第1話 祝言の夜 その3
(これはなに?)
初めて見る真っ黒い獣を目の当たりに、芙蓉は恐怖で体が竦み、動けなくなっていた。
ゴワゴワしていて艶のない黒い体毛に覆われた獣。赤い目はよどんだ鈍い光を放ち、口元からは黄ばんだ鋭い牙がはみ出し、唾液が口角からだらしなく漏れて醜悪さを際立たせている。
芙蓉は高砂に飾る花を摘みに来ていた。
日当たりのいい崖の山肌に綺麗な花が多いので、つい奥まで足を踏み入れてしまった。とは言え、生まれ育ったこの山を隅々まで知り尽くしているので迷ったりはしない。
しかし、こんな獣に遭遇したのは初めてだった。
熊なら、逃れる術は心得ている。しかしこれは別物、人間のように二本足で歩行している。
よどんだ赤い目は殺気を帯びていた。
(あたしを食べる気だ、殺される!
今、こんなところで死ぬわけにはいかない!)
芙蓉は鎌を手に構えた。
可憐な容姿とは裏腹、芙蓉は男勝りだ。幼い頃から樹の後を付いて回り、狩りの手伝いもしてきた。獣との戦いは心得ている。
飛び掛かる鬼をひらりと交わし、その手に鎌を突き立てた。
しかし、黒い剛毛は小さな草刈り鎌を寄せ付けない。
軽く吹っ飛ばされた。
地面に転がった芙蓉に黒い獣が覆いかぶさる。
背中を打ち付けて息が出来ない。
避ける余裕はない。
獣の牙が無意識に顔を庇った左腕に刺さった。
次の瞬間。
獣の顔面が、頬のあたりから包丁で切ったように、スパっと切り落とされた。
「グワワワァァ!!」
天を突き刺す悲鳴。
獣の口が大きく開き、芙蓉の腕から離れた。
顔面の上半分が無くなって、それは地面にポタリと落ちている。
それでも生きている黒い獣は体を反転させた。
その先には妖艶な美女がすまし顔で立っていた。
着崩して大きく開いた胸元からは豊満な胸の谷間が覗いている。真っ赤な紅をさした口元に怪しい笑みを浮かべ、切れ長の目が激昂する獣を冷ややかに見据えていた。
と言っても、目の部分は地面に落ちているので獣には見えるはずもない。
しかし、手探りで、自分をこんな目に遭わせた相手を探した。
臭いで嗅ぎ分けられるのか、獣は確実に美女の居場所を捕らえているようだ。
獣の突進を見ても、美女は顔色一つ変えずに佇んでいた。
女の手にはキラキラ光る糸のようなものが握られている。
女はそれを投げた。
投網のように放たれたソレは、獣の頭からすっぽり全身を覆った。
次の瞬間。
網目に沿って黒い体がキューブ状に切断された。
どす黒い血が飛び散るとともに獣の肉片はサイコロのように転がった。
流れ出た血が地面に染みていく。
なにが起きたが理解できずに慄然としていた芙蓉の前に美女は立った。
「勇敢だったな、あきらめず立ち向かう娘を見て、ガラにもなく助けてやろうと思ったんだけど、少し遅かったようだな」
芙蓉の腕の傷に目をやった。
必死だった芙蓉は自分が傷を負っていることに改めて気付いた。
「深くはない、たいしたことないわ、このくらい」
痛みはあるが、獣の牙が掠っただけ、出血も多くはなかった。
しかし、女の表情は険しかった。
「たいしたことない? お前、鬼に噛まれるということが、どういうことか知らないのか?」
「鬼? あの獣は鬼だったの?」
芙蓉は目を見開いた。
「鬼とは知らずに立ち向かったのか?」
「鬼って……昔話の中で出てくる空想の怪物なんじゃないの? 実在するなんて」
芙蓉は鬼の肉片を見下ろした。
女はその一つを拾い上げた。
「鬼を殺す方法は心臓を潰すこと、不死身の鬼はこんなになっても再生するのよ」
まだ血が滴っている肉片を平気な顔で掴む女を見て、芙蓉は気持ち悪そうに顔をしかめた。
「鬼なんてものがほんとにいるなんて……、今まで、見たという人にも会ったことはないし」
「だろうな、鬼と遭遇して生き延びられる人間はそうそういないだろうし」
「あたしは幸運だったのね、あなたに助けられて」
「それはどうかな」
女は瞳に怪しい光を宿しながら、心臓であろうその肉片を口元に運んだ。
「え……」
まるでおやつの饅頭でも食べるように、女は鬼の心臓を食べた。
それを見て、芙蓉は背中に冷水を浴びせられたように身が竦んだ。
女が鬼の心臓を食べ尽くすと、地面に転がっていた他の肉片は、たちまち形が崩れて砂山のようになった。それも塵となり、僅かな風にさらわれた。
「長く生きた鬼は死ぬと肉体を保てなくなるの、滅びて塵となるのよ、コイツはそうね、三百年くらいは生きていたのかしら」
「あなたも、人ではないの……、助けてくれたんじゃないのね」
愕然としながら一歩退く。
「あたしを食べるの……」
「いいや、助けようと思ったのは確かだ」
女は血に濡れた口元を拭った。
「だが、噛まれたのなら、殺してやったほうがお前のためかもな」
後退りしていた芙蓉は石に躓いて尻もちをついた。
「嫌だ! 殺さないで!」
恐怖に顔を歪めながら女を見上げた。
あんな大きな獣を一瞬にして細切れにしたこの女から逃げられるはずないと、芙蓉は絶望に沈んだ。
「そんなに死にたくないのか?」
懇願する芙蓉を女は冷ややかに見下ろした。
「三日後、祝言を控えているの、幼馴染で、ずっと好きで、ずっとその日を夢見てきたのよ、あの人との結ばれないままじゃ、死んでも死にきれない」
「そうか、それであの必死の戦いか」
頭を垂れながら拳を握りしめる芙蓉を見て、女はフッと笑みを漏らした。
「教えてやろう、鬼に噛まれたのに命が助かったものは、やがて鬼の毒に冒されて鬼になるんだよ、それでも生きていたいか?」
「鬼になる、あたしが?」
芙蓉は愕然とした。




