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黒緋の勾玉が血に染まるとき  作者: 弍口 いく
第2章 鬼の記憶
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第1話 祝言の夜 その5

 林道から外れた山奥に、その邸はあった。

 鬱蒼とした木々に囲まれた平屋の日本家屋はかなり古そうだが、手入れが行き届いており立派な佇まいだった。


 庭に面した客間で、芙蓉は目覚めた。

 なぜここにいるのか? 混乱した芙蓉だったが、ほどなくあの夜のことを思い出した。


「鬼に噛まれたあたしは、毒が回って完全な鬼になる前に自ら命を断つはずだった」

 芙蓉は茫然と呟いた。

「そう、あの夜……」



   *   *   *



 大好きな樹の腕に抱かれて、芙蓉は幸せを噛みしめていた。

 一夜限りの幸せだったけど、もうこれで思い残すことはない、芙蓉はすやすやと眠る樹の顔を目に焼き付けた。


(あたしのこの姿を夢に見てくれればいい、鬼になった姿など見られたくない、その前に)

 そして、そっと布団から出た。


 樹はぐっすり眠っている。

(なにも言わずに消えれば、彼は必死で捜すだろう。字が書ければ事情を書き残せるんだけど、それも出来ないし、誰かに打ち明けることも出来ない)

 芙蓉は素肌に白無垢を羽織った。


(崖下で自分の遺体を見つけたら、悲しむでしょうね。不幸な事故だとあきらめてくれればいいんだけど……。あたしのことはあきらめて、他の誰かと幸せに暮らしてくれればいい)

 芙蓉は後ろ髪惹かれる思いを断ち切って家を出た。


 秋の夜空に浮かぶ満月は、闇に沈む地上を清浄な光で照らしていた。

 切り立った崖の上に立つ芙蓉の影が浮かび上がる。


(ああ、全部夢ならいいのに、長い悪夢から醒めて、また元の生活に戻れたらいいのに)

 もう、恐怖はなかった、本当に夢の中にいるような気分だった。


 芙蓉は一歩踏み出した。

 そこに足を下ろす地面はなかった。


 長い髪を靡かせながら、芙蓉は崖下に落ちて行った。

 意識がフッと途切れた。


 高い崖だったが、谷底に到達するまでは数秒だっただろう。

 ドサッ! っと、鈍い音が闇に響いた。


 芙蓉の体は岩に打ち付けられた。

 とうてい助かる高さではなかった。

 しかし……。


 指がピクリと動いた。

 そして見る見る爪が伸びる。

 手の甲には黒い毛が生えてきた。

 やがてそれは全身に広がり、華奢だった体が膨張して倍の大きさになった。


 その体がムクリと起き上がった。

 瞼が開くと、くすんだ赤い瞳。

 美しかった芙蓉の顔はなく、真っ黒な剛毛に覆われた獣の顔面。


 鬼に変化した芙蓉は、満月に向かって雄叫びをあげた。



   *   *   *



「間に合わなかったの……?」

 両手を見る芙蓉、普通の人間の手なのだが。

「でも、元に戻ってる?」


「あなたは死のうとしたの?」

「そうよ! 鬼になる前に!」

 芙蓉は悔しそうに顔を伏せた。

「なぜ助けたの!」


 冴夜は意地悪な笑みを浮かべた。

「わたしが助けたわけじゃないわ、鬼は不老不死だからそう簡単に死ねないのよね」

「あたしが鬼だと知ったうえで、家に入れたの?」

「そうよ、鬼の血の匂いがしたから」

「鬼の血? そんなのがわかるなんて、あなたは何者?」


 不敵な笑みを浮かべた冴夜の口元から鋭い牙が覗いた。

「あなたも鬼なの?」

「まさか、わたしは吸血鬼よ」

「吸血鬼?」


「あなたがなりたての鬼だってこともわかるわ、だから、苦しむ姿を見るのも面白いかなって思ってね」

 芙蓉は困惑した目を向けた。

「あたしが苦しむ姿を?」


「なりたての鬼は苦悩するもの、まだ少し人の心が残っているから、やがて鬼の本能に支配されて、人を殺して喰いはじめる、ついこの間まで同類だった人を、それは知り合いかも知れないわ、満腹になって人の姿に戻った時、それを知って苦しむの、あなたがこれから歩む道よ」


「あたしが、人を食べる?」

「特に、あなたのように人間だった時に強い霊力を持っていた者は、完全な鬼になり切れずに、人と鬼との間を行ったり来たりする、苦しみも普通の人間より何倍も味わうことになるわ、そんな姿を見たいと思ってね」


「酷い!」

 怒りがこみ上げ震える芙蓉の手に変化が現れる。


「酷いのは人間のほうよ、わたしの同族を次々と殺した人間が憎いのよ、夫も殺されたわ、綾小路の退治屋にね、わたしたちは生きるために人の血が必要だわ、でも、人間だって他の動物を狩って食料にするじゃないの」


「吸血鬼にも心があると言うの?」

「人より情け深いかも」

「そんなはずないじゃない、こんな惨い仕打ちをしておいて」


「鬼があたしたちのような生粋の妖怪と違って醜悪なのはなぜかわかる? それはね、鬼はもともと人間で、良心を失くし、醜い部分だけが強調されて残ったものだからよ、人間は誰しも鬼の元を持っているのよ」

 芙蓉は、鋭く伸びはじめた爪と黒い剛毛が生え広がっていく自分の手を見て恐怖を覚えた。


「醜い姿は、あなたの中にある邪悪な本性なのよ、もう自害は出来ないわよ、鬼の本能が邪魔して死ねやしない、あなたはこれからずっと苦しみ続けるのよ」

 芙蓉は思わず手をあげた。


 その行動には自分でも驚いた、他人に向かって手をあげるなんてしたことがなかったからだ、たとえ相手が吸血鬼だとしても、暴力に訴える自分ではなかったはずなのに、怒りが抑えきれない。


 冴夜は振り下ろされた鋭い爪を持つ手を、ほどいた髪の毛で防御した。


 冴夜の髪に巻き取られた芙蓉の右手は一瞬で凍り、髪が離れると同時に砕け落ちた。


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