第1話 祝言の夜 その12
「なにを、言ってるんだ?」
樹は血の気が引いていくのを感じながら、芙蓉の言葉の意味を考えた。
「仇は目の前にいる」
芙蓉は涙に潤んだ目で真っ直ぐ樹を見た。
「あの鬼はあたしよ、皆を殺したのはあたしなのよ」
「お、お前は鬼なんかじゃ、ないだろ」
震える左手で芙蓉の頬をなでる。
「こんなに綺麗じゃないか」
「今はね、人を食べて満腹だからよ、飢えればまた鬼の姿になって、人を殺して食べるのよ、あなたの手を食いちぎったのもあたし」
「嘘……だ」
樹の膝が、全身が震えてよろめいた。
「あの夜、あなたが眠ってから、あたしは鬼になる前に死ぬつもりで家を出た。崖から飛び降りたのよ、なのに、もう鬼化がはじまっていて、死ねなかった」
芙蓉は抑揚のない声で淡々と話した。感情を押さえなければ出来ない話だったから。
「覚えていないのは本当なの、あの時のあたしはあたしじゃなかった、今だって自分がしたことだなんて信じられないわ、でも、微かに記憶が蘇ったの、あたしがやったことよ」
涙が頬を伝ってポタポタと地面に落ち続けた。
「あの怪我か……」
樹は芙蓉が巻いていた包帯を思い起こし、
「あれは、鬼に噛まれた怪我だったのか」
愕然とする。
「なぜ言ってくれなかったんだ!」
「鬼になることがわかっていて、妻にしてくれなんて言える? 鬼の血で汚れている女を抱いてって、言える? そんなの、言えるわけないじゃない」
「それで、一人で死のうとしたのか」
「そうするしかなかったの、そうするつもりだったに」
樹は再び芙蓉を抱きしめた。
「一緒にみんなのところへ行こう、お前ひとりで行かせない、俺も一緒に逝く、それが唯一みんなへの償いだ」
「あたしは……」
芙蓉は樹の体を押して離れた。
「死にたくないわ! 黒緋の勾玉を探すって決めたもの」
「黒緋の勾玉?」
「起きてしまったことは元には戻せないけど、でもね、人間に戻る方法があるのよ、どんな願いも叶えてくれる黒緋の勾玉を見つければ」
「人間に戻る? お前は何人もの人を殺しているんだぞ、俺は無残に食い殺された村の人たちを見たんだ、お前がやったことを! 人間に戻ってどうするんだ? 全部なかったことにしようと言うのか?」
「あたしじゃない! 鬼の姿になった時は、あたしじゃないのよ」
「それは、そうなのかも知れないけど……」
「自分の意志でやったことじゃないのよ、あたしだって辛いのよ」
「そうだけど、忘れられるのか? 心は痛まないのか?」
「たっちゃんだって、鬼化すればわかるわ、自分の意志ではどうすることもできないのよ」
「そうやな、人を殺して喰う、それが鬼の本能や、抗えないへんもんや」
那由他が口を挟んだ。
突然現れた銀色の髪の少女が人間でないことがわかり、芙蓉は警戒して距離を取った。
いつの間にか、長い錫杖を持った聰賢も来ていた。
「でも、聰賢さんは言ったよな、修業すれば理性を保てるって、人を喰わなくても済むようになるって、そうすれば、勾玉を見つけるまで二人で生きていけるかも知れない」
「そんなことが出来るのなら、あなたと一緒ならあたしも頑張れる、勾玉を手に入れて人間に戻れる希望があるなら」
芙蓉は頬を紅潮させた。
「人間に戻れば、また元の生活に戻れる、きっと幸せになれるわ」
「それは無理だ」
聰賢は冷ややかな視線を芙蓉に刺した。
「お前はもう人を喰ってしまった、それも三十人もの心臓を、どんなに修行しても、鬼の本能に抗えないだろう」
「大丈夫だ、俺が付いてる、もう二度と、人を襲わないように見張ってるし」
「そうよ、たっちゃんと一緒なら……」
そう言いながらも、芙蓉の体が小刻みに震えだした。
目も赤く血走る。
「どうした、芙蓉」
「大丈夫よ」
そうは思えない、爪も伸びはじめていた。
「霊力の高い僧侶は、鬼にとってご馳走なんや、鬼は鼻が利くさかいな」
那由他と聰賢は臨戦態勢を取った。
「ほら、もう我慢できひん」
芙蓉の体に真っ黒い剛毛が覆い、完全に変化した。
あの夜、寺で見た獣に間違いない。
「芙蓉!」
芙蓉に伸ばそうとした樹の左手を聰賢は掴んで引き寄せる。
「もう、聞こえへん」
「そんな!」
樹は衝撃を受けながら巨体になった芙蓉を見上げた。
樹を見下ろす芙蓉の赤い目には涙が浮かんでいるようにも見えたが、行動は裏腹、芙蓉は容赦なく鋭い爪を振り下ろした。
聰賢は錫杖で受け止めた。
押しのけようとするが、ビクともしない。
三十人もの人を喰った芙蓉の妖力は強かった。
聰賢は樹を蹴り飛ばして、その場から離れさせると、遊環がシャンと音を立てる錫杖の頭部を芙蓉の胸に突き刺した。
心臓までは貫けなかったが、傷つけられた芙蓉は〝グワァァァ〟と地鳴りのような悲鳴をあげながら退いた。
聰賢は間を置かず、芙蓉に向かって錫杖を突き出す。
二人の戦いを見た樹の心臓がドクンと波打った。
「うっ……」
そして全身の血が熱くなり、眼も赤く血走った。
いち早くその気配に気付いた聰賢は、
「いかん!」
素早く樹の額に護符を貼った。
樹はフリーズしてその場に突っ伏した。
聰賢が樹に気を取られた隙に、芙蓉が襲いかる。
再び錫杖を握り直すが、間に合わず、芙蓉の爪にかかり、真っ二つに折れた。
勢いに押されて膝をつく聰賢、武器を失くし、絶体絶命。
その時、どこからか現れた、真っ黒な獣が、鬼の芙蓉の横面に前足で一撃を食らわせた。
それは鬼化した芙蓉よりさらに大きな獣だった。
同じ黒でも鬼とは違う全身が黒光りする艶やかな毛並み、しなやかな体つきの巨大猫。ピンと立った耳、牙はプラチナの輝き、肉球からはみ出した爪も念入りに砥がれた日本刀の切っ先のように青白い輝きを放っていた。
縦に長く伸びた瞳は紫に煌いていた。
猫科の獣は、聰賢を庇うように間に入った。
その隙に那由他が聰賢のところへ行った、次の瞬間、二人は忽然と消えた。
そして巨大猫の獣は固まったまま意識を失くしている樹をくわえて、上空に舞い上がった。
地上に残された芙蓉は、小さくなっていく巨大猫と樹を見上げながら、雄叫びをあげた。




