王妃ピァ
王妃ピァ
「ソフィが揚げたパンに粉砂糖をかけてくれるって。」
ピァは急ぎ簡単な服に着替えて食堂に走る。
「そこは召使い給仕の食堂です。」
護衛のセスは顔色ひとつ変えずに答える。彼女は全速力で走っているのに滑るように着いてきて、冷静に助言する。
「だって今日は教会を訪問するのよ。孤児院の子たちにも会えるもの。ソフィのお菓子が必要なの。」
まだ日も上らぬ時間なのに、ソフィは食堂にいて、部屋中にパンの香りが漂う。
「おはようソフィ。お菓子ある?」
厨房を覗くと、正方形に小さく切ってあるパンがサクサクに揚がり、ふんわりと砂糖を纏っている。
「おいしい。」
つまみ食いをしてピァが微笑む。
「王妃様がそんなお行儀じゃあ皆が悲しみますよ。」
ソフィが朝ごはんの支度をしながら声をかける。後ろで無表情なセスの感情は読み取れない。
「そうね。たしかに怒ってるみたい。」
セスの顔色を伺いながら、ピァが答える。
「さ、さ、お持たせ用に包みますから、暫く暖かい紅茶でもお飲みになって。」
追い出されるように食堂に帰ると、初老の庭師が席を引いた。二人分のカップに並々と注がれたお茶を勧められ、笑顔で受け取る。庭師は何も言わずに席につき、机上のパン菓子に手を伸ばした。少し焦げたそれは、ソフィの失敗作だろうか。暫くすると、セスが暖かい砂糖菓子が入った籠を持ってきた。
「行きましょう。お時間です。」
ピァに差し出された紅茶を一気に飲み干し、セスは庭師にお礼を言う。
「ありがとう。ソフィ、ゼフ。」
スカートの裾をあげおじきをすると、王妃ピァは急いで自室へ帰った。
「相変わらず忙しい姫様だねぇ。」
厨房から庭師に食事を運び、ソフィがカップを片付ける。庭師ゼフは二人を見つめていたが少し笑って朝食をすすめた。
「間に合うかしら。」
従者たちがテキパキと支度を整える。朝食は父である王と済ませ、今日は王城下の城下町で教会を訪問しなければならない。
「今日は子どもたちがいるから楽しみなの。」
正装に着替え食事を済ませると、ピァは急いで馬車に乗った。後方の馬に跨がるセスの姿が見える。ピァが気になることはたった一つ。彼が砂糖菓子を持っていること。
王である父の横にいるだけでこれといった仕事はなかった。自分はまるで人形のようだとピァは思う。綺麗に着飾って微笑むだけの人形。
「なんてお美しい姫様なのだろう。金の髪はまるで天使様のようだ。」
外観に惑わされ、皆一つも理解してやしない。とピァは思う。
「砂糖菓子を配ってきた?」
近くで護衛するセスに声をかける。
「籠に入れて修道女に渡しました。」
セスはそつなく答えるが、ずっと護衛として付いていたのにいつの間にそんな時間があったのだろう。
ピァはあまりセスのことを知らない。彼は北の城から毎朝来る王族の護衛だ。王族の金色の髪とは正反対の闇に溶けそうな黒髪を背中で結び、漆黒の服を纏う。煌びやかな王族とは反対の生き方。でも祖先は一緒で、元は双子の兄弟だったらしい。
「ややこしいけど、とにかく金と黒の髪の双子の兄弟が産まれて、金髪の弟は表舞台の王族。黒髪の兄は裏舞台の護衛にまわったんだって。」
ピァはセスとの血の繋がりがなんだか嬉しくて悲しかった。
「私は護衛として役目を果たすだけです。」
セスはそう言っていつも淡々と職務をこなすけど、ピァは仕事以外でも彼と普通に話してみたかった。
「親戚とか仕事とかそういうのじゃなくて、そう、友達みたいに。」
以前、城下町にある騎士の訓練場を訪れたことがある。そこには騎士と騎士見習いがたくさんいて、毎日の訓練に勤しんでいた。
その日ピァは父と一緒に闘技大会を観戦した。朝一で父の護衛がセスの代わりに護衛をすると連絡があり、セスは近くにいなかった。不思議に思っていたがその謎はすぐに解けて、セスは闘技大会の舞台に騎士として立っていた。
普段は影のように近くにいるセスが、たくさんの人々から歓声を受け現れる。ピァはお日様の下で初めて彼の姿を見て驚いた。
そこには鍛え上げられた漆黒の騎士が立っており、彼の剣術に敵うものは一人もいなかった。女性たちの黄色い声が彼の名を呼び、視線は闘技場から去り行く姿に集まる。そう。セスは皆の憧れだったのだ。
「何か。」
セスに声をかけられて、ぼんやりしていた自分に気づいたピァは慌てて、なんでもないわ。と答えると手を振る人々に笑顔で答えた。本当は分かっている。きっと子どもたちにお菓子を届けたのは彼ではない。修道女たちが彼に集まってきて受け取ったに違いない。
一日の仕事と食事が終わり自室に戻ると、ピァは簡易な服に着替えてこっそり庭に抜け出した。ソフィにお礼がいいたかった。それ以外のことも話したかった。
「どちらに行かれるのですか。」
庭に出ると、護衛をまだ務めていたセスに呼び止められる。
「城庭だから安全でしょ。だからもう大丈夫。セスも休んでいわ。」
いつもと同じようににっこり笑って、ピァはそそくさとソフィの食堂へ走った。セスは軽くお辞儀をすると闇に消えた。ピァは少し悲しくなった。
食堂はもう誰もいなくて、ソフィだけが片付けをしている。
「ソフィ。今日はありがと。」
厨房で小さく声を掛けると、彼女はエプロンを外し湧いたお湯を並々とカップに注いだ。コーヒーというらしい。硬いクッキーによく合う。
「あまりこんな遅くにこちらに来るのは感心しないねぇ。王妃様。」
心配して言っているのがよくわかるから、ピァはごめんね。と素直に謝った。
「私のお菓子が美味しいから仕方ないのかもしれないけど。」
ウィンクをしながら厨房の端にある席にピァを座らせると、自分は片付けを続けながら話に耳を傾けてくれる。自分を産んで母は亡くなったらしい。母が生きていたらこんな感じなのかなとピァは思う。
「セスについて来てもらわないと、城庭も危ないんだよ。」
「そのセスのことなんだけど。」
彼を追い返したことには触れず、ピァはソフィに尋ねる。
「闘技大会に優勝して、たくさんの女性たちが彼に声をかけていたわ。今日も修道女たちがソフィのクッキーをセスから受け取ったの。セスが持って行ったのではなくて。」
「彼女たちが受け取りに来たろう。よかったじゃないか。セスも王妃様の護衛から離れずに済んで。」
「そうじゃなくて。」
ピァは言いかけてやめた。もし砂糖菓子を取りに来てくれた彼女たちを悪く言ったら、王妃として皆の前に立っている自分が汚れていくような気がした。
「あぁ、そうだ。戻る時にセスに渡しとくれ。きれいに洗ってあるからと伝えてね。」
ソフィはせかせかと洗い物を畳むと、その中から白い包帯をいくつか包んでピァに持たせた。
ソフィの予想通り、セスは食堂の外に待機していた。
(もう帰っても良かったのに。)
言いかけてやめた。これじゃああんまり意地悪だ。
「遅くまでごめんね。」
月明かりを頼りに、たった数メートルの道を二人で歩く。途中若い庭師が挨拶をしてすれ違ったが、危険なことなど何もなかった。
城の入り口で彼がお辞儀をした時、ソフィに頼まれた包みに気づいてピァは慌てて彼に渡す。友だちのように気軽に話がしたい。そう思っているのになかなか用事以外声がかけられない。
「ありがとうございます。」
彼は包帯を受け取りお辞儀をした。最強の剣士が何に使うのだろう。不思議そうに見つめていると、それを隠すようにして彼は去って行った。
「あの包帯は何に使うのかしら。」
食堂では今日も美味しいクッキーの匂いがする。ピァが孤児院を訪問するため彼女に頼んだものだ。ソフィはピァに紅茶を勧めると、少し難しい顔をして、
「傷が絶えなくてね。」
と言った。他にも傷だらけになる従者がたくさんいて、医務室に行かずにいる人たちを捕まえてはソフィが手当てをしているそうだった。
「王宮ピエロになりたいって、高い梯子から落ちる子もいてね。堪らず見てあげているのさ。でも彼の傷はさらに酷い。」
歩いている場所が分かるほどに出血していることがあり、ソフィが捕まえて、それから長く手当てをしているということだった。
「城に医務室があるのに。」
ピァは立ち上がり声を上げた。
「恥ずかしいのかねぇ。男の子だからね。」
ピァはそれから、セスをよく観察した。怪我をしているなんて転んだ様子も護衛で傷つくこともないのに。セスは早朝から日々淡々と仕事をこなし、終わると北の城に帰っていく。
その日は雨が降っていた。かなりの土砂降りで傘をさしてもらっていたにもかかわらず、服の裾が濡れてしまった。自分以外は皆びしょ濡れで、申し訳なく思った父が一旦宿を借りて皆で避難した。宿主が皆に布を配り各々濡れた体を拭いて、暖炉の近くで乾かした。ピァが濡れた服を拭いていると、足元の裾に明らかに赤い跡が残っていた。
「歩いた場所が分かるぐらい出血していてね。」
一瞬ソフィの言葉が頭をよぎる。自分の近くにいたのは、護衛と父。足元の血痕が服につくならば誰かが怪我をしているはずだ。
ピァは慌ててセスを探した。セスは宿の外で雨に濡れていた。護衛として宿を見張っているのだろう。雨に打たれて血痕は見当たらない。ピァは心配になり、彼の元に走る。
「王妃様!ぬれてしまいます。」
「大丈夫!セスに護衛に用があるだけだから。」
びしょ濡れで走ってくるピァを見て、セスは驚き走り寄る。ドレスは水を含み重みを増してしまい、ピァはそれに足を取られ彼に倒れ込む。
それは一瞬のことだった。彼の体に触れた白いドレスは真紅の色に染まっていく。
「いつこんな酷い怪我を。」
セスの腕を取りピァが尋ねる。
「私のドレスの裾に血痕がついていたの。以前ソフィ言っていたわ。貴方がよく怪我を負っていることを。」
「大したことはありません。さぁ早く宿へ。」
話している間にもドレスについた血痕は広がっていく。ピァは彼の手を取り叫んだ。
「だれかお医者様を!」
セスが慌ててピァの口を塞いだ。彼が仕事以外で自分に触れたのは初めてで、ピァは驚きその場に座り込んだ。
「大丈夫です。ですから王妃様は宿へ。」
「嫌よ。」
ピァは泣きながら答えた。
「毎日近くにいる貴方が傷付いているのが嫌。それを私に隠しているのも嫌。」
「しかし、私は任務を遂行しなくてはいけない。」
降り止まぬ雨は容赦なく二人を打ちつける。視界は狭まれ声も届かぬ中二人は顔を近づけ大声で叫ぶ。
「任務任務任務。そればかり。私はあなたが心配なの。私は守られるだけの人形なんかじゃない。人間なんだから!」
肩を掴み動きを封じたところで、闘技大会を制した彼の動きを止められるわけがない。無理やり抱き抱えられそうになり、ピァは彼の手首を思い切り噛んだ。鉄の味がする。身体中に血液が服を伝って染み込んでいる。
「なぜこんな怪我をしているの。教えて。」
ピァの真剣な顔つきに、セスは大きくため息をつくと伏目がちにこぼした。
「貴方を守っているからです。夜は反逆者の討伐に。それでこの様です。」
もういいでしょう。と答え、彼はピァを抱き上げた。セスは俯き淡々と宿に向かう。
雨は小降りになり二人の姿をみつけた従者が駆け寄る。ピァの所々赤いドレスを見て、従者が悲鳴をあげる。セスはそのまま医務室に運ばれた。ピァはその後ろ姿を何とも言えない気持ちで眺めていた。
先日の雨で風邪をひいてしまい、ピァは一人自室に篭らされていた。病状を診てくれている王宮医師が、セスの傷は深く治療の為医務室で数日を過ごすことになったと教えてくれた。ちょうど良いと思い、ピァもゆっくりと休むことにした。自分が公務に出てしまうと、彼は無理をしてでも護衛を遂行するだろう。彼には休んでもらいたかったし、反逆者の討伐を行ない又傷付いていく姿をみたくなかった。
長い雨が止み陽が高く昇る。空は晴れわたり春風に花々が揺れる。体もすっかり回復しピァは父と城内の教会に向かう。
いつもの様に二人の護衛は辺りを伺いながら影の様についてくる。しかし、なぜだか彼らはいつも教会の前で立ち止まる。決して教会には入らず、外で待機しているのだ。
「なぜ護衛は教会に入らないのかしら。」
ピァは父に尋ねる。父は困ったような顔をして、
「彼らは時に、神に背く行為を強いられるからね。」
と呟いた。神に背く行為が王族の為の討伐だとしたら、裁かれるのは自分たちなのではないのだろうか。ピァは神の前で後ろめたい気持ちを隠せなかった。
お祈りの時間が終わり教会を出ると、セスはいつものように静かに近くで護衛を続ける。顔色も良いようでピァはほっと胸を撫で下ろす。雨の日の件もあり話しかけるのを躊躇っていると、セスが近くでお礼を言った。
「王のご配慮により、休養をいただきました。ご心配をおかけして申し訳ありません。」
「申し訳ないのは私の方。」
ピァは俯き答える。
「私、貴方が反逆者の討伐をしているなんて知らなかった。それは王族を守るためなんでしょう。」
セスは護衛の任務ですとサラリと答えた。
「ごめんなさい。」
ピァは俯き声を振るわせる。今日は神様に何も願うことができなかった。罪の意識を払拭することができなかった。
「私たちを命懸けで守ってくれているのに、あなたは神にすら祈れない。」
従者が立ち止まる彼女に気づき駆け寄ろうとするが、王は優しくそれを制する。セスは王妃の前で跪くと、顔を上げ笑顔を見せた。
「王妃様を守るということは、国を守るということです。私には何の後悔も懺悔もありません。」
「さぁ、行きましょう。」
セスは王妃に手を差し伸べ、王の元へ導く。手袋の上からでも分かる彼の暖かさが嬉しくて心強い。
「私、毎日あなたの分まで祈るわ。」
ピァの涙が頬を伝う。
「あなたが幸せでありますようにと祈るわ。」
セスは王妃の手を少しだけ強く握った。
その日以来、ピァは真面目に公務に向き合うようになった。
「貴方の仕事に恥じない王妃でいたいの。」
自分の立場を学び、民衆の為に役目を果たす。笑顔を浮かべるだけの人形ではなく、皆の幸せの為に笑顔を送り声をかける。
「ソフィの焼き菓子だって、私が子どもたちに配ればよかったのよね。」
ピァはお菓子の入った籠をセスから半ば奪う様に受け取るとにっこり笑った。
「誰が潜んでいるか分からないので感心はしませんが。」
セスは困った様にこぼした。
二人を見送ると、ソフィはふっと笑って庭師のゼフに形が崩れたお菓子と紅茶を二つ運んだ。彼の横で男の子が熱心に曲芸を練習している。
「王妃様もお年頃なんだね。」
嬉しそうに伝えると、ゼフは困った様にそれぞれ立場や役目がある。と答えた。
「立場の違いなど苦にはならない。」
男の子が話を割って答える。
「そうさね。皆幸せになれると神様もおっしゃっていらっしゃる。」
ゼフはため息をつくと、ならぬこともあろうと呟き、タバコをふかした。
「金色の髪は純潔の王族の証。決して混じってはいけない。」
これは脈々と続いている王族の決まりだった。
ピァが十八になった時、同じく純血の王族と婚儀をあげることが決まっていた。今日は将来夫となる者との顔合わせが終わった所だった。
「王妃様がいらっしゃいません。」
夜中に連絡があり、セスは急いで駆けつける。夜自室から勝手に外に出ることのなかった王妃が消えてしまい、城内は騒然としていた。連れ去られたのでは無いかと慌てふためくものもいる。セスは王に許可をとり、皆の間をすり抜け城庭に出る。そしてそのまま城裏の壁際を走り、突然姿を消した。
そこは約束の場所と呼ばれていた。王族に危険が迫った時、この場所に集まり他国へ船で逃亡する。大きな湖は川につながっていた。
「帰らなくては、皆が心配しています。」
湖近くの木陰に彼女は座っていた。白いドレスを纏い美しいブロンドの髪を揺らす姿は、まるで女神の様だとセスは思った。
ピァは振り向くとすぐにまた湖の向こうに視線を戻す。セスは彼女のそばで膝をつき声をかけた。
「虹の袂には楽園があるのでしょう。昔ソフィに教えてもらったの。」
ピァはぼんやりと遠くを見つめる。
「そこでは時間が止まる。ずっとこのままでいられるの。私もそこに行ってみたい。」
「それは逸話で、」
「分かっているの。」
ピァはセスの話を遮った。大粒の涙が頬を伝う。セスはただ静かに彼女を見つめた。
(皆が心配しています。帰りましょう。)
伝えようと思ったがうまく口から言葉が出ない。彼もまたこの場所を離れがたかった。
二人は共に湖の向こうを眺めた。
どれくらい時間が経ったのだろうか。遠くからうっすらと淡い月が木々の間を抜けて現れる。月は足元の花々を照らし、満月層の花が月の光を吸収して一面を青く灯した。
「このままずっと時間が止まったらいいのに。」
セスは目を閉じると首からかけている懐中時計を外した。それは銀色の時計で彼が未肌離さず持ち歩いているものだ。
「私たちは共に同じ時を生きています。永遠に。」
差しだされたそれを受け取ると、ピァは止まらぬ時計の針を見つめた。
「永遠に、同じ時を。」
蓋を閉めて手のひらに包むと、ピァは穏やかに微笑んだ。
「大切にするわ。ありがとう。セス。」
一筋の涙が懐中時計の上に落ちる。セスはピァの涙を拭うと、手の甲にそっと口付けた。
婚儀が終わると、ピァは美しい娘を二人授かった。王子である夫は優しく、娘たちはすくすくと育つ。そしていつもその傍には、護衛であるセスとその息子のリゼの姿があった。
リゼは不思議な子で、時々こちらに向ける視線は冷たく、まるで何か恨みがあるかのように二人の娘たちに意地悪を繰り返す。その都度父であるセスが彼に役目を教えるもその冷めた瞳から彼の頑なな意志が伺え、それは常に消える事はなかった。
「リゼなんか嫌い。」
二人の娘たちは声を揃えて訴えるも、母であるピァは優しく彼女たちを制した。
「許してあげましょう。リゼの幸せを祈ってあげましょう。いつか優しさは届きますよ。」
彼女の政治は常に変わらぬ姿勢で行われ、国家は安泰に思えた。
しかし、欲の渦が身内からひっそりと彼女を蝕んでゆく。
「なぜ国民にばかり富を分ける。我々王族は対等な恩恵を受けるべきだ。」
脈々と王家の血を継いだ王族は増え続け、財政を圧迫していた。湧き出した波紋は、護衛として命をかけてきた者たちにも降りかかる。
「ただ立って王や姫を見守るだけの輩に金をかけすぎてはいやしないだろうか。彼らは恩恵を受けすぎている。」
「しかも彼らは、強さを手に入れるために奇病を受け継いでいると言うではないか。あの赤い瞳を見たことがあるか?あぁ恐ろしい。」
王とピァが制するものその強欲さは日々増すばかりで、とうとう護衛として命をかける黒髪の一族は偏見と差別を受け、財源を縮小されていく。
馬は城庭を駆け抜け、ピァの家族の元へ走る。護衛としての責務を放棄した彼らは、部下を従えて波打つように王城へ向かっていた。
「お早く!湖から国外へお逃げください。」
セスの父もそして息子ですら王族抹殺のために動き出した。ともすれば反対する自分の命も危うい。
「セスも!セスも来て!。」
二人の娘たちがセスにせがむも、セスは困ったように笑った。
「セスは後で来ますよ。」
王妃は娘たちを宥め、優しく抱きしめる。
「お急ぎください。船が参っております。」
王族の従者たちが夫である王子と王妃たちを促す。
セスとピァの視線が一瞬交わった。
二人は頷くと、それぞれの場所へ駆け出した。セスは護衛達の勢いを止める為、戦いの最前線へ。ピァは家族と二、三人の従者を従え船に乗る。国外に逃亡先があると言うが正確な場所は知らされていない。
「お母様。怖い。」
震える二人の娘たちを抱きしめて、ピァは対岸を見つめる。船は暗闇を彷徨うように海上で揺れ続けた。
着いた先は荒野だった。砂埃舞うその地にポツリとひとつ木造の寂れた小屋が建つ。ドアはギィギィと音を立て、家の中は隙間風が吹く。
「ここに住むの?」
上の娘が心配そうに尋ねる。
「暫くだよ。心配ない。」
夫が娘たちが不安を打ち消すように笑顔で答えた。従者たちが急ぎ薪を集め暖炉に火をつける。寝室には埃を被ったベットが並んでいる。食器や衣類、食料は乏しく、生きるための十分な量ではない。皆は暖炉の前で抱きしめ合って暖かな火を見つめる。
「生きなくては。王城にいつか帰る日まで。大丈夫、必ずお迎えは来ますから。必ず。」
(必ずセスは迎えに来てくれる。)
そう唱えながら、ピァはドレスを脱ぎ捨て、小屋に用意されていた服を着た。従者たちに一通りの家事を習い、夫と共に畑を耕す。食べ物は思うように取れず、飢えを凌ぐために子どもたちと野草を摘む。粗末な食事を囲み暖炉の前で過ごす。
「王城に帰りましょう。」
初めは唱え続けていた言葉だったが、次第に生きることだけで精一杯な日々に溶けていく。
その代わりに、ピァの生活の中に家族との関わりが増えていく。
困った顔で笑っていた夫は、長い時間の中で優しく微笑むことが増えた。不安でいつもそばを離れなかった娘たちは笑顔で庭を駆け回り家畜の世話をする。食べ物は少なかったが家族全員で食卓を囲む。
「暖炉の火はこんなに暖かかったかしら。」
娘たちが膝にもたれうつらうつらと船を漕ぐ。
横で縄を編んでいた夫が肩を抱く。
それは王妃という仕事にあけくれていたピァにとってはじめての、家族と過ごす温かい時間だった。
「こんな寂れたところにいつまでいたらいいのかしら。」
長女のエマはつまらなそうに呟いた。少しだけ羊を飼っている。家には鶏もいて、狐さえ来なければ卵も食べられる。
「羊の乳って美味しくないのよね。昔宮廷で食べた牛の乳は甘くてふっくらしてた。お肉も美味しいの。」
羊たちが各々乏しい草を漁っているので姉妹は暇を持て余していた。妹は藁でカゴを編む。
「色とりどりのデザートも美味しかったわ。ねぇ、あの丸くて赤いビーンズ覚えてる?。」
妹のノアは私はまだ小さかったからと呟き、困ったように首を振った。
「いつお迎えが来るのかしら。本当にイライラする。この場所も嫌い。貧乏も嫌い。」
「私はみんなと一緒に囲む暖かい暖炉も好きよ。お父様が作ってくださった木のコップで飲む羊の乳も。」
荒野を吹く風が冷たくなってまた冬が来る。羊たちの毛を編んだセーターは今年も寒さを凌いでくれるだろう。
「貴方は知らないから。城での生活は素晴らしかった。そんな古びたカップより綺麗な白い陶器のカップもあって。」
言いかけてエマは少し考え込み
「赤髪の男に頼んでみようかしら。」
と、呟いた。
最近遠くから行商の男がやってくる。見るからに怪しげな赤髪の男は流行りの品を見せびらかして、つまらない世間話をしていなくなる。しかしエマにとってそれは煌びやかで憧れる世界なのだろう。
「私は木のカップが好き。」
夜は神様に感謝して、家族皆で食卓を囲む。
「お母様が時々作ってくださる、甘いお菓子が好き。」
母ピァは、嬉しそうに微笑む。
「昔大好きだった方がよく作ってくださったの。お砂糖たっぷりで温かくて、どんなお菓子より美味しかったのよ。」
母も父もあまり昔の話はしない。
城での生活はエマが言うように幸せだったのだろうか。数人いた従者たちも、父の意向により郷に帰っていった。この地には家族以外誰もいない。小さな畑と古びた小屋と、それからぐるりと囲む森で見つけた家畜たち。
「金のライオン月を食べ。
全てを照らし輝いた。
黒のライオン月を見て
影となりて守り尽くす。」
父の詩も古びていて嫌いだとエマは言う。ノァは家族みんなで暖炉を囲みながら聞く金のライオンの詩が大好きだと思う。 なのにある日、赤毛が黒髪の少年を連れてきて、父はそのまま連れて行かれた。
あれは幼い頃見た、リゼという意地悪な少年だったとエマが言っていた。
「お父様はお役目にでかけられたの。王位につかれるのよ。」
母は静かに言った。
「ずるい!お父様ばかり王宮に帰るなんて!私たちをおいていくなんて。」
ノァは寂しくて泣いたけれど、エマは怒りで涙が溢れる。
「私、お父様のもとに行くわ!もうこんな生活にはうんざりよ。」
ピァはふたりを見つめる。二人とも大きくなった。エマは齢十八。ノァはもう十六だ。
「可愛い私の娘たち。」
二人を抱きしめ、優しく頭を撫でると、ピァは指輪と首から掛けていた懐中時計を外した。
「これはお金になるでしょう。船で渡ったらすぐに売りなさい。」
「お母様、私はここにいたい。」
ノァが不安げに顔を覗きこむ。ピァは彼女の手のひらに懐中時計を包み込む。
「大丈夫。私たちは同じ時を生きているわ。」
ノァは懐中時計をぎゅっと握る。
母が生きてきた時間と自分たちが生きる時間がここに重なる。
ピァはノァの手を取り優しく包み込む。
「私はこれをもらうわ。金の指輪は王妃の印。これで王宮に帰るの。お父様にも会うわ。ねぇいいでしょうお母様。」
エマは金の指輪を身につけ、嬉しそうにステップを踏む。ピァは立ち上がり諭すように話す、
「いいえ、王宮に近づいてはいけません。お父様は私たちを守るために王宮に囚われている。」
いつもと違う険しい表情を見せ、赤毛の男が伝えた情報を娘たちに語った。彼は南の城の情報屋だった。
国は乱れていて王の一族が迫害にあっていること。金色の髪は隠して過ごさなければならないこと。港町はよい城主様がいらっしゃり多少治安がよいのでそこにまずは行くこと。そして、もうここにいてはいけないこと。
「なぜここにいてはいけないの?お父様はご無事なの?」
ノァは母の手を取り涙をこぼす。
「お父様はご無事です。でもお父様を王座に飾り、実際に裏で国を動かしているのは、リゼたち黒髪一族なの。そして彼らは彼らを裏切った金髪一族を恨んでいる。」
エマはフンと鼻を鳴らした。
「だから私たちはこんな辺鄙な場所で隠れて暮らしていたのね。あの意地悪男のせいで。」
ノァは俯き、きゅっと唇を噛む。
「きっとリゼは悲しみの中にいるのでしょう。」
ピァは二人を強く抱きしめる。
「リゼが来てしまった以上ここは危険なの。どうか理解のある人たちと幸せに。きっと幸せに。」
細い月が山の端から姿を現す。三人はいつもと同じように食卓を囲み、何気ない話に鼻を咲かせる。誰も旅立ちのことには触れなかった。暖炉の火が変わらず優しく揺れていた。
二人の娘を送り、ピァはひとり侘しい小屋で待ち続けた。
(リゼはきっと寂しさと悲しみを拭い去ることができず、迷いながらここを訪れるのだろう。その時は、暖かく迎えてあげよう。)
ピァは幼き頃のリゼを思い出しては後悔に苛まれる。彼が望んでいたのは仲良き両親の姿だったにちがいない。あの瞳はいつも語っていた。なぜ父は王妃に尽くしているのかと。定めだから、仕事だからと見ないふりをしてきた。そうして彼に優しさを配ることで誤魔化してきた。
この地で家族と過ごし、その温かさをしみじみ感じて思う。冷たい家で母を亡くし帰らぬ父を待つ幼き彼はどれだけ寂しかったことだろう。父親と自分が親しくしている姿を見て、どれだけ傷ついたことだろう。
王宮情報屋の赤毛男はまたふらりふらりとやってきて、リゼの様子、それから国の情勢を語っていく。そうしてこちらの情報もまたリゼに伝えるのだろう。
「そういえば娘たちがみあたりませんが。」
「羊を肥やすために森に入りました。」
ピァは何食わぬ顔で答えると赤毛に薄いお茶をすすめた。
「そうですか。そりゃあよい。」
赤毛は茶を飲み干すとニヤリと笑った。遠くにまたいつもと同じ夕陽が沈んでいく。暖炉に火を入れ、少しだけ食事をとる。皆で食卓を囲み話をしていた日々が夢のようだ。ピァは薄い布を膝にかけ暖炉の灯りを眺めていた。皆が幸せでありますようにと願いながら。
「お茶でもいかがでしょう。」
ピァは薪をくべ湯を沸かし、干した野草で薄い茶を淹れて彼をもてなした。娘たちはそこにおらず、彼女の指に金のリングはない。
「娘たちを逃したらしいな。」
赤毛の男から事前に聞いていた。娘たちの行く先をすぐに従者に追わせ姉は抹殺しリングも回収した。一通り理解して来たが怒りがおさまらず、リゼは差し出された茶を床に投げつける。器が粉々に割れて板間を濡らす。しかし彼女は恐れる様子もなく、またもう一つ木のコップを戸棚から取り出して大切そうに撫でた後、お茶を淹れた。
「娘の物だったんです。夫が木を削って作りました。もう随分長く使ったもので古びているのですが。」
お茶を差し出すと、ピァは立ち上がり壊れたカップの破片を拾った。小さな背中が小刻みに震えている。リゼは机上のコップを眺めながら、
「姉娘は死んだ。」
と言って金のリングを机上に投げ捨てた。
「妹娘の居場所も分かっている。後は時間の問題だ。」
「王子は狂い、護衛であった父も永遠の牢の中だ。」
一気に吐き出すとリゼは一息ついて王妃の姿を見た。どんな表情を浮かべているのか楽しみでならなかった。しかし、振り返った彼女は凛とした表情でそこに悲壮感はない。
「そうでしたか。」
ピァは答えると、ゆっくりと椅子に腰掛けた。そうして、
「私にできることは何でしょうか。」
と答えた。
悲しみの中で生きてきたのはきっとリゼも同じだろうとピァは思った。これは自分に対する罰なのだと。
「死ね。死んで詫びろ。」
リゼは拳を握り睨みつける。
(お前のせいで父は家庭を顧みず、母は自殺し、兄弟は殺し合った。お前のせいで。」
思考が声として漏れ出し止まらずリゼは唇を噛む。流れ出した血液が机上にぽたりぽたりと落ちてドス黒い跡を残す。
ピァは彼の言葉にじっと耳を傾けていた。
(だからわたしは、お前に罰を与える。」
リゼは爪を噛みぶつぶつと声を上げ続ける。
ピァは彼の姿を悲しげに見つめると立ち上がり、彼を優しく抱きしめた。
あまりの驚きにリゼの体が硬直する。あの嫌な心臓の音が耳を伝って身体中に染み込み、生ぬるい体温が体にこわばりつく。リゼは震える指で剣を強く握った。
「あなたがそれで幸せになれるのなら、私は構いません。」
リゼはピァを突き飛ばすと、剣を抜いた。しかし震える腕は自由に動かず、耳の奥にあの嫌な心臓の音がどくりどくりと脈を打つ。最強の力を手に入れたはずなのに恨みを晴らすべき相手を前に何もできず、リゼは苦しげに声を上げる。
「私は今までたくさん人を殺めた。邪魔な者は消す。そうすれば私は楽になる。お前も変わらない。私の目の前から消えろ。私の目の前から。私の前からっ。」
ピァは胸の前で手を組むと、膝をつき神に祈りを捧げる。
「あぁああぁあ。」
叫び声をあげ、リゼは剣を振り下ろす。血飛沫が顔を染め剣は床を突き抜け深く刺さった。
どくん。とくん。…。
耳の奥に響いていたあの嫌な心音が消えた。代わりに自分の荒い呼吸が耳奥で繰り返され、リゼは我に帰る。
「あ、あああぁ。」
血飛沫がリゼの体にまとわりつき、胸を刺した剣は床に強固に固定され抜くことができない。手のひらを染める清らかな赤がリゼの心を蝕んでいく。リゼは小さく叫ぶと床に座り込み、彼女の跡がつくものを床に全て投げ捨てた。
「処分しろ!これを早急に処分しろ!」
叫び従者を呼ぶと、へらりへらりと笑いながら赤毛が部屋を訪れる。
「役目を全うされたのですね。」
距離感のない彼を突き飛ばし、リゼは部屋の外に飛び出す。生ぬるい風が砂埃を運び、まだ身体中に残る液体にこびり着く。
「ひっ…。」
身体中を叩き火だるまになった様に地面を転がると、頭を抱えたままリゼは戸の裏に蹲り身を隠した。
暫くして赤毛が鼻歌を歌いながら戸を蹴飛ばし、満足そうに彼にタバコを差し出した。
「これは異国のタバコでして、一瞬にして飛びます。気持ちのいいもので、さぁ代わりにこれで祝杯を…。」
「煩い!」
リゼは赤毛の襟首を掴むと、へらりへらりと笑う彼を抱えて帰還を急いだ。
「リゼ様。気持ちが良い宵じゃありませんか。仇は全てさよならだ!王子は狂い、父は牢獄。娘たちは死に、王妃は自殺だ!ひゃっほぅ!。」
リゼは耳を塞ぎ船へと乗り込む。
死体を片付けた従者たちは急ぎ船を進行させた。対岸が遠のき、かの地は見えなくなった。船を漕ぎながら赤毛が歌う。
「金のライオン闇を食べ、
すべてを手に入れ闇に落ち。
黒いライオン月を食べ。
すべてを手に入れ闇に落ち。
後はまっくらどうしよう。」
「月の明るい晩ってのは本当に安心しますやね。皆さんそう思いませんか。」
それから赤毛は笑ってタバコをふかし月を眺めた。
「