第3話 くノ一の宿命 その3
渓谷の木々は緑の葉を湛える季節になっていた。
花菜と出会ってから数ヶ月、芙蓉はまだ、お弁当の花菜を温存していた。
着物の裾を太ももまで捲り上げて帯に挟んだ花南と芙蓉が、足を渓流につけて戯れている。
「気持ちいい!」
花菜は笑いながら芙蓉の顔に水をかけた。
「なにするのよ!」
無邪気な少女たちがしゃいでいるようにしか見えない。
花菜は見た目通り年相応の、いやそれ未満の子供っぽい少女だった。
純真に笑い、気に入らないことがあれば芙蓉相手でもかまわず突っかかるが、憎めない少女だった。
「あっ!」
近くを魚が通り過ぎるのを見つけた花菜は、捕まえようと手を水に突っ込むが、両手は敢えなく水を掴んだ。
「くそぉ~」
今度は短刀を出して刺そうとするが、簡単にはいかない。
ムキになって浅瀬で魚を追いかける花菜を見た芙蓉は、右手だけを鬼化して、鋭い爪で魚の腹を突き刺した。
「すごーい!」
感激した花菜はその獲物を受け取ろうと踏み出した。
その時、足を取られて尻もちをつく。
体全部が水中に沈むが、そこは浅瀬、立ち上がれば足はつくはずだった。
しかし、立ち上がれない。
水の泡が体に纏わりつく妙な感覚。
頭を押さえつけられて水中に沈められる。
足を掴まれて、深みに引きずられていくようだった。
溺れる? こんな浅瀬で?
「嫌!」
纏わりついた水泡を弾き飛ばして、花菜は立ち上がった。
すると泡は蜘蛛の子を散らすように拡散した。
「なにしてんの?」
頭からずぶぬれになっている花菜を、芙蓉は不思議そうに見た。
「なにって……」
「泡玉に襲われたのね」
枕小町が素っ気なく言った。
「泡玉?」
花菜は水面を見下ろした。
遠巻きに水泡が浮かんでいるが、まるで生き物のように蠢いている。
「あなたには見えてるんでしょ」
「この水の泡?」
「小妖怪よ、一つ一つにたいした妖力はないけど、集団で人を襲い、水の中に引きずり込むのよ、だからこんな浅瀬でも溺れるの、でも、あなたの霊力が勝ったのね」
「あたしの霊力?」
「自覚はないでしょうけど、あなたもけっこう強い力を持っているのよ」
「ふーん、そうなんだ」
花菜は涼しい顔をしている芙蓉に目をやった。
「奴らは芙蓉が鬼だと認識してるから襲わないわ、あなただって霊力で弾き飛ばしたけど、普通の人間は襲われたら逃れられない、溺れさせて精力を吸い取るのよ」
枕小町の解説を聞いて花菜はゾクッとした。
「妖怪ってどこにでもいるのね、知らなかったわ」
* * *
陽が傾き、芙蓉たちはこのまま川岸で野宿することにした。
火を熾し、花菜は濡れた着物を即席の物干し竿にかけて乾かしていた。
その間、布にくるまりながら、芙蓉が捕ってくれた魚を串にさして焼いた。
「焼けたよ」
花菜は魚を一本、芙蓉に差し出すが、
「あたしはいい、あなたが全部食べなさい」
「なんで?」
「なんでって、芙蓉は鬼よ、そんなものは食べないわ、人の生肉以外は受け付けないのよ」
芙蓉が言いにくそうにしていたので、枕小町が代わりに答えた。
「そうなの?」
「好みが変わったようだわ、以前は大好きだったのに」
芙蓉は恨めしそうに山女魚の丸焼きを見た。
「じゃあ、あたしを食べる?」
花菜はふざけて、纏っていた布を開け、貧弱な胸を露にした。
十五歳にしては発育不良、肋骨が浮いた体を見て、
「ほんと痩せっぽちね」
芙蓉は吐息を漏らした。
「食欲も失せるわ」
花菜は豊満な芙蓉の胸の谷間に目をやり、自分の貧弱な体を改めて思い知る。
「一歳しか違わないのにずいぶん違う……、なに食べたら、そんなに発育するの?」
自分のない胸を寄せてあげて見せた。
「色気もなにもありゃしないね」
「ちゃんと食べれば、そのうち成長するわよ」
芙蓉は焼けた魚を花菜の口元へ差し出した。
「食べる、食べて芙蓉みたいなイイ女になる!」
「女? あたしは鬼よ」
「今は鬼でも、人に戻るんでしょ? 楽しみだな、こんな美女ならきっと引く手あまたよ、たくさんの求婚者が現れて、貢物の山が出来て困ってしまうかも、さて、どうやって選ぶ? 芙蓉はどんな男が好みなの?」
ふと、樹の顔が過ぎった芙蓉は、それをかき消すように首を横に振った。
「なにバカなこと言ってるのよ、さっさと食べなさい」
「はーい」
花菜は焼き魚にかぶりついた。
「忍者って、実際会ったことはなかったけど、冷酷無比な人ばかりだと思ってたのに」
焼き魚を頬張っている花菜を、芙蓉は呆れたように見た。
「仕事の時はそうなるわね、でも、元々も性格もあるし」
「そうなるように育てられるもんじゃないの?」
枕小町も言った。
「そうね、訓練は厳しかったし……、でもあたしは現実逃避型だから、いつかこんな生活から救い出してくれる人が現れるんだって、いつも妄想してたの」
魚の櫛を振りながら花菜は続けた。
「実はあたしはどこかのお姫様で、攫われて忍者の里に売られたけど、両親がずっと捜しててくれて、見つけてくれるの、そしてお城に連れ帰ってくれるのよ」
花菜は胸の前で手を組んで夢見心地。
「そこには優しい父上と母上、そして素敵な許嫁の若殿様が待ってるのよ、その後、二人は結ばれ、幸せに暮らしましたとさ」
「お伽噺ね」
「そんな夢でもみなきゃ、生きていらなれない毎日だったわ」
ふと見せた淋しそうな花菜の横顔に、芙蓉は胸がギュッとなった。自分も心のどこかでそんな夢を見ている、樹との未来は消えたけど、いつかまた、あんな幸せな時が再び訪れることを願っていた。
そんな二人の様子を通りかかった旅人っぽい二人の男が見つけた。
男たちはにやけながら顔を見合わせた。
そして躊躇なく河原へ下りていった。