第1話 祝言の夜 その11
低く垂れこめた雲がどんよりと空を覆い、陽の光は届かない、夕暮れ時のように薄暗い朝だった。まるで芙蓉の心中を現しているかのようだった。
樹のことだけが気がかりだった。
(彼は新居で爆睡していた、あの時、寺にはいなかったはずだわ、きっと朝になってあたしがいないことに気付いて、捜したでしょう。そして寺に来て、惨状を見たはずだわ。なにが起きたかわからず、衝撃を受けたはず。まだあたしを捜しているかしら?)
山を下りる前に、芙蓉はもう一度、村へ戻った。
自分が仕出かしたことを確認して、戒めにしようと思ったからだ。芙蓉はまだ知らなかった、鬼になった自分に、戒めなど通用しないことを……。
寺の戸は開け放たれたままだった。
芙蓉は一瞬足を止めた。
この中に、村人の遺体がある。
(あたしが、みんなを殺した……)
見たくない、でも、見なければならないんだと、芙蓉は足を踏み入れた。
しかし、そこには何もなかった。
誰もいなかった。
乾いた血痕が残っているだけだった。
「え……」
芙蓉は困惑した。
(嘘だったの? 鬼になったあたしがみんなを殺したなんて、作り話だったの? でも、この血の跡は……)
「芙蓉!」
その時、彼女を呼んだ声は、聴きなれた声。
振り向くと、樹の姿があった。
目に涙を浮かべながらこちらを見ていた。
「たっちゃん……」
樹は駆け寄り、勢いのまま芙蓉を抱きしめた。
「よかった、生きていたんだな」
樹の胸に顔をうずめた芙蓉は、初夜のことを思い返した。
彼の胸、彼の匂い、優しい声が心地よく響く。
しかし、抱きしめられる資格はない。
「苦しいよ、たっちゃん」
「あ、ごめん、つい」
手を緩めて芙蓉を見下ろした樹の顔は、涙でぐちゃぐちゃだった。
「みんながあんなことになって、お前も殺されたかと……心配したんだ」
「あたしは」
「よく無事で、よく逃げられたな」
「覚えてないの、無我夢中で」
それは本当だった。鬼になっていた時のハッキリした記憶はなかった。枕小町に返してもらったぼんやしりした悪夢だけだった。
「無理もない、気が動転したんだな、俺だってまだ信じられないよ、鬼なんてものがこの世に存在するなんて思いもよらなかったし」
「鬼……」
樹が犯人は鬼だと知っていることが、芙蓉は意外だった。
「お前も見たんだろ、村の人たちを皆殺しにした黒い獣の正体、あれは鬼なんだ、父さんも母さんも、紬もみんなあの鬼に……」
樹は庭の盛り土に視線を流した。
「これは?」
「村の人たちを埋葬したんだ」
「たっちゃん一人で?」
「俺じゃない、通りかかったお坊さんが埋葬してくれたんだ、俺が鬼に襲われて気を失っている間に」
「えっ? たっちゃんも、あの場にいたの?」
「ああ、お前が逃げた後だったのか、お前はいなかったけど、もしかして行き違いになったのかも、家に戻っても俺はいなかっただろ」
芙蓉はハッとして、背筋に冷たいものが走った。
その瞬間、芙蓉の脳裏にあの時の記憶がハッキリ蘇った。
黒い剛毛に覆われた肩に当たった斧。
斧を振り下ろした者の顔。
殺気だった眼。
それは……。
怒りに任せて斧を握る手に嚙みついた自分。
「ここは危険だ、まだ鬼がうろついてるかも知れないし、早く山から下りたほうがいい」
「たっちゃんも、鬼に噛まれた……」
芙蓉は愕然としながら樹を見た。
樹はその視線から逃れるように目を伏せた。
「そうだ、だから俺は……」
樹の右手は、聰賢が巻いてくれた晒の先が無くなっている。
「鬼に噛まれて命が助かった者は、鬼の血に汚されて鬼になるらしい、そのお坊さん、聰賢さんが教えてくれた、信じられない話だろうけど……」
樹は青ざめて震えている芙蓉の頬に優しく左手を当てた。
「ゴメンな、一緒には行けない、もうお前とは一緒にいられない」
「たっちゃん……」
芙蓉の目からも涙が零れた。
震える手で、無くなった樹の右手に触れた。
「お前は、嫁に行った姉ちゃんのところへ行け、面倒見てくれるだろう、俺との祝言はなかったことにすればいい、お前は新しい誰かと新しい人生を歩めばいい、そうしてくれ、俺のことは忘れて」
樹は右手に触れている芙蓉の手を押し戻した。
「鬼になったら俺は村の人たちの仇を討つ、あの時の鬼を捜し出して、必ず。仇を討ったら聰賢さんに成敗してもらうことになっているんだ、鬼のまま生きてはいけないからな」
芙蓉は俯いたまま、独り言のように言葉を発した。
「鬼に噛まれた者は鬼になる、知ってるわ、だって、この身で経験済みだもの」
「えっ?」
芙蓉の言葉がすぐには理解できず、樹は一瞬、キョトンとしたが、
「まさか! お前も噛まれたのか!」
「そう、あたしも噛まれた、祝言の日の三日前に」
「え……」
ますます混乱した。
「そして、あの夜、鬼になったの」




