託された明日
光が収まったとき、スクラップ工場には静寂だけが残っていた。
泥のような霧は晴れ、雲の間からは白々とした夜明けの光が差し込んでいる。積み上がった廃車の山が崩れたその中心で、九条漸は仰向けに倒れていた。
「先生! 先生!!」
ハルが必死に駆け寄り、九条の体を抱き起こす。
九条の全身は傷だらけだった。かつてのような「不自然な無傷」ではない。服は裂け、腕からは血が流れ、泥にまみれている。
その数メートル先。逆瀬もまた、力なく座り込んでいた。
彼の「遺断師」としての鋭い気配は消え、ただの、ひどく疲れ切った青年の姿があった。
「……九条。なぜ、私を殺さなかった」
逆瀬が枯れた声で問う。九条はゆっくりと目を向けた。その瞳は、もはや無機質なガラス玉ではない。痛みに耐え、熱を帯びた、人間の目だった。
「殺せば……それは、お前の手法と同じになる。私はただ、お前が断ち切ってきたものを、私の中に『避難』させただけだ」
九条の背後を埋め尽くしていた、あの「おびたただしい数の先祖たち」の姿は、もうどこにもなかった。
彼らは逆瀬の放った絶望を食い止め、九条を真に救うために、その身を捧げて消滅したのだ。九条をこの世に繋ぎ止めていた「呪縛」という名の守護は、今、完全に失われた。
「……私の勝ちだな、九条。お前はもう、ただの人間だ。次、何か落ちてきたら、お前は死ぬ」
逆瀬は自嘲気味に笑い、よろよろと立ち上がった。
「だが……。お前に背負わされたこの『重み』、消し去るには時間がかかりそうだ。次に会うまで、せいぜい死なないように気をつけるんだな」
逆瀬は一度も振り返ることなく、朝靄の向こうへと消えていった。
一ヶ月後。
事務所の窓からは、穏やかな春の陽光が差し込んでいた。
九条は、右腕に包帯を巻いたまま、机に向かって古い万年筆を直していた。
「先生、無理しないでください。まだ傷、開いてるんですから」
ハルが呆れ顔でお茶を置く。
「……ハル。昨日、階段で躓いた。……膝を擦りむいたよ」
九条が、真顔で報告する。
「あはは、もう、それ何回目ですか? 普通の人はそれを『ドジ』って言うんですよ」
そこへ、ドアが景気よく開いた。
「よう、九条ちゃん! 怪我人の様子はどうだ?」
火野が、両手に紙袋を抱えて入ってきた。中には高級な和菓子と、一枚の依頼書。
「新しい案件だ。今度は幽霊じゃねえぞ。ある老婦人が、亡くなった旦那の『隠し財産』じゃなくて、『隠し通した愛』を探してほしいってよ。……あんたの出番だろ?」
九条は、わずかに口角を上げた。
「……ああ。漸く、託される準備ができた」
九条は立ち上がり、コートを羽織る。
もう、背後に冷たい気配はない。代わりに、隣にはお調子者のバディと、純粋な助手がいる。
彼は一歩一歩、自分の足で床を鳴らし、ドアへと歩み寄った。
偶然の救済など、もういらない。
彼は自分の意志で歩き、自分の痛みを感じ、そして他者の想いを引き継いでいく。
「行くぞ。……まだ、私の知らない『死』が、誰かの物語として待っている」
事務所の看板には、以前よりも少しだけ誇らしげに、新しい文字が刻まれていた。
――『漸託師 九条漸。想いの行先、整えます』。
空は、どこまでも青く、澄み渡っていた。




