第10話:終焉の濾過
「……いよいよ、この街の『死』が枯渇し始めたな」
逆瀬は、高層ビルの屋上で、眼下に広がる夜景を見下ろしていた。
彼の周囲では、空間がひび割れたように歪んでいる。逆瀬がこれまでに断ち切ってきた数多の「未練」の残骸が、黒い泥となって街に溢れ出していた。彼が死者の痕跡を消せば消すほど、世界から「救い」の余地が消え、冷たい虚無が侵食していく。
「九条。お前の『過保護な壁』も、この泥の中では無力だ」
「先生、外の様子が変です。霧が……真っ黒な霧が街を飲み込もうとしています」
ハルが窓の外を指さし、怯えた声を出した。
九条漸は、机の上に広げた「洗浄」途中の時計の部品を一つ一つ、静かに片付けた。
先日の両親の解放以来、九条の体には小さな傷が増えていた。彼はもはや、絶対無敵の存在ではない。
「逆瀬か。……彼は、世界そのものを『断絶』させようとしている」
「行かせねえよ」
火野が、重い散弾銃を肩に担いで立ちふさがった。その目は、いつもの軽薄さを捨て、九条を守るという強い決意に満ちている。
「あんたはまだ、傷だらけのひよっこだ。あんな化け物とやり合うには、俺の『汚れ仕事』のスキルが必要だろ?」
九条は、火野の肩にそっと手を置いた。
「火野、ハル。これは私と彼の、積年の自問自答の決着だ。……だが、お前たちがいてくれるなら、私は『一人の死者』としてではなく、『一人の生者』として戦える」
決戦の場所は、九条と火野が出会ったあの「スクラップ工場」だった。
土砂降りの雨の中、逆瀬が黒い霧を纏って立っている。
「来たか、九条。お前のその薄汚れた『先祖の壁』ごと、この世界から消し去ってやる」
逆瀬が腕を振るうと、黒い泥の刃が九条を襲った。
かつてなら、偶然の突風がそれを弾いただろう。だが、今の九条は違う。
「……っ!」
九条は自ら泥の中に飛び込み、右腕に深い切り傷を負いながらも、逆瀬の懐へと踏み込んだ。
「偶然の救済など、もういらない。私は私の意志で、お前を受け入れる」
九条の手が、逆瀬の胸元を掴む。
その瞬間、九条の背後にいた「先祖たちの壁」が、初めて九条の体を離れ、逆瀬を取り囲む巨大な円陣へと姿を変えた。
それは、九条を守るための盾ではなく、逆瀬が断ち切ってきた「消された死者たち」を繋ぎ止めるための、広大な『器』となった。
「何をしている……! 離せ! 貴様まで消えてなくなるぞ!」
逆瀬の顔が驚愕に歪む。
「消えはしない。……すべて私が、漸く(ようやく)託されるだけだ」
九条の体を通じて、街中に溢れていた黒い泥が、猛烈な勢いで吸い込まれていく。
それは、一人では耐えきれないほどの、膨大な死者の絶望と怨念。
九条の体中の傷口から血が噴き出し、彼の意識が白濁していく。
(……ああ。これが、皆が感じていた『死』の重さか)
九条の脳裏に、火野の笑い声と、ハルのひたむきな眼差しが浮かぶ。
その光が、九条の中にある冷たい虚無を、温かな色彩で塗り替えていく。
「逆瀬……お前の孤独も、私が洗ってやる」
九条の咆哮と共に、工場の廃材が「偶然」ではなく「必然」として逆瀬を押し包み、二人の体は眩い光の中に飲み込まれていった。




