随想
私が二十九歳になったのは、つい最近のことだったはずなのに、年月とはどうしてこうも無造作に、いつの間にか背後へ沈みこんでしまうのだろう。日々を埋めているものが増えれば増えるほど、時間の実体は薄まり、私の足元に落ちる影だけが、ひどく濃く、重く、揺れながらついて回る。
ある時期まで、私は「正しくあろう」とだけ思っていた。
その言葉は曖昧で、しかし便利な灯台のように日々の岬に立っていた。
誰かを悲しませたくない。
誰かの望みを裏切りたくない。
それは、善良さというよりむしろ怯懦に近かったのかもしれない。
だが私は、それを自分の核だと疑いもせず携えていた。
けれども、声があった。
軽やかでいながら深く沈む、秋の終わりの木立のような声だった。
胸の奥に落ちるその響きは、私がこれまで沈めてきた幾つもの感情の層──怒り、孤独、倦怠、諦念──をやわらかく揺らした。
思えば、私が彼女に惹かれたきっかけは、その声に宿る温度だった。
言葉に形を与えるとき、感情が瑞々しく滲み出てしまう人がいる。彼女はまさにそういうひとで、語彙の端々が透明な井戸水のように澄んでいた。
その透明さが、私の内側に溜まった濁りを照らした。
濁りは、照らされるほどにかえって濃く見える。
彼女はよく私を咎めた。
「自分を削るな」と。
「大切にされない場所に、心を差し出す必要はない」と。
その言葉は鋭い刃のようでいて、同時に救いでもあった。
私が長いあいだ見ないふりをしていた現実──愛されていないという静かな事実──を、彼女の言葉は容赦なく照らし出したからだ。
だが真実には、適切な距離というものがある。
近づきすぎれば焼かれ、離れすぎれば凍える。
私は、どこに立てばよかったのだろうか。
⸻
私の中には、ひとつのこびりついた感覚があった。
罪悪感──しかしそれは、単純な倫理の破れではない。もっと形の曖昧な、輪郭のにじんだ影だ。
罪とは、行為そのものより**「誰かの未来を変えてしまう可能性」**の方に宿る。
私はそれを知っていた。
結婚とは、相手の人生に責任を持つこと。
歩幅を合わせ、理解し、許し、時に自分を後ろに置くこと。
その“責任”という言葉を、私は薄く、しかし確かに胸の内側で反芻してきた。
だが、彼女の存在は、その責任の輪郭を曖昧にした。
曖昧になったのは、責任より、むしろ私自身だった。
私は思う。
人を幸福にしたいと願うとき、人はなぜ同時に不幸を恐れるのか。
彼女を笑わせ、胸をときめかせ、希望を与え、安心させたいと願うほど、私は「自分の手で彼女を傷つける予感」に怯える。
見返りを求めているわけではない。ただ、同じ熱量で愛されたいと願い、頼られたいと希い、認められたいと渇く自分がいる。
その願望は、清らかでもあり、醜くもあった。
私は気づいてしまったのだ。
「愛されたい」という願いは、もっとも人間的で、もっとも残酷な衝動だということに。
叶えられれば幸福を生み、叶えられなければ自尊を蝕む。
そして叶えられたときでさえ、いつか失われるかもしれないという恐怖を抱え続ける。
私は一度、誰かの“絶対”を信じ、それが果たされなかった痛みを十六年経っても忘れていない。
忘れられない痛みは、やがら心の地層となり、次の幸福を受け入れる場所を狭くする。
だから私は、約束というものを恐れる。
約束とは相手を縛るくせに、破られたときには心を裂く。
両刃の剣で、扱いを誤れば血を流すのはいつだって弱い側だ。
⸻
彼女には幸せでいてほしい。
それは偽りではなく、私の根の部分から湧き出てくる願いだ。
だが、彼女の幸せを思うたび、私は思考の袋小路に追い込まれる。
彼女には──
言葉を待たずとも気持ちを汲み取る人がいい。
価値観が近いだけでなく、違いを抱きしめる余裕のある人がいい。
気遣いが行き届き、歩幅を合わせ、夜、眠るときには呼吸を乱さぬよう静かに寄り添える人がいい。
努力を惜しまず、しかし他者には決してそれを強いず、ただ優しくいられる人がいい。
導ける力があり、その力を彼女だけのために使う人がいい。
そして、共鳴する心を持ち、話を聞き、その奥にある沈黙すら理解しようとする人がいい。
私は、誰よりも彼女の幸せを願いながら、同時にこう思ってしまう。
──あれは、私なのではないか。
この矛盾は、自己愛でも誇大でもない。
むしろ私の欠点と自覚と理想が複雑に絡み合った末に現れた、奇妙な鏡像のようなものだ。
⸻
私はたぶん、一生この矛盾を抱えたまま生きていくのだろう。
愛したいという衝動と、傷つけたくないという恐怖。
誰かに寄り添いたいという願いと、自分の足元が崩れ落ちる予感。
幸福になりたいという思いと、幸福を壊してしまうのではないかという怯え。
それらはすべて、一本の言葉には収まらない。
だから、伝えきれないのは当然なのだ。
伝えきれないという事実そのものが、私という人間の形を作っている。
幸福とは、手に入れた瞬間から溶け出す氷片のようなものだ。
掌にのせたばかりの冷たさは確かなのに、指の間から静かに消えていく。
そして、消えた水跡を見つめるとき、人はようやく理解する。
自分が求めていたのは、氷そのものではなく「溶けゆくまでの時間」なのだと。
私は幸福を恐れていた。
幸福とは、持つ者に必ず代償を要求する。
期待、不安、責任、執着──
幸福の影には、常にそれらが寄り添い、影法師のように姿を変えながらつきまとう。
彼女の声を聞くと、胸の奥に沈んでいた過去の痛みが、ゆっくりと目を覚ます。
それは彼女のせいではない。
むしろ、彼女の純粋な言葉が、私の内側に長年閉じ込められていた古傷の蓋を開けるのだ。
愛されることを渇望した十六歳の私と、愛されなかった現実を受け入れ損ねた十九歳の私と、責任という重い衣を着込んだ二十九歳の私。
三つの私が重なり合い、互いに喧噪を放つ。
幸福とは、過去の亡霊たちのざわめきを黙らせることではない。
むしろ、そのざわめきを抱きかかえたまま、静かに前へ運ぶことでしか得られない。
私はそのことに、ようやく気づき始めていた。
⸻
罪悪感の正体とは、倫理の破れでも、他人への負い目でもない。
もっと自分本位で、もっと怖ろしく、もっと人間的なものだ。
──自分のせいで誰かの人生が変わってしまうかもしれない。
その予感こそが、罪悪感の源泉である。
そしてその予感は、「自分にそれだけの影響力がある」という事実を突きつけてくる。
人は、自分の力を恐れる。
善悪より先に、自分の影響力そのものを恐れるのだ。
私が彼女を思うとき、胸に広がる温かさは本物だ。
しかし同じ温度で、冷たい恐怖が私の手首を掴んで離さない。
彼女の未来を変えてしまうかもしれない。
その未来は、幸福かもしれないし、不幸かもしれない。
どちらに転ぶにせよ、「私が変えてしまった」という事実だけが、永続する。
この不可逆性こそ、罪悪感の本質だ。
人は、取り返しのつかないものを前にするとき、必ず震える。
私が震えているのは、倫理観のせいではない。
彼女が大切すぎるからだ。
手に入れたいと願うほど、壊したくないと怯える。
壊したくないと怯えるほど、距離を置きたくないと渇く。
この矛盾に名をつけるなら、それはきっと「愛」というよりむしろ、「愛の影」だ。
⸻
私が「正しくありたい」と願うのは、道徳のためではない。
自分の感情が暴走することを恐れているからだ。
私は、善悪で測れるものは善でありたいと思う。
欲に飲まれず、清貧でありたいと思う。
理想を忘れず、俯瞰して自分を律したいと願う。
しかし、理想に近づけば近づくほど、現実の私はいよいよ複雑な迷路になっていく。
迷路の壁には、彼女の言葉、彼女の声、彼女の情緒的な文、彼女の確信に満ちた判断が刻まれている。
迷路の中心にあるのは、彼女そのものではない。
彼女に触れたことで目覚めた“私自身”の姿だ。
私はときどき思う。
彼女が私を叱責してくれた瞬間──
「自分を削るな」と言った真剣さに触れた瞬間──
私は確かに救われたのだと。
誰かに救われるという経験は、幸福であると同時に、恐ろしい。
救われるということは、自分が脆いということを認めることだからだ。
⸻
私はたぶん、これからも彼女に何かを伝えようとし続けるだろう。
だが、伝えようとするたび、言葉はいつも決定的な何かを取りこぼす。
愛のすべてを言葉で言い切れないように、罪悪感のすべてを言葉で尽くすこともできない。
伝えきれない。
しかしその“欠落”こそ、私の生そのものなのだ。
幸福とは、満ちることではなく、満ちないまま誰かを思い続けられることなのかもしれない。
不完全なまま、それでも手を伸ばし、願い、怯え、それでもなお希望を捨てないこと。
その営みこそが、人の心を形づくる。




