第2話 女難の因縁 その15
新たなデマが流布して、史乃はご機嫌だった。
(佐伯さんの噂話なんて誰にも興味ないやろうけど、相手が綾小路君だと話は別、ほんと面白いように広まるわ)
思い通りに運んでいるが有頂天と言うわけでもなかった。
(でも所詮ただの噂、そのうち下火になるやろうし、次はどんな手を打とうかな、前回は大金はたいたのに失敗やったし、でも、かえって面白いことになりそうやわ)
「お姉ちゃん、暗なってきたで」
絃花の声に、史乃はハッと我に返った。
「そやな、急ご」
史乃は妹の絃花を連れて、実母の墓参りに来ていた。
今日は祥月命日、母親が焼け死んだのを目の当たりにした日だった。
学校が終わるとすぐに絃花を連れ出したが、秋の日は釣瓶落とし、薄暗くなりかけていたので、長い石段を登りながら絃花は不安そうだった。
絃花は十歳になったばかり、史乃の母が自殺したのは史乃が十歳の時なので、同じ歳に地獄絵図を見たのだ。
「ここにあたしのお母さんが眠ってるねんで」
史乃は墓前で手を合わせた。
絃花もそれに倣った。
「知ってるよ、お父さんの前の奥さんやろ、病気で死なはったって」
「そう聞かされてるんや」
史乃は冷ややかに妹を見下ろした。
「それは嘘やで、あたしのお母さんはアンタの母親に殺されたんやで」
「えっ?」
絃花は意味がわからずにキョトンとした。
「不倫ってわかるか? アンタの母親はお父さんに奥さんと子供がいると知ってて、お父さんを誘惑してアンタを生んだんや、アンタは罪の子なんやで」
困惑する絃花に悪魔のような笑みを向けながら史乃は続けた。
「それがわかったんはあたしが四年生の時、なにも知らんかったお母さんはショックのあまり自殺したんや、お母さんを裏切ったお父さんとアンタらのせいで焼身自殺したんや」
史乃はずっと計画していた。
父が不倫相手と再婚した時、絃花はまだ六歳で理解できるとは思えなかったので、自分が地獄を味わったのと同じ年になったら真実を明かそうと考えた。それまでは憎しみを隠して、表面上は優しい姉を装っていた。そのほうが真実を告げた時のショックは大きいだろう。
「焼身自殺ってわかる? 自分で自分の体に火ぃ点けたんやで、よう燃えるように灯油かぶって、どんなけ熱かったやろな、見てたあたしも火傷したし」
やっと今、その時が来た。
運気は自分に向いていると史乃は確信していた。仁南の一件もそうだ。思い通りに事が運ぶはず。
「お母さんの苦しみはどんなもんやったんやろな、遺書もあの男に処分されたし読めへんかったけど、さぞ、恨みつらみが書かれてたと思うで、アイツらはお母さんの最期の言葉さえ葬って、お母さんは鬱で衝動的に自殺したってことにしたんや、自分たちの不倫は隠して」
幼いこの子の精神が崩壊したら両親はどう思うだろう。嘘をついていたことを責められたら、どう言いつくろうのか見物だった。
「まだあるで、死亡保険金を頭金にして今の家を買ったんやで、その家でのうのうと暮らしてるんやで、アンタら家族は」
「嘘や! なんでそんな嘘つくの! パパとママがそんなことするはずないやん」
絃花は顔を真っ赤にして叫んだ。
(そうよ、そんな顔が見たかった。混乱しなさい、取り乱して両親にぶつけるんや、家庭崩壊の序曲を奏でて)
「嘘やない、なんなら母親に聞いたらエエ、まあ、本当のことを言うとは限らへんけどな、なんせ、あたしのお母さんからお父さんを奪っても、家庭を壊しても、お母さんが自殺しても気にも留めずに自分の欲しいものを手に入れた悪魔のような女なさかいな、絃花にも残忍な血が流れてるんやで」
肩で大きく息をしながら、絃花は涙を浮かべた。
「あたしもお母さんも、アンタらを許さへん、覚えときや、人殺しは必ず報いを受ける時が来るって」
史乃は容赦なく畳みかけた。
「勉はまだ小さいし、今は言わへん、十歳になって理解できるようになったらあんたら家族の罪を話すつもりや。あっ、でもご近所さんから耳に入れるかも知れんな、悪事は隠しきれへんもんやし」
(もう、火種はつけたから、消せへんで、あとは燃え広がるだけや)
史乃はなにもかも思い通りに運ぶと信じていた。
絃花は突然、走りだした。
「絃花!」
あっという間に石段を下りて、姿が見えなくなった。
「まあ、一人でも帰れるやろ」
計画通りぶちまけてスッとした史乃は、仁南への新たな嫌がらせを考えながら、帰路についた。
ゆっくり石段を下りている時、
ドン!!
いきなり背中を勢いよく押された。
「キャッ!」
振り返ろうと体を捩った目の端に、絃花の姿が入った。
(帰ったん違うの!)
待ち伏せされていたのだ。
(しまった! アイツはあの女の子供やった、ママを死に追いやった残忍な女の血が流れてるんや)
高い階段の上で突き飛ばされ、手すりもなく、史乃の手は虚しく宙を掴んだ。
(あたしは大怪我を負う、ああ、そうか、ヒロインは虐げられるもんやし、そんなあたしを見て、彼はやっと気付くんや、病院で目覚めたら、綾小路君がいる、ベッドの脇でずっと付き添ってくれてるはずや)
宙に浮いてから、落ちるまでのほんの数秒、史乃の脳裏に今までのことが浮かんだ。
不倫した父親と愛人に、自殺に追い込まれた母の死を目の当たりにした可哀想な少女の自分。
不倫相手と再婚して、新しい家族の中で疎外感に苛まれながらも、イイ子を装って過ごす日々。
なにも知らず無邪気な弟妹と、実子ではない史乃を差別する義母。
史乃は絵に描いたような悲劇のヒロイン。
そんな中で、運命の人に出会った。
それが遥。
でも遥の傍にはいつも仁南がいる。
史乃目線だと仁南が悪役令嬢だ。
悪役令嬢は弾劾されるはずのなに、なかなかそれは起きない。
ヒロインは騙されている運命の人の目を覚ますために、あえて悪事に手を染める。それもすべて彼のため、自分がどうなろうと愛する彼のためなのだ。
そして、いつかは報われる日が来ると信じていた。
(これがクライマックス、目覚めたあたしに綾小路君は言うの、〝運命の人は君だと、やっと気づいた〟って、そして、優しいキスをくれるの)
ゴツン!!
鈍い音がした。
史乃は頭から落下し、後頭部が石段の角にぶつかった。
鮮血が石の階段に広がり、下の段に流れ落ちた。
史乃の目はカッと見開いたまま、しかし、口角は少し上がっていた。