第1話 祝言の夜 その10
「えっ?」
聰賢の意外な言葉に、樹は驚いて顔を上げた。
「かつて、陰陽師やった安倍晴明は上一条戻り橋の下で鬼を飼ってたと言う、陰陽師に出来たんやったら、拙僧にも鬼を飼い馴らすことができるやろう」
「俺を飼う?」
「鬼化しても人の心を失わへんよう、修業してやると言うてるんや」
「無茶なこと思いつくなぁ、飼い鬼に噛まれても知らんで」
那由他は呆れた。
「お前さんの精神力次第や。このまま普通の鬼になるか、人の心を持って踏みとどまるかは、お前の意志にかかってる。もし、邪悪な鬼の血に負けて、完全に鬼と化して自我を失くしたら、拙僧はお前さんを殺すことになる」
「修行を積めば、人の心を保つことが出来るんですか?」
「約束は出来ひん、初めての試みやさかいな」
「やってみる、やり遂げて見せる! 何をすればいいんだ」
樹は前のめりになって、聰賢に迫った。
「焦るな、ここではなにも出来ひん」
聰賢は少し考えて、
「日も暮れた、今日は山から下りられへんやろ、とりあえず」
聰賢は懐から矢立を取り出した。
「鬼化を遅らせる施しをしよう、胸を出しや」
「あ、ああ」
樹は襟ぐりを大きく開けて、逞しい肌をさらした。
聰賢は墨を付けた筆で、心臓のあたりになにやら文字を書いた。
「なんです?」
読み書きが出来ない樹にはわからない文字だった。
「封印の文字や、これでしばらくは鬼化を遅らせることができるやろ、修業は悠輪寺に戻ってからや」
「悠輪寺?」
「拙僧の寺や、そこは結界に護られた神聖な場所やさかい、そこへ入るだけでも、鬼の血に毒されたお前さんはしんどいで」
「浄化されて消えてしまうかもな」
那由他が茶化した。
「こらこら」
聰賢はたしなめるが、那由他はまだ不服そうだ。
「ほんまに連れて帰るつもりなんか?」
「これもなにかの縁、御仏のお導きかも知れへんし」
「そうかなぁ」
「今日はもう寝よ、明日は早よ発つで」
「まさか、あの血生臭い中で寝るん違うやろな」
那由他は気持ち悪そうに寺の中に目をやった。
「そうやな、あそこではちょっと」
「なら、村長の家に、すぐそこだから、勝手に上がっても文句言う人はいないし」
樹は聰賢を村長の家に案内した。
* * *
目を閉じても眠れない。
血の海に横たわる村人たちの恐怖に歪んだ顔が浮かんでは消える。そして、鬼に襲われる芙蓉の姿……それは見ていないのだが、想像するだけで背筋が冷たくなる。布団を頭からかぶっても、寒気は収まらなかった。
(なんでこんなことになってしまったんだ……、幸せの絶頂から奈落の底に突き落とされるなんて、俺たちがなにをした、芙蓉との未来がなくなってしまうなんて)
横で聰賢の寝息が聞こえた。
熟睡しているようだ。大勢の墓穴を掘った重労働で疲れているのだろう、無理もないと樹は思った。
那由他はいつの間にか消えていた。
聰賢の話によると、人間が住む現世と、死後の世界、幽世の間には、妖たちが住む妖世という空間がある。それは現世と隣り合わせにあるが、人は気付かない、立ち入れない場所だ。
那由他はその空間をどこからでも自由に行き来できる妖なので、神出鬼没、この村から遠くの悠輪寺までもひとっ飛びに移動できる、一人で寺に帰ったのかも知れない。
(その寺には、あんな妖が他にもいるんだろうか?)
まだ行ったことのない場所に、樹は思いを馳せた。
そこで、鬼にならないための修業がはじまる。
(俺はやるさ、この人の飼い鬼になってみせる。そして芙蓉を待つ、必ず助っ人を連れて戻るはずだ、俺を置いて一人で逃げるはずないからな、そして、村を襲った鬼に復讐する)
樹は決意を再確認した。




