第1話:帰還する指輪
「死ぬかと思った、なんて言葉は、私には滑稽に聞こえる」
九条漸は、窓の外を眺めながら独りごちた。
視線の先では、数分前に屋上から落下した鉢植えが、地面で無残に砕け散っている。ほんの数センチ横を歩いていた九条の肩には、土の一粒すら跳ねていない。
「先生! また自問自答モードですか? 早く来てください、火野さんが面白いもの持ってきたんですよ!」
助手のハルが、少し緊張した面持ちで部屋の奥から声をかける。九条は、整いすぎた無機質な顔をゆっくりと向け、足音もなく移動した。
薄暗い事務所のテーブルには、派手なアロハシャツを着た火野が、場違いに上品なビロードの箱を広げていた。中には、古めかしい、だが一目で高価だとわかるエメラルドの指輪が鎮座している。
「これですよ、九条ちゃん。今回の案件。……通称『ブーメラン・リング』」
火野がニヤニヤしながら説明を始めた。
依頼主は地元でも有名な資産家の遺族。先代の当主が亡くなった際、愛人に贈ったはずのこの指輪が、葬儀の翌朝、なぜか当主の仏壇の上に戻っていたという。
売っても、捨てても、警察に預けても、翌朝には必ず仏壇、あるいは当主の遺影の前に戻ってくる。
「愛人の呪いか、死んだ親父さんの執念か。遺族はノイローゼ気味でね。これを『洗浄』して、二度と戻ってこないようにしてほしいってさ」
ハルが指輪を覗き込み、身震いした。
「……なんだか、見てるだけで寒気がします。指輪が泣いてるみたいだ」
九条は、冷たい目で指輪を見つめた。
彼には、指輪を取り囲むように蠢く、黒い澱のようなものが見えていた。
それは愛でも悲しみでもない。もっと泥臭く、不潔な、生身の「欲」だ。
「ハル、準備を。……『漸託』を始める」
深夜。九条は一人、指輪の本来の受取人であった愛人の空き家にいた。
埃の舞う室内で、彼は迷いなくその指輪を自らの指にはめる。
「さあ、見せてくれ。君たちが私に何を託したいのか」
その瞬間、九条の脳内に強烈なフラッシュバックが奔った。
――ブレーキの壊れたトラック。火花。誰かの叫び声。
――「まだ、こっちへ来るな」という、無数のしわがれた声。
九条が眉間に皺を寄せた、その時だった。
背後の暗闇から、大柄な男が鉄パイプを振りかざして躍り出た。遺産を独り占めしようと画策し、指輪の秘密を知る親族の一人だ。
「死ね! 証拠ごと消えてなくなれ!」
凄まじい風切り音。だが、次の瞬間、男の悲鳴が響いた。
九条が避けたのではない。振り下ろされたパイプが、偶然にも天井から垂れ下がっていた腐食した鎖に絡まり、軌道が大きく逸れたのだ。
勢い余った男は壁に激突し、崩れてきた古い家財道具の下敷きになった。
九条は無傷のまま、ゆっくりと男を見下ろした。その瞳には、恐怖も怒りもない。
「……無駄だよ。私は死なない。まだ『彼ら』に許されていないからね」
九条は指輪をはめた手を男の目の前に突き出した。
「この指輪が戻ってきたのは、呪いじゃない。君がこれを盗み出すたび、この指輪に仕込まれた『ある秘密』に怯え、無意識に元の場所へ戻していただけだ。君自身の罪悪感が、この指輪をブーメランに変えていた」
九条が指輪の裏側にある微細な突起を操作すると、エメラルドの台座がわずかにスライドし、中から極小のマイクロチップが姿を現した。先代が残した、親族たちの横領の全記録。
「想いは濾過した。これはもう、ただの証拠品だ」
翌朝。事務所に戻った九条は、鏡の前で自分の首筋をなぞっていた。
そこには、かつての事故で負ったはずの傷跡一つない。
「先生、お疲れ様です。指輪、もう戻ってこないんですね」
ハルが淹れたての茶を運んでくる。
「ああ。……託すべき場所に、託してきた」
九条は窓の外を眺める。自分を囲む無数の先祖たちの気配。
なぜ自分は生きているのか。なぜ死ねないのか。
その答えはまだ、誰からも「託されて」いない。
「……次は、どの死を洗えばいい?」
九条漸の冷たい瞳に、街の喧騒が映り込んでいた。




