プロローグ
「やっぱり車での長時間移動は疲れる…」と、愚痴をこぼす相手も、今はいなくなった。
仮住まいのホテルから、実家に帰るために、誠吾は車を走らせている。
数日前に、ようやく両親の葬儀が滞りなく終わり、遺品やら遺産やらで、ドタバタした日々を送っていた。
本当に、多忙極まりない日々だったと、自分でも思う。
私こと『天城 誠吾』は今年で四十七歳なる。
だから、今は四十六歳だ。
もちろん『男性』である。
両親、父親は七十代前半、母親は六十代後半。
これまで、よく生きたと言ったら、世間一般から悪く、『薄情な』、『常識がない』と陰口もたたかれるかもしれないが、そこそこ二人は長生きした『人生』だったと息子である誠吾は思う。
最後の年齢を、改めて確かめるのことは不要だ。
無粋である。
事故だった。
車による事故で、そのせいで両親二人とも、一気に他界してしまった。
そろって、運悪く、だ。
事故による、相手がいなかったことが幸いして…いや、この場合、幸いと言っていいのか分からないが、とにかく少なくとも『他人様』に迷惑をかけることが無かったことは、本当に救いのあることだ。
事故の詳細は省くとして、今更、それを誰かに語ったところで現実が変わる訳ではない。
事故の内容など、思い返したくもない。
誰もが、そう答えるだろう。
誠吾もそうだし、嫌なことには、口を噤む。
勤務先であった京都の、とある工場で、半導体関連の製造の仕事を長年していた誠吾は、突然、ある日、上司から実家から電話がかかっていると、その旨を知らされた。
普段、実家から電話がかかってくる事は皆無だ。
いや『仕事中』と一言あえて、付け加えた方がいいかもしれない。
とにかく、急いで何事かと思い、軽い気持ちで受話器(会社の電話なので、スマホではない)を手に取った。
急ぎの用事があるわけでもなく、両親に持病がなく、現在、通院している医院等もないことが関係しただろう。
電話の内容に、心当たりがなかった。
とにかく、まず話を聞こうと耳を傾ければ、信じがたい内容が受話器から飛び出した。
いざ、自分がその立場に立たされると、テレビドラマ等ではよく、『劇的で』、『衝撃な』と、盛り上げるために言われているが、いや、テレビドラマではよく…と表現していいのか分からないが、とにかく『不幸』な電話がかかってきた場合、どう対処するだろうか?
まず『信じられない』という気持ちが第一にあった。
そして『何かの間違い』であると。
次に『軽症』であるはずに違いない、と自身では思い込むようになる。
しかし、現実は無常で、残酷だった。
『まず結果だけ』を相手の人から、今回は、受話器の向こう側にいるのは警察関係者の男性だった。
知らされるのだ。
事故の詳しい状況や説明は、この後、あると思う。
医療機関である病院などで、長期療養中、仮にその人がもう『旅立つ前』となると、病院の関係者から連絡が入るらしい。
当然だろう。
しかし、今回は…果たして『今回は』と思っていいのか分からないが、とにかく、事故の現場、状況から、警察関係者が即座に対応、連絡するという形となったそうだ。
これも当然だろう。
その辺りは、同情的に、そして淡々と説明された。
聞く側は、生返事しか返せない状態だった。
幸いな事に、きっと幸いだっただろう。両親二人とも、その『瞬間』が来た時に、その『瞬間』が来るまでもそうだが『苦痛』はなかったそうだ。
即死だ。
痛みだけいえば、それは本当に『幸い』だったと言える。
誰もが、言える。
仮に、絶望の苦しみを感じていたなら…そう、この後、特急で事務所から飛び出し、実家へと車を走らせている途中で、数時間後に自分で考えて恐ろしくなった。
改めて思えば、この時、両親が絶望を感じなかったことに、心底、誠吾はホッとした。
何度も、そう思った。
誰だって『心安らかな』方が良い。
きっと、今頃、『天』へと召された両親二人とも、そう思っているだろう。
とにもかくにも、様々な感情が押し寄せ、頭の知らない部分を巡って、まともに状況判断、冷静な行動が出来なかった。
心のゆとりがない。
直ぐ近くで控えていた上司に、先ほど聞いた事故の話を簡素に伝えた後、その日は仕事を急遽切り上げる為に、半日休暇を貰った。作業着から普段着に着替えてから、駐車場へと向かって、その足で実家、四国にある香川県へと足を進めた。
その、田舎へ、だ。
警察関係者の男性は、当初、所属と名前を名乗ったが、名前だけ直ぐに忘れてしまった。後には所属だけが残った。
誠吾もよく知っている地域だった。
帰省の途中、よく自分でも『事故』を起こさなかったと良かったと思った。
無意識に『事故』に対する注意力、警戒心が高まっていたのかもしれない。
人の防衛本能だといえるだろう。
どんな事故であれ、『事故自体』に対する気持ちが、ブレーキがかかっていたのかもしれない。
実家に無事帰って、その後の事は、もはや語るべきもない。親類に連絡、知人に連絡、警察関係者と確認、葬儀関連に連絡、などなど怒涛の勢いで様々な事が迫ってきて、説明する気もない。
思い返したくもない。
誰かに、今後の後学の為に、懇切丁寧に教える気もない。
ふと、実家に帰ってからは、いや、実家に帰る途中もそうだが、親類から電話はかかってこなかった。
その辺りは、警察関係者が事前に、話をしていたのだろう。
誠吾に余計な気を使わせるのが嫌で、お互いに納得というか、示し合わせたのかもしれない。
当然、実家の前にもいなかった。
もしくは、連絡が一切無かった事も、あり得る。
第一に、親類の手を借りて、会社には改めて、後から連絡する事を付け加えておいたので、落ち着くまで有給を取って、すぐ近くのご近所が駆けつけてくれたのと、父親の実家、母親の実家の力を借りて、更には、インターネットの力を借りて、なんとか二日前に、全ての『葬儀』が終わった。
『全ての葬儀』なんて言い方、自分でもよく分からないが、親類一同に連絡、加入している宗教のお寺への連絡、市役所への連絡、墓石の事、通夜、葬儀、告別式の手配、実家の遺品の整理、他にもある。
改めて思い返しても、思い出したくもなく大変な日々だった。
誠吾は一人っ子だったので、兄弟に頼ることがなく、自分一人でする事になった。
ほとんど、親類の祖父や祖母の手を借りた。
親類の祖父や祖母は、曾祖父や曾祖母の葬儀をやっているので、勝手が分かるのだ。
祖父や祖母の子、誠吾にとっては従妹だが、従妹では葬儀関連は分からなった。
なので、酷い言い方だが力になれなかった。
でも、場を和ます話や慰めはしてくれた。
改めて、存在の有難味を、知った。
でも仲は、親しみ半々だ。
それでも、ただ一人の跡取り(後継者な為)なので、大事な取り決めは全て誠吾がしなければいけなかった。
誠吾が『可』を出せば、それが通るのだ。
逆に『否』を出せば、話が進まない。
そんな事は何もなかったが…。
葬儀には、大体『流れ』というものがあった。
取り決めが、ある程度あるのだ。
後は、沿えばいい。
ひな型と言い換えても、良いかもしれない。
まあ、ある意味、分かる話だ。
人によって、一から十まで作れない。
全てを作り変えていれば、時間がないし、キリもない。
その必要がないのも、こういう形となった事に頷ける。
話し合いの時間の合間をぬって、一部の親類からは『一緒に住むか』という話も持ち上がった。
出来なければ『近くに住むか』との話も持ち上がった。
が、誠吾は頭を下げながらも、苦笑いして断った。
その都度、申し訳ない気持ちで一杯だった。
しかし、そこはやむを得ない。
今更になるが、四十過ぎの後半のおっさんが、一人でも親類だが、そんな人達と住めない。
世話になれない。
世間で見れば、笑い者にされる、かもしれない。
こんな話が持ち上がったのも、両親のあんな死に方が関係しているかもしれない。
これまで長年、京都で一人暮らしをしていたので、一人は慣れている。
人がいないのも、変わらないのだ。
住む家と土地が、変わるだけである。
生活する術は、既に持っている。
お金も、ちょくちょくと貯めて、性格からお金はあまり使わないので、これからずっと生活する分には、不安はない。
実家に残っている両親の遺品の整理。
この場合『遺品の破棄』もあるだろう。
遺品の処分だ。
ほとんどが、廃棄するものだろう。
『家』と『土地』、それに『山』はある。
様々な道具類もある。
両親が残した貯金もある。
贅沢しなければ、十分だろう。
一番の難問だったのは墓石の事だ。
墓石だけはどうしても、すぐには対処できない。
金銭面で言っても、そうだ。
いや、金銭面が大きい。
しかし、そこは、田舎ならではか、生前、両親が話していた『死んだら先祖の墓に埋めてくれ』遺言通り、先祖の墓に遺骨を納めた。
先祖代々から持っている、墓地、墓石が近くにあるのだ。
毎年、両親が手入れをしていた。
今度は、誠吾の番だ。
それでも一応、新しい墓石を立てる案も、親類が気を使って、新しい方が良いという話も上がったが、両親の遺言が優先された。
親類も、単に見た目を気にしただけだったらしい。
すぐ隣には、今回、大変お世話になった親戚のもの、古い先祖代々もある。
親類のものは、大抵、すぐ近くに設けられている。
晴れて、先祖代々の墓には、喜ばしい事ではないかもしれないが、新たな故人が増えた。
今頃、両親二人共に、心から安らかに眠っているだろう。
そう願いたい。
最後のお別れは、実を言うといくつもある。通夜の時、葬儀、告別式の時や、炉前読経の時や、納骨の時、など。自分自身がそうだ、と思った場所がそうだ。
改めて、不思議と、両親の事故による『死』を知ってから、誠吾は涙は出なかった。
もちろん『悲しい』、『辛い』という感情は押し寄せたが、これからの事を思うと、現実を見るとどうしても涙は流れなかったのだ。
いつかは『人ならば避けられない運命の定め』みたいな事が脳裏をよぎり、『死』自体を『当たり前』のように感じていた。
受け止める気持ちが出来れば、いや、以前からそんな事を思っていたが、受け止める気持ちが出来ていれば、例え、人生にとって最も不幸ともいえる、両親の死の直後だろうと、早々感情があふれる事はない。
その事を『薄情だ』とか『冷血だ』とか『人間味がない』だとか思う、思われたかもしれないが、誠吾の性格からいうと、そういう『側面』もある。
時間が…『死』という現実から、ある程度、時が経った後でも変わらなかった。
涙は出なかった。
幾度も、大事な話し合いの場が設けられたが、誠吾に『決定』をゆだねられる度に、『面倒』とは口が裂けても言えなかった。
自身に課せられた責務だった。
期間としては短かったけれど、気持ちでいえば長時間、濃密で神経を擦り切らせる時間だった。
とにかく、人生での最大で一番の区切りと言っていいのか分からないが、最後のお別れを済ませ、誰もいない、両親が残した物もほとんどない実家へと帰る事となった。
昨日は、とにかく休むために一日費やした。
帰ろうと思えば、昨日、仮住まいのホテルを引き払って帰れたのだが、気持ちがそうはさせなかった。
本当に、心身共に、見えない所で疲れていたのだろう。
仮住まいのホテルを取ったのには、理由がある。
葬儀中、実家での作業が主だったが、そこで生活も出来たが、これまでの思い入れが強すぎて、出来なかった。
一時、住む事も出来なかった。
自分の部屋が既にあるのに、避けたのだ。
無駄なようだが、近くにあるホテルに宿泊する事にした。
実を言うと、朝、ホテルから出て実家に向かい、また実家からホテルに戻るという、無駄な事をここ何日間、葬儀が始まってから終わるまで繰り返した。
親類には一応、説明してある。
対向車の影がまばらな道路を見ながら、辺りを見渡す。
暗く、木々が生えている。
昨日、風呂に入ってる時に京都での忘れ物を思い出し、急遽、今日、京都に行くことになった。
葬儀の合間中、何度も足を運んでは、様々な手続きを行った。
両親の死をきっかけに、ここでの生活の全てを引き払って、地元に戻る事になったからだ。
京都に残ってこれまでの生活を続ける、という選択もあったが、止めた。
理由は、いつかは遺産を継ぎ、実家に戻らなければいけないと思っていたからだ。
会社の退職、
仕事は製造業だったので、引継ぎの作業をしなくてはいかず、作業は簡単だった。
上司には、あらかた事情を伝えていたので、後は退職願いと、その受理だった。
それも、事情が事情な為、『NO』とは言わず、すぐに受理された。
本来なら、仕事の、後釜の為に、色々と教えるために、会社に残らないといけない場合が多いのだが、そこは二交代制の製造業。
そんな事はなかった。
元々、機械相手だったので、仕事も、機械の操作を覚えれば出来るものばかりだった。
なので、機械の操作を教える必要があるのだが、二交代制の、誠吾の後から入ってくる人が、それを教えれば問題ない。
誠吾が後の時もあるけど、基本、一日を二交代に分け、どちらかが八時間労働の後に、次の人が八時間労働するという流れだった。
なので、ほんと、引継ぎ作業は不要だった。
この手の製造業での『ブラック』はあり得ない。
基本、『ブラック』といえば、超過勤務が挙げられ、延々とサービス残業を強いられるが、時間が決まっている場合、言うに及ばず。
なにせ、次の人が待っているので、続けて勤務する必要がないのだ。
なので、基本、労働時間は一定である。
そこだけを見ても、誠吾の通っていた企業は『ホワイト企業』だった。
製造業、延々と機械を相手にするが、そこは利点だった。
住民票の変更、
住民票の変更には、市役所に行った。
必要書類を書き、それを提出し、後は書類を受け取ればいい。
それだけである。
居住の退去、
京都で住んでいた部屋の引き取りは、業者に全て任せた。
いちいち、自分一人で、家具やら何やら、全てを運べない。
運ぶ気力もないし、何より、時間がなかった。
ただでさえ『葬儀中』という忙しい中、他の、別の案件、作業に手を回せない。
業者にまかせば一発で、後は全て自動でやってくれる。
お金がかかるだけだった。
賃貸の解約手続きは、誠吾が行った。
他にも、手続きやら作業やらしなくてはいかず、京都と香川を、何度も往復する事になった。
葬儀の作業中という多忙な時間の中で、更に時間を見つけて調整しなければいけないことに、心労を費やした。
それに体力、気力もだ。
お金も無駄に使った。
その甲斐あってか、ほとんど重要な物は手続きを終えたはずだったが、まだ雑用が残っていたのだ。
その為に、何度目になるか分からない京都への旅に出発した。
今となっては、もう慣れたものだ。
様々な手続き、用事を終えた後、いよいよって時、になって、ほんの少し、情緒あふれるというか、感情的になった。
名残惜しい気はしたが、思い入れはなかった。
多少、残った方が良いかな、と思ったが、それ以上の事は思わなかった。
二十歳の頃、香川で数年、コンピュータ関連の仕事をした後、そこを辞めて、京都にやって来た。
単なる気まぐれだ。
仕事以外に付き合いはなく、友人、知人も京都にいなかった。
そう思えば、寂しい、京都での長年の暮らしだった。
かれこれ、数十年。
仕事仲間はいるけど、それ以上の付き合いはしていなかった。
ほんと、付き合いという付き合いはしていない京都だった。
特別な、思い出もない。
なので、あっさり…とはいかないが、多少、あっさりと京都から引き揚げた。
そんなこんなで現在、京都からの帰り道…朝、香川の仮住まいのホテルを出発し、そのまま京都に到着。そこで忘れ物の用事を済ませ、そのままとんぼ返りでまた香川に戻ってくるという重労働を強いられた。
その為、現在の時間は夜八時間近。
ほとんど休憩を取らず、ほんとんど車に乗りっぱなしだ。
おかげで、とても疲れている。
昼食は近くの、移動しながら近くに見えたスーパーに立ち寄って、サービスエリアはお高めなので、弁当と飲み物を買って済ませた。
夜も、どうしようか悩んでいたが、実家にある『お手軽食品』で済ますかもしれない。
カップラーメンか、レトルト食品だ。
そして今、香川の山道を走っている。
もうすぐ、実家に戻る、という所まで来た。
毎回の事ながら、苦行である。
そのせいか、頭がぼーっとして、余計な事を考えてしまう。
車の運転中だから、危険なのは分かっていたが、分かってはいたが、抗いたくなかった。
落ち着いた、と言ったら嘘になるし、全く気持ちは穏やかではなかった。
先ほどからずっと様々な事が頭を巡るが、これまでの事や、自分自身の事が否応でも脳裏をよぎる。
誠吾は自分でも『特殊』だと思っていた。
周りの同世代の友人達からは、友人達とは『違う』と思っていた。
自分は、周りの人達より『欲が少ない』。
ありとあらゆる『欲求』というものが欠如しているのだ。
それは、金銭であったり、衣食住であったり、物であったり、性であったり…。
とにかく『欲が少ない』人間だった。
それに加えて『自分』というものを持っていなかった。
どこか他人に合わせ、あたかも他人の意見が自分の意見、他人の感情が自分の感情、的な事をずっと感じて生きてきた。
他人が笑えれば、自分も笑わせる行動を取り、他人が怒れば、自分が怒らず、自分が悪い、的な事がずっと長年続いていた。
『自分というものを持っていない』、
『欲求が少ない』、
この大きな二点を持っていたが為に、自分が『特殊』であると気づいたのは、ついつい最近だ。
四十代に入ったぐらいに気づいた。
それ以前は、何となく『自分は周りとは違うな…』と漠然と思っていた。
それも何十年、もだ。
その為、様々な苦労をした。
『自分が無い』為に、自身の目標が薄れ、周りからはイジラレキャラとして扱われ、しかし、そう扱われているにも関わらず、周りが笑っているから、自分でも笑う努力、行動をしていまう。
そして、泥沼に入るのだ。
反論し、少しでも雰囲気が悪くなるのが嫌なのだ。
『自分が無い』という事は即ち、『周りの人達が自分になる』という事だ。
極端な話、感情が文字通り『移って』しまう。
他人が感じている感情が、自分の感情になるのだ。
そして、少し間を挟み、数分後、数時間後、数日後、その時の事を思い返せば、どうしようもない『虚無感』、『惨め感』みたいなものに襲われるのだ。
『自分はそうじゃない!』と、心で強く思ってしまう。
性格は、愛想がいいわけではないが、ぶっきらぼうではない。
いや、ぶっきらぼうどころか、協調性があるように思えるが、そこが大きな問題だった。
自身の内なる変化、とりわけ、自分が周りからはそう見えるが、実の所、周りに合わせて同調してしまうのだ。
違っている。
協調性といより、強い(強引な)協調性だ。
強制的な? と、大袈裟に言った方がいいのかもしれない。
良い人を演じてしまう。
本当の意味で、『協調性』を持っていない。
後、負けず嫌いという気持ちは皆無だし、細かい事を気にする。
でも、優しい。
『欲が少ない症状』は『自分が無い症状』よりも、もっと顕著だ。
生に対して、淡泊なのだ。
はっきりと言うなら『生きようとしていない』。
生きる気力がないのだ。
そう言うと、死の願望があるのかもしれないが、いや、あるにはあるが、ここが複雑で言い回しが難しい。
『死』に対して、もちろん『恐怖』はある。
その『瞬間』が来たなら、きっと誠吾は『生に執着』するかもしれない。
生きたいと思うだろう。
でも、なんていうか、『生に対しての執着』が少ないのだ。
他人が仮に、『生の執着』100だとしたら、自分は恐らく50もない。
20か30か、そこらだろう。
これは若い頃、誠吾が『うつ病』にかかったことも大きく関係している。
誠吾は、中学生の頃から、たぶん、二年生辺りから『うつ病』にかかっていた。
昔、当時は当然、そんな事は分からず、そんな言葉すら世間では周知すらされていなかったが、ただただ悩み苦しい時期だった。
その時期がずっと続き、軽い症状まで含めると、四十代まで続いた。
そう、最近になって、完治(完治は出来ない。自分ではそう思う)に近い状態までなった。
一番酷い時は、二十歳前後で、これほど当時の事を思い出すのが嫌で嫌でたまらないものはない。
もはや、言葉に出来ない。
情緒不安定。
言葉で表すなら、この一言で説明できるが、まさに様々な事が起こった。
外見で言うなら、見た目で言うなら、何もないどこにでもいる『普通の成人』だった。
しかし、その内には、内面には、様々なものが、禍々しいものが吹き荒れていた。
例を一つ挙げると、『死』に対する『欲求』、『恐怖』はまさにこの時がピークだった。
死ぬことが怖いけど、情緒不安定な為、それを求めてしまう。
しかし、怖いので実行できず、また情緒不安定になる。
その繰り返しだ。
更に例を一つ挙げると、プラットホームに立ち、電車がホームに入って来るだけで、どうしようもなく落ち着かなくなり、恐怖する。
動悸が速くなり、不安になる。
まるで常時、どうしようもなく緊張状態にさらされているようだ。
それは肉体にも表れる。
動悸もそうだが、誠吾自身は吐き気を催すのだ。
それも、強力な。
実際、外で『もどす』事はほとんどなかったが、『吐き気を催す』こと自体、日課になっていた。
そう、毎日だ。
なので、実家から外に出る度に、いや、出る前から凄まじい緊張状態を強いられ、それを感じながら、堪えながら、家を出るのだ。
この瞬間が一番嫌で、実家を出る前に何度、吐いたか分からない。
両親に心配かけたくなったので、こっそりと見つからないように行動した。
この事は、最後まで、両親が他界するまで、見つからなかった。
本当に、人生で最大といっていい、気を使った。
語った事もない。
とにもかくにも、盛大に愚痴で、黒歴史を語っているが、誠吾が『死』を受けれたのはずっと前だ。
何度も言うようだけど、二十歳前後。
人生で言えば、一番良い時、『花の二十歳』頃が、誠吾にとって『人生で一番最悪』な時期だった。
それが二十四歳ぐらいまで続いた。
最初の会社に二十歳に入ってから、まさに地獄だった。
会社を数年後辞めたのも、少なくとも『これ』が関係している。
病院に行くことも、この頃ぐらいにか、ちらっと考えたけど、『自分』が『おかしい』、いや、『自分が異常』だということを認知するのが怖くて、行かなかった。
病院に行けば『自分が異常』だという事を、否応でも理解してしまうからだ。
それを避けたのだ。
そうなりたくなかった。
少なくとも『自分は異常じゃない』と思い込まなければ、この先、やっていけなかった。
『完治するには』ほど遠いと感じた。
自分の場合にのみも当てはまるが、『追い詰めれば』何をしでかすか分からなかった。
話を戻すが、そういう理由から、誠吾自身の生の執着が今でも20ぐらいしかない。
しかも今回、両親の『死』があり、より『強まった』。
いや、この場合、『数値が下がった』と言った方が正しいかもしれない。
そのせいもあってか、元々、生きる意味を見出せずにいる。
今では、両親が死んだので、自分の人生を終わらせようと考えている。
半分は本気だ。
こういう話をすると『欲が少ない』=『生の執着がない』と思われがちだが、他人なら一番の欲求である『生の執着』。生きたいと思う心が最も強いと思われるが、その心の欲求が少ないため、それ以下(価値として下がる)の欲求も少なくなるのだ。
『生』があっての『金銭』。
『生』があっての『衣食住』。
『生』があっての『物』。
『生』があっての『性』。
まさに、それを証明するように、誠吾はこれまで、『彼女』というものがいたことがない。
恋人はずっといないままだ。
当然、付き合ったこともない。
四十六歳になっても、だ。
異性の友人はいたが、それ以上の存在はいなかった。
惨めで、赤裸々な事を告白するようだが、女性との関係は『一切ない』。
これまで『手を握った』ぐらいだ。
それ以上の大人の関係になった事はない。
心がずっと、高校生のままだ。
そう、『うつ病』を発症した頃ぐらいだ。
欲が少ないから、女性関連に対しても、全て薄く、淡泊になってしまう。
加えて『自分が無い』から、女性に『自分として接し』きれない。
自己主張すらできないのだ。
何度も言うようだが、その事に薄々気づいたのは、四十代に入ってからだった。
なので、全てがほとんど『手遅れ』だった。
現時点でも、積極的に女性と関わりを持とうと思わないが、当然、興味はあるが、それ以上の行動が出来なかった。
女性の経験がない為に、信じられないもので見られ、気持ち悪がられるかもしれないが、自身が招いた責任だ。
亡くなった両親は、お見合い写真の話は、あまりしなかった。
余談だが、誠吾はノーマルだ。
当然、女性が好意の対象となる。
それ以外、あり得ない。
そこは断固、語っておこう。
とにもかくにも『青春』という淡い期待と希望に満ち溢れた時間がなく、絶望と恐怖に彩られた若き日の事だった。
当時を振り返るのは、心底、嫌だった。
何が一番嫌になるかというと、『再発』しないか、だ。
二度と、誠吾自身では、あんな事は二度とごめんだ。
陥りたくない、やりたくない。
しかし、当時も思ったが、自分の気持ちとは裏腹に、関係なく、足音を忍ばせてくるのだ。
再発しようものなら、防ぐ手立てはない。
それが一番怖い。
その時、全てをぶった切って、突然『声』が聞こえた。