……っ」
膝を打ち、苦悶の表情を浮かべる九条。その時、逆瀬が舌打ちをしながら指を鳴らした。
逆瀬の周囲に、黒い刃が走る。花のツルを一瞬で断ち切り、ハルを救い出した。
「……無様だな、九条。守護を失ったお前に、何ができる」
「……痛みを知った私にしか、見えないものがある」
九条は立ち上がり、膝の泥を払った。
彼の瞳には、逆瀬さえも驚かせるほどの強い意志が宿っていた。
「逆瀬。手を貸せ。……『楽園』に囚われた者たちに、正しい『終わり』を届けに行くぞ」




