呪われた王女は強面騎士にさらわれて、ついには愛する彼の下穿きになりたい
「はぁっはあっ……! カドモス様ったら、逞しくてステキ……!」
「殿下、お戯れはおやめください」
カドモスと呼ばれた第三王女付きの騎士は、元から厳しい顔つきをさらに険しくさせ、憮然として言った。
もとは傭兵であったカドモス。
二メートルを超す長身に、筋骨隆隆の逞しい体躯。
顔には目立つ刀傷に、右耳より下を斜めに覆う火傷の痕まであり、負った傷の後遺症か、口を開いたり表情を動かす都度、右頬が引き攣れる。
ハッキリ言って怖い。怖いのだ。カドモスの容貌は。
そんなことはカドモスだって承知している。
王女のワガママで近衛騎士として王宮内に引き立てられてからというもの、カドモスは居心地が悪くてたまらない。
名誉だとか地位だとか特権だとか。その他もろもろ。
そんなものに興味はなかった。
うまい酒とうまい飯を食らえるだけの金が得られればそれでいい。
盛り場でカドモスに怯えない商売女を拾い、戦争があれば、忠義も信念も何もなく、金払いのいい方に雇われる。
死に急ぐわけではないが、生き汚くなるほど、この世に執着しているわけでもない。
どこにでもいる傭兵の一人だった。
だが。
「あのお方をわたくしの騎士につけます」
なんの気まぐれか。
カドモスはこの国の第三王女の護衛騎士にされてしまった。
そのほとんどが貴族階級出自という近衛騎士達。そこにカドモスが混じる。
生国も杳として知れぬ、傭兵上がりの野蛮な男が。
「第三王女殿下はこの度、珍獣を飼い始めたらしい」
「高貴なる御方のご趣味はわからんな」
これにはカドモスも同意する。
あの世間知らずの姫さんは、いったい何を考えているのか。
だいたい、カドモスの見た目のまずさは、この麗しくも華やかな王宮で浮いている。浮きまくっている。
実際、カドモスは幾度となく困惑させられてきた。
自分の顔が目に入った途端、火がついたように泣き叫ぶ、高貴なる生まれの子供。
真っ青な顔でふらりと後ろに身体を傾ぎ、気を失う令嬢や令夫人。
――嘲笑われんのは、かまわねぇけどさ。
鼻持ちならない貴族連中に蔑まれるのはかまわない。
そんなのはお互い様だ。
男も女も問わず白粉をはたき、紅を引き、重そうなカツラを被り。道化のような金ピカ衣装に身を包み。
なまっちろくて、細っこい軟弱な貴族連中をカドモスとて鼻で笑っている。
だからそれはいい。
カドモスが王に問うたとき。
第三王女の身を護る護衛騎士が、自身でよいのかと。貴族出自の身元確かな人選はどうした。王族を護るに値する者は他にいるだろうと。
すると王は答えた。
「アレは我の子ではあるが、正妃の娘ではない。故に重要な執務は任せておらん。その護衛騎士の出自など、アレの好きにすればよい。己の騎士に血筋を問わぬとは、アレの出自らしいではないか」
王女が回廊を進み、その後ろに控えるカドモスの耳に届いた声。
「あのように恐ろしげな怪物を側に寄せるなど……! やはり殿下は呪われているのだわ……!」
これにはカドモスも、申し訳ないような。だから言ったろう、と呆れるような、不貞腐れるような。複雑な心地になった。
◇
「カドモス様。どうかわたくしを攫ってくださいませんか」
「お断りします」
何度目か知れぬやり取りに、カドモスは間髪入れずに否を突きつけた。
胸の前で手を組み合わせた王女は、カドモスの素っ気ない答えなど気に留めない。
話を聞いているのかどうかも怪しい。
王女は頬を薔薇色に染め、夢見心地なウットリとした顔つきで懇願を続けた。
「ああ……っ! 何もわたくしを王女として攫ってほしいなどと、そんな欲深いことは申しません」
「アンタを王女として扱わなくていいってんなら、なおのこと、ワガママ娘のたわ言なんざ、聞く必要がねぇな」
カドモスは半ばヤケクソだった。
それにどうせ、この王女との出会いからして、ろくなものじゃない。
王女はますます恍惚となってカドモスに近寄る。
「まぁ……! その荒っぽく男らしい言われよう。なんて素敵なのかしら。カドモス様のお言葉は、わたくしの内に火種を落とし、その灯火はまるで焚き火のように燃え盛ってゆきますわ……!」
お上品に婉曲してはいるが、言わんとすることはだいぶ卑猥である。
カドモスは当初理解できず、王女に解説を願った。王侯貴族間で通じる、詩のやり取りか何かかと。そしてカドモスは聞かされた。
火種とはアレだと。
恋慕だとか。そのあたりを想定しつつも、いやいや傭兵上がりの身でそれはさすがに自惚れが過ぎるだろう、しょせん珍獣なんだ、ペットと同じだと首を振るカドモスに。王女は。言った。
火種とはアレだと。
カドモスは頭を抱えた。
「なぁ。アンタ、俺なんかをからかって遊ばずとも、寄ってくる男はウジャウジャいるじゃねぇか。それこそ金も身分も容姿も血統も。何もかも備えた、白馬に乗った王子サマがさぁ」
「残念ながらわたくし、あのような方々の下穿きになりたいとは思いませんの」
「何度聞いても意味がわかんねぇよ、それ」
疲れ切ったようなため息を漏らし、カドモスは項垂れた。
グシャグシャと頭をかいていると、いつの間にか王女が懐に忍び込んでいる。この王女、気配を消すのがうますぎて怖い。
カドモスはギョッとした。
王女の白魚のようなほっそりとした手が、カドモスの腰ベルトにかけられている。
「なっにしてんだ! アンタは!」
「はぁはぁ……。カドモス様の下穿き……! わたくしが代わって差し上げたい……!」
「やめろっ!」
いつの間にか緩められたバックルを、カドモスは慌てて持ち上げる。
王女は「あんっ」と残念そうに、カドモスに向けて指を伸ばしていた。
「いい加減にしろっ! そんなことだから呪われてるってんだ!」
カドモスの大声が室内に響き渡った。
己の失言にハッと顔色を変え、カドモスは口元を抑える。
だが数多の敵を斬り捨て、仲間を救ってきた大きく頼りがいのある手でさえも、飛び出た言葉をなかったことには出来なかった。
室内はしんと静まり返っている。
もともとカドモスと王女しかいないのだ。
カドモスが王女付きとなってからというもの、王女の自由時間においては、侍女ですら王女が払ってしまっている。
やっちまった。カドモスは悔いた。
カドモスの仕える第三王女は庶子だ。
庶子は神から望まれた子ではない。教義ではそのように定められている。
神に望まれない。転じて『呪われた子』。
「すまん。姫さん――」
慌てて謝罪を口にするカドモスに、王女は首を傾げた。
「どうして謝られるのです? わたくしが呪われているのは事実ですわ」
何もおかしいことはない、と邪気なくカドモスを見る瞳。
胸の奥が不快に疼く。カドモスは視線をそらし、舌打ちした。
この姫さんだって、俺のことは暇つぶしくらいにしか思っちゃいねぇんだ。こっちの都合も考えねぇで、我儘勝手、道楽に耽るだけのガキに、罪悪感なんざ抱く必要はねぇだろ。だいたい俺は護衛騎士なんざなりたくてなったわけじゃねぇんだし。姫さんが気まぐれのワガママを抜かすもんだから。それで――。
「ですからわたくし、カドモス様の下穿きになりとうございます!」
カドモスがクヨクヨと言い訳を自分に言い聞かせていると、目の前には王女の顔があった。
ウットリと蕩けきったような。
カドモスが思わず下を見ると、既にベルトはバックルから抜き出されていた。スルスルとヘビのように、ベルトがベルトループ間を泳いでいる。
「うぉおおおおおっ! さわるんじゃねぇえええええっ!」
王女は怒れるカドモスによって、扉の外に放り出された。ぽいっと。
カドモスが顔を真っ赤にして肩で荒い息を吐きながら居座る部屋は、廊下に追い出された王女の私室。カドモスが追いやったのは、部屋の主その人。
だが、カドモスはそれどころではなかった。
貞操の危機だったのだから仕方がない。
幾度も女は抱いてきたが、抱かれたことはないのだ。
もちろんその後、カドモスは叱られた。
扉外で控えていた護衛騎士に「身の程を弁えろ!」と怒鳴りつけられ、近衛騎士団長にチクられ。カドモスはこってり絞られた。
やってらんねぇ。カドモスはボヤいた。
◇
第三王女は庶子である。
王が王妃お気に入りの侍女をウッカリお気に入りしちゃったために、この世に生を受けた。
そしてそのウッカリ気に入られた侍女というのが、曰くつきの存在であった。
「カドモス様ったら、まだ勘違いしてらっしゃるのね」
寝室で王女は一人。枕を抱きしめ、ニヤニヤと品のない思い出し笑いをしていた。
王女は呪われている。
それは事実だ。庶子だからではない。
だいたい庶子にも関わらず、父国王も義母王妃も第三王女を猫っかわいがりをしている。
さすがに王位継承権はない。
だが父国王は、カドモスのようなどこの馬の骨とも知れぬ傭兵あがりの男を王宮内に入れることを許可した。
その分、カドモスが何かおかしな動きをしないか、常に王直属の影を幾人も忍ばせて。有能な人物を厳選し。
カドモスと第三王女。
一見、王女私室でふたりきりだが、実際はネズミ一匹逃さない、鉄壁の警備体制におかれている。王室一の護りを固めさせている。
愛しい娘の願いだからと。そりゃもうデロデロに甘やかしている。
そんな父国王を白い目で見ながらも、義母王妃もまた「不便はない? つらいことは? なんでも言ってちょうだいね」と優しく声をかける。忙しい公務の合間を縫って、せっせと会いにくる。
そして宝石やらドレスやら、高価な贈り物はもちろん、珍しい異国の果物や、甘い菓子、美しい花々など、山のように貢いでいる。
それらすべては王妃の個人資産から捻出されている。
正直なところ、父国王に輪をかけて甘い。グズグズに甘い。蟻がたかってきそうなくらい甘い。
そしてまた、嫡出子たる異腹の王子王女たちも。
鼻の下をのばしきった両親を白けきった目で見ながらも、同様に彼らも、第三王女を前に、デレデレと相好を崩す。
「ずっとずっと、ここにいるといいよ。結婚なんてせずに、僕たち私たちと一緒に暮らそうね」
異母兄姉のことは、第三王女も大好きだ。だが、そんなのはゴメンだ。
愛されているのはわかるが、第三王女には夢があった。
「わたくしに魅了されない方と、燃えるような恋をしたいのですわ!」
第三王女を前にすれば。微笑まずには、愛さずにはいられない。
ほとんどの人間がそうなのだ。
程度の差はあれど、大抵の人間がデレデレになる。ここ一年、その傾向はより一層強くなっている。
カドモスが以前耳に挟んだ、「第三王女は呪われている」という貴婦人の嘆き。
あれは、第三王女を想うがあまりの声だ。決して王女を侮ったり、嫌悪したり、揶揄したのではない。
国の宝たる第三王女が、傭兵あがりの野蛮な男の毒牙にかかるなんて。けれど王女の望みとあらば、叶えて差し上げなければ。ああ口惜しい。このような忌まわしき事態。まるで呪いだ。
そういった悲哀に満ちた声であった。
「まさしく呪いですわ」
これを呪いと呼ばずしてなんと言う。
王女はぼすん、ベッドに倒れ込んだ。頭から背中にかけて、柔らかなシーツが王女を包む。
王女の産みの母。王妃付きの侍女。
王妃が入内する前から。それこそ王妃が歩き出す前から。
王妃の側で成長を見守り、遊び相手となり、恋人となり。そしてついには夫たる国王を共有するに至った、王妃の最も重用し信頼していた存在。
彼女は王女を産み落とすと、この世から消えた。文字通り、跡形もなく。
――人としての姿は。
「わたくしはお母様と違って、一途に愛し愛されたいのです」
拗ねたように唇を尖らせる王女の耳元。小さな光がフワフワと飛び回っている。
「イヤです!」
突然大声を上げると、王女はガバリと起き上がった。
キッと七色に光る球体を睨みつけ、力いっぱい枕を投げつける。
難なく王女の投擲から逃れる光の玉。
王女の鼻先まで寄ってきて、チカチカと点滅する。その様は、肩を怒らせた王女を嘲笑うかのよう。
「わたくしは、ずぅえええええええったいにカドモス様の下穿きになってみせます!」
輝く球体は呆れたように小さく揺れると、扉をすり抜けていった。おそらく国王王妃の寝室へ向かったのだろう。
王女はしばらく、扉に向かってグルグルと唸っていた。
「愛の精霊なんて。わたくしは一人の女として、カドモス様を愛し愛されたいだけですのに」
苦渋の滲む声。王女の肩から力が抜ける。
愛の精霊が持つ魅了の力ではなく。
自分自身を見てくれる人を愛し、愛されたい。
互いが互いにとって、ただ一人の存在でありたい。
そして愛する者の子を産むことで、人の形を保てなくなるのならば。
それならば、愛する者の下穿きとなって、相手の貞操を護り抜きたい。
そんな夢を抱いていた王女にとって、カドモスとの出会いはまさしく運命だった。
◇
第三王女はその日、城下町に降りていた。
髪の色を変え、目の色を変え。町娘風に変装した王女は、すっかり王女らしい気品を消し去っていた。
とはいえ、王女の後ろには護衛の騎士が数人控えていたし、王女付きの侍女は下町のハウスメイド風を装って王女と並んで歩いた。国王直属の暗部の人間も、当然。
それだから、見るものが見れば「ありゃあ、どっかの高貴な誰かさんのお忍びだ」とすぐにわかっただろう。
カドモスはわからなかったが。
昼過ぎの盛り場一角。
店内の客は、それほど多くない。
真っ昼間から飲んだくれるには、皆、懐が寂しい。この店の常連客は裕福ではない。
だがそれでも昼間から酒を煽るバカはいるもので、店主は昼から店を開けている。
しっかりとした昼食までは拵えるのが面倒だが、パンにチーズに腸詰めのような、軽食くらいなら出してやる。
店主は厳しい容貌の、ここ数日見かけるようになった男の前に、腸詰めの盛り合わせ皿を滑らせた。
「何も食わずに飲むのは毒だよ」
「……お代は」
顔を上げずにカドモスはモソモソと口を動かした。
一杯ごと、一皿ごとに支払う形式の店だ。カドモスは麻袋に手を突っ込んだ。
「いらないよ。最近あんたのお陰で、柄の悪い連中が幅をきかせず、こっちも助かってたんだ。これはそのお礼だよ」
そう言って、店主はそそくさとカウンターに引っ込んだ。
強面のカドモス。用心棒代わりとなる有り難さはあるのだろうが、かといって長くおしゃべりしたい相手ではないらしい。
店主の寄越した腸詰めをつまみ、ぐちぐちと咀嚼する。口の中に残った皮。
カドモスは何杯目か知れないエールを煽った。
飲み干したゴブレットをテーブルに叩きつけるように置く。手の甲で口を拭うと、無精髭がジョリジョリと刺さった。
恐ろし気な風貌の大男。それがどうにも悪酔いしているような様子。
自然とカドモスの座るテーブルには人が避ける。巻き込まれてはたまらない。
普段は酒を片手に武勇伝を声高に語る常連客も、小悪党風の薄暗い雰囲気の男たちも。皆が皆、カドモスから距離をとっていた。
「くそっ。どんだけ飲んでもウマくねぇ」
むしゃくしゃした気を晴らそうと酒を煽ってみたものの、一向に気分はよくならない。むしろ胸の悪さは増していくばかり。
「まったく気分がわりぃったらありゃしねぇ」
女でも抱いて気を紛らわせようかとあたりを見回してみるも、カドモスの半径一メートル以内に人がいない。誰一人として。狭い店内であるにも関わらず。
カドモスは舌打ちした。
自身の見た目が人を怖がらせる類であることは、重々承知している。
敵味方入り乱れる乱戦時ではあまり効果はないが、敵対する人数が限られたときであったり、雇い入れられる折など。強面の顔と大きな体躯は有利に働く。
だが今は。
「アイツはいねぇのか」
珍しくカドモスに怯えない娼婦。容貌はいまいちだし、体の線も崩れ、だいぶ年もいっている。商売女としての色は失せて久しい。
だがその分、気安い。カドモスに物怖じしない人物は男女問わず、数えるほどしかいない。
諦めて席を立とうとテーブルに手をついたカドモス。だがそこで、たおやかな白い手がカドモスの目に入った。
「どなたかお待ちでいらっしゃるの?」
十代半ばだろうか。振り返ると、これまでお目にかかったことのないような、それはそれは美しい少女がいた。誰も近寄らずにいた、カドモスの隣の席に。
「待ち人来たらず。それならわたくしのおしゃべりにお付き合いくださらない?」
「アンタの?」
カドモスは鼻で笑った。
どうやら大人の世界に憧れる年頃のお嬢ちゃんが背伸びして、盛り場に足を踏み入れたものの、何をどう振舞うべきか、途方に暮れているらしい。
それにしたって話しかける相手が悪い。度胸は買うが。
カドモスは少しばかり愉快な気持ちになった。
なんたってこの少女、カドモス相手に、少しも物怖じしない。
大の大人ですら強面のカドモスには怯えるというのに。
いや、カドモスがいたからこそ、話しかけられるような人物が店内からいなくなったのかもしれない。
「ええ。もちろん貴方がお話しくださっても構いませんわ」
「俺の話? 俺は傭兵だぜ、お嬢ちゃん。学も何もない。藁屑頭に詰まってんのは、ドンパチだけだ」
「わたくしの知らないお話をたくさんご存じでしょうね」
「そらご存じさ! 世間知らずの可愛子ちゃん。怖いもの知らずのおバカちゃん。アンタ、わかってんのか? 戦争ってものをさ」
カドモスは柄にもなく道化を演じた。
見世物小屋の主のように。胸を張り、腕を大きく振り。ねっとりと笑い、いやらしく媚を売る。
なんとはなしに、目の前の少女を楽しませて機嫌を取ってやらねばいけないような気がしたのだ。
一方でカドモスは、そんな自分にとてつもなくイライラした。
だからカドモスは、怒鳴り声に似た、ラッパのような笑い声を上げ、凶悪な笑みを浮かべた。
親切にしてやろう、それから少女の無垢で柔らかな心をコテンパンに叩きのめしてやりたい。
あべこべだ。
「いいえ。ですがわたくしは知る必要があります」
「知る必要? そうかい。戦場と巻き込まれた村は略奪し尽くされ、家に火が放たれ、女は犯され、子供がおもしろおかしく弓や槍の的になり、息絶え絶えになったところで切り刻まれる話でも? それでもアンタは知る必要があるって?」
「そのような……。まさかそれは我が国の騎士たちが?」
青ざめる少女にカドモスは底意地悪く笑った。
「はん。アンタ本当になんにも知らねぇんだな」
少女は目を見開いた。
カドモスの脅しに怯えたり、ムッとしたり。気分を害したというふうではなく。
驚いた、というように目をまん丸くさせている。
「な、なんだよ」
思ったような反応が得られず、カドモスはまごついた。
袖を引かれたのか、後ろに控えていた女へと少女が振り返る。
そこでカドモスは初めて違和感を持った。
――どうしてハウスメイドが家から出て、主人にくっ付いてきてやがる?
使用人を連れ立って歩く。使用人を使う家の人間であっても、複数人使用人を抱えているとか、それなりに裕福な家でなければ、そんな贅沢はしない。
この盛り場に似合わないお嬢ちゃんが迷い込んできたものだ、とカドモスも呆れてはいた。とんだ命知らずのジャジャ馬だ、と。
だが良家の子女だとは思わなかった。
そういった類の人間が、こんな場末の、安全の保証されないような店に入るはずがない。付き人だって注意するはずだ。
よくよく店内に目を凝らしてみると、妙な男が複数人いる。一見店に溶け込んでいる様子だが、息を潜め、神経を張り巡らせている。
ああこれは。
カドモスは己の不運を嘆いた。
今日は本当にツイてねぇ。ちょっとやそこらの金持ちじゃねぇんだろうな。
「そのお話、どうぞ詳しく教えてくださいまし」
そうしてカドモスは連行された。ツイてねぇにも程がある、とカドモスは聳え立つ王宮を見上げた。
◇
「なるほど。ハノーバー卿か。代替わりして間もなかったな」
カドモスは生涯対面するはずのない大人物の前に立たされていた。
『ツイてない』で終わる話じゃない。
カドモスの人生そのものが終わりを迎え、あの世が手招きしている。カドモスはそう思った。
ならば、と開き直る。
「ああ。そーだよ。ハノーバー卿ってヤツがどんだけ偉い御仁なのか。この国に居着いて短い俺にはわかんねぇけどよ。山賊が出るってんで出陣した奴ら。あいつらのやりようったらなかったぜ」
カドモスがこの国に入国したのは、ハノーバー卿とやらが兵を募っていたからだ。
聞くところによると、山間のいくつかの村に大規模な山賊が出ると。
自領の抱える、君臣の契りを結んだ正騎士達に事を当たらせていたが、被害は増すばかり。
どうにもこうにも、山賊の規模に対して、騎士の数が足りない。山賊と扮しているが、もしや隣国の戦闘斥候ではないのか。
ならばここは傭兵を募ろう。戦力を補強し、しっかりと陣営を組まねば。
そういう経緯だった。
「おかしいとは思ったんだ。文字も読めねぇ書けねぇ傭兵風情に向かって、大仰な契約書なんてものにサインさせやがって。こりゃなんかあるぞってな」
ほとんどの傭兵は、文字が読めない。書けない。
それなのに雇用主たるハノーバー卿は、契約書を鼻先に突きつけた。傭兵の権利を保証するとか、そんな都合のいい話のはずがない。
そしてカドモスは傭兵でも珍しく、文字が読めた。それも生国の文字だけでなく、この国の文字も少しだけ。
「堅苦しい文句だったからな。全部わかったわけじゃねぇけど、はっきりしてるのは、『金は払うが、それ以上に稼いでこい。そんでもって他言無用』。そんなとこだな」
「十分な知らせだ」
玉座に座り、カドモスを見下ろしている偉そうな御仁。
彼はたっぷりと蓄えた顎髭をひと撫ですると、カドモスを見て、面白そうに目を細めた。
「それが真実であるならば」
「ハッ。そうかよ。出自の知れねぇ怪しい傭兵の言うことだもんな」
「そう腐るな。告発があったからと、すぐさま信じるわけにはいくまい。相手が誰であろうと」
カドモスを試し見定めるような、ピリピリとした空気は霧散した。
快活に笑うのは、重そうなカツラとギンギラギンの宝石を嵌め込んだ、これまた重そうな王冠を被っただけの、ただの中年男。
何がおかしいのか。
まるで葉が風にそよぐだけでおかしい年頃の、若い娘のように、王はひとしきり笑った。
それから咳払いすると、ウールのマントをうるさそうに手で払った。
「ともかく」
王笏をつく音が謁見の間に響く。
「おまえはハノーバー卿と交わした契約を破った」
「……ああ」
確実に報酬は得られまい。
カドモスは鼻の頭にシワを寄せた。それくらいで済めば儲けもの。
密告が明らかになれば、カドモスの命はない。
だが既にカドモスは、知らぬこととはいえ、王女に不敬を働いたし、それどころかこの国の王に頭すら下げていない。
その上ハノーバー卿とやらの不始末について、カドモスはおそらく知ってはいけなかった。
どちらに転んでも殺される。
ならば、死ぬときくらい、ほんの少しの善行でもしてやろうかと。いや、そうじゃない。
カドモスは善人じゃない。神だって信じていない。
いつだって享楽的に生きてきた。
無惨に殺されていった村人達。そのあまりに酷い様。その記憶。
村人達は山の神を崇めていた。国教への信仰心の他、土着の神があった。
現在ハノーバー卿の管轄する領地とされながらも、古来から独自の文化を持つ異教徒たちの集落だった。
異教徒たちを蹂躙する理由は、それだけで十分だった。
ハノーバー卿にとっても、騎士にとっても。そしてついでとばかりに便乗する、傭兵にとっても。
大義名分は立ち、正義の名の元、粛清は残酷に、そして異様な高揚を伴って為された。
美しい鉱物の富む鉱山の村、その略奪を。
胸を抉るような悔しさ。哀しみ。怒り。
それはすべて、何も出来ず、ただ指をくわえて眺めているしかなかった己の浅ましさから起こっていた。
つまりカドモスを焚き付けたのは、そういうことだ。
王は愉快そうに、クツクツと笑った。
「おまえの考えていることがわかるぞ」
「そうかよ。俺みてぇな藁屑頭と違って、王様なんてやってるやつは、大層なモンが詰まってるんだろうよ。なんでもお見通しってやつだ」
不貞腐れるカドモスに、王はたまらず大口を開けた。
またもや笑いの発作に身体を揺らす。
なんだこのオッサン。
カドモスはゲンナリした。
罰せられるなら、早く刑罰を明らかにしてほしい。王とは暇なのか。
お偉方のくだらない娯楽で、自分の命の蝋燭が短くなったり、長くなったり。ウンザリだ。
カドモスの『心底嫌気が差した』という顔。王が一瞥する。なんとか笑いを腹におさめると、王は言った。
「今日よりおまえの身は、王家が預かろう」
「そうかよ」
つまりは牢獄か。カドモスはつまらなそうに頷く。
王はまたもや顎髭を一掴みし、束ねるようにして撫でた。
「ふむ。あの子の願いを叶えてやるに足る男のようだ。これ以上はただの婿イビリだな」
「婿?」
カドモスが怪訝そうに眉を顰める。王は拗ねたように、カドモスをひと睨みした。
「そうとも。我と精霊アフロディテの間に産まれた娘。第三王女ハルモニアが、おまえを婿に迎えたいと申しておる」
これ以上ツイてねぇ日は、生涯お目にかからねぇだろう。カドモスは天を仰いだ。
美しい天使と女神の飛び交う、雅な天井画がやけに憎らしかった。
◇
教義では否と定められる庶子。
王族でありながらも、国教においてその出自を否定され、存在に矛盾を抱える第三王女ハルモニア。
それが故に、異腹の兄王子、姉王女と同等の公務は行えず、制限がある。
とはいえ、王族も仕える臣下達も。皆、ハルモニアを国の宝と大事にしている。
その王女が人の形を失ってしまったら。
原因となる相手が傭兵上がりのカドモスだとしたら。
生まれてくる赤子は愛されるだろう。だがカドモスは? カドモスは無事でいられるだろうか。
だから、それだから、攫ってほしい。この王宮を抜けて二人きりで愛を育みたい。
第三王女ハルモニアは切々とカドモスに訴えた。
「カドモス様! どうかわたくしを攫ってくださいませ」
「お断りしますってんだ」
小指で耳の穴をほじるカドモス。その指先にフッと息を吹きかけ、王女に飛ばした。
「どうだ? こんな下劣な男は嫌だろう?」
カドモスがニヤニヤと笑う。
王女は胸の前で手を組んだ。
「いいえ! 男らしくてとても素敵です!」
「なんでだよ!」
カドモスは頭を抱えてしゃがみ込んだ。
この王女は呪われている。本当に呪われている!
ブツブツと独りごちるカドモスのすぐ横。王女は膝をついた。
カドモスの節くれ立った、大きな手。切り傷、刺し傷、火傷。瘢痕だらけの日焼けた肌は、ところどころ引き攣れて白い。
そんな凹凸の目立つ、まだら色のカドモスの手に、王女は自身の手をのせた。何の苦労も経験していない、甘やかされきった、滑らかで白い手。
「カドモス様。わたくしのような呪われた娘はお嫌でしょうね」
「なに言ってんだ」
離れていこうとする王女の手をカドモスは掴んだ。
パシッといい音を立てて、王女の手首がカドモスの手中におさまる。王女は頬を染めた。
恐ろしげな形相をさらに険しく、眉間にシワを刻み、カドモスは王女の出方を待つ。
王女はコクリと喉を鳴らした。赤らんだ目尻が、キリリと決意に締まる。
「わたくし、呪われておりますの。ですが庶子だからではございません」
「そんなこたぁ知ってるよ」
「えっ?」
王女はパチパチと目を瞬いた。
カドモスは大きくため息を吐く。王女の手首を握ったまま、反対の手で頭をガシガシと乱雑にかき乱し。ぐぅっと唸った。地響きのような音だった。
王女は頬を染めた。下腹部に響いたらしい。
カドモスはそんな王女を見て、嫌そうに顔を歪めたが、手は離さなかった。
「アンタが俺に同情させるよう、『王の庶子、呪われた娘』だって。悲劇のヒロインぶってたのは、ハナっからわかってたよ」
「え……」
「俺の前じゃ、アンタにツラく当たる演技させてたんだろ? 陛下から聞いてるぜ」
王女が「お父様の裏切り者!」と叫ぶ。
「いやいや。陛下も殿下方も、そうとう鬱憤溜まってるからな? その八つ当たりは全部俺にきてんだ。いい加減にしろよ」
カドモスの白けきった眼差しに、王女はタジタジになる。
「だって……」と今にも泣き出しそうに顔を歪めるものだから、カドモスは王女の手首を離し、ヨシヨシ、と頭を撫でた。
「ついでに言っておく。俺は神様なんてもんは信じちゃいねぇ。庶子だろうが王女様だろうが平民だろうが。食ってクソして寝て起きて。切れば血が出ていつかは死ぬ。ただの人間だ」
「ええ」
王女が目を細める。カドモスは長くため息をついた。
「――だけど。アンタは呪われてるよ、確かに」
カドモスは自嘲するように口の端を片方、つり上げる。
「魅了の力だっけか? 俺以外の人間は皆、アンタを一目見た途端、夢中になるんだってな」
「それは――」
顔色を変えた王女。そのか細い声をカドモスは遮った。
「そのせいでアンタは、俺みてぇなくだらねぇ男に執着してる。他に選択肢がない。こんなのは恋でも愛でもなんでもねぇよ。ただの呪いだ」
「違います!」
王女はたまらず叫んだ。
せっかく頭を撫でてくれていたカドモスの大きくて分厚い、温かい手。
だが王女は未練を振り払って立ち上がった。
カドモスは熱り立つ王女を、目を丸くして見ている。
「カドモス様と初めてお会いしたとき。確かにカドモス様は、わたくしに魅了されていらっしゃいました!」
「は? んな覚えは――」
眉間と鼻頭にシワを寄せるカドモス。凶悪そのものといった顔つき。
王女は誇らしげに顎を突き出してみせた。
「覚えは、ございますでしょう? だってカドモス様は、普段のカドモス様らしくありませんでした。そうでしょう?」
幼子に問い聞かせるように、王女は言葉を都度都度区切る。
「どうか、思い出してくださいまし。カドモス様がわたくしに、おどけてくださったこと」
あの日カドモスはムシャクシャしていた。
ハノーバー卿の酷いやり口と惨劇。何も出来なかった自分。
だがその怒りをどこにぶつけようもなく、扱いかね、燻っていた。
カドモスは憤っていたのだ。
深く深く。自分自身に対して。内へ内へと籠もり、人との関わりを拒絶していた。
それでいて持て余す怒りを欲に変え、体の外に吐き出したくて、娼婦を欲していた。
そこに現れたのは、世間知らずのバカそうな娘。とてつもなく美しい容姿の娘。熟れて落ちるまでには時期尚早だが、カドモスに物怖じしない、怯えない娘。もぎ取って食らうに相応しい、青い果実。
普段のカドモスだったら。
はたしてあの場で、生意気な娘と口をきいただろうか。
口はきいたかもしれない。
だが。
「アンタとおしゃべりするより、どうにか丸め込んで宿屋に連れてったかもしれねぇな……」
「ええ。わたくしの魅了の力ってすごいんですのよ。わたくしの望まない言動は引き起こされませんの」
「そりゃ便利だ」
カドモスはラッパのような笑い声をあげた。威嚇するのでなく、ただ可笑しかっただけ。王女もわかっている。
王女はカドモスの無骨な手を取った。
「そうなのです。ですが、カドモス様は魅了にかかりながらも、魅了に打ち克ちました」
「は? そりゃいったいどういうわけだ?」
突き出た眉骨の奥の奥におさまったカドモスの眼球。眉骨の影で、常は微かにしか見えず、瞳の色も覗きこまなければわからない。それがギラリと光った。
「カドモス様はわたくしのこれまで誰にでも無敵だった魅了の力を破りました。それはカドモス様の嘆き。怒り。そして、愛」
何やら小っ恥ずかしい演説が始まり、カドモスは耳を塞ぎたくなった。だが王女のしなやかな手がカドモスの手を包み込んで、それを許さない。
カドモスは善人じゃない。いつだって手前勝手に、享楽的に生きてきたのだ。
「ハノーバー卿によって害された人々への、追悼と愛。それが魅了の力を破ったのです。わたくしが聞かせてほしいとカドモス様に乞い、一方で耳に入れたくなかった現実を、カドモス様はわたくしへ明らかにされました」
「アンタ、知る必要があるって言ったじゃねぇか」
カドモスは唸った。王女は頷く。
「ええ。ですがそれは、現実を知らない、甘やかされたワガママ娘のお姫様ゴッコの延長に過ぎません。わたくしは尊敬されるに足るような。王族らしく振る舞いたかっただけなのです。
それでいて、王族たるわたくし達の不甲斐なさによって、なんの罪も負わない無実の、幸福に暮らすべき人々が声を上げることもできず。その尊い命が失われている現実など、存在してほしくはなかったのです」
カドモスの手を握る王女の手に力が入った。
「わたくしは愚かで無知で、ワガママで傲慢な。民にとって有害な王女でした」
カドモスは自身の手を握る王女の手の上、もう片方の手をのせた。口を結び、王女の目をじっと見つめる。
「カドモス様は見事、愚かなわたくしを打ち破ってくださった。狭い箱庭で遊戯に興じるわたくしの眼前に、新しい世界を切り開いて示してくださった。
わたくしは、そんなカドモス様の強き意志の力を。優しく温かな心を。お慕いしているのです」
王女は微笑んだ。
「カドモス様は、魅了の力が効かない体質というわけではないのです。そしてまた、たまたまそういった体質でいらっしゃるカドモス様を、条件に一致するからと追いかけ回しているのではありません」
カドモスの無精髭を空いている手でなぞる。王女の細い指先がゆっくりと。愛おし気に。カドモスは奥まった目を細める。
「わたくしは、カドモス様がカドモス様でいらっしゃるから――」
「わかった。もうわかったよ」
カドモスが首を振る。
「それ以上は、もういい」
「もういいって――」
泣き出しそうな王女の、ぐしゃりと歪んだ顔。細い指はカドモスの頬から離れていく。
カドモスは微笑もうとした。結果凶悪な笑顔になった。
王女の潤んだ瞳に映る自身のおぞましい顔つきにため息が漏れる。王女がビクリと肩を揺らした。
王女の手の甲を覆っていた手。その手を持ち上げ、カドモスは王女の頬に手を伸ばした。手は震えていた。
カッコつかねぇな、とカドモスは苦笑した。
「ここまで姫さんに言わせておいて、最後の最後まで言わせちまうんじゃ、カッコ悪すぎてたまんねぇよ」
カドモスは「ちょいと失礼するぜ」と断って、一度立ち上がっては膝を折った。
改めて王女の手を取る。
「アンタは愚かだったって言うけど。ゴッコ遊びだったってさ。だけど俺も、あのとき惚れたんだ。魅了なんかじゃねぇ」
王女の息を飲む音。
なんだ、ちっとも気づいてなかったのか、とカドモスは内心苦笑する。
腹芸がお家芸の王族に通用するとは。俺の演技も捨てたもんじゃねぇな、と。
だがこの王女の腹芸がうまくいっていた様子など、そういえばカドモスは見たことがない。つまりカドモスの演技がうまいわけではない。
「どこの馬の骨とも知れねぇ怪しい傭兵。しかも人並み外れてマズイ見た目の。そんな男の言うことを嘲笑うでもなく、聞きたくないと耳を塞ぐでもなく。声を届けてくれた。この国の頂点に掛け合って。アンタのお陰で、救われたんだ。たくさんの人間が」
王女の白い頬に涙が一筋。
気障ったらしいったらねぇや、と照れながら、カドモスは王女の頬を親指でぬぐう。そっと優しく。
「どう見たって怪しいような男に、アンタは物怖じせず、向き合ってくれた。いつも元気で、真っ直ぐで、暴走しがちで、ズルいような駆け引きをしたがるくせ、詰めが甘くて、てんで隠しきれてなくって。純粋で……可愛くて」
ぬぐってもぬぐっても追いつかない涙に、カドモスはとうとう白旗をあげた。
「これで惚れるなって、そんなの無理に決まってんだろうが」
嗚咽していた王女は、肩をふるわせて唸る。
「愛してるよ、ハルモニア。俺のきたねぇ下穿きになんかならなくったって。これから先、ハルモニア以外、誰も抱かねぇよ。抱いたりするもんか」
「で、でもっ! わ、わたくし! の、呪われて……っ! 子を産みましたら、人間の形は保てないと、そう言われていて……っ!」
カドモスは立ち上がり、ハルモニアの手を引いた。そのまま腕の中に閉じ込める。
巨大なカドモスと華奢なハルモニア。美女と野獣そのもの。
野獣は魔法が解けて、野獣の姿から麗しい人間の王子様に変じたりはしない。
美女は魔法が解けて、人の姿から光の玉へと変じるかもしれない。
「人間の形じゃなくなったっていい。ハルモニアが側にいてくれんなら、俺はなんだっていい。愛してるよ」
第三王女ハルモニアがカドモスに恋してからというもの、日に日に強まるばかりであった不自然なほどの魅了の力。この日を境にスッカリ消えてなくなった。
だがしかし、人々はハルモニアを愛した。精霊たる魅了の力ではなく、第三王女ハルモニアとして。年若い一人の娘として。
人々はハルモニアを愛した。
ハルモニアとその護衛騎士カドモスは一年の婚約期間を経て婚姻を交わし、後に五人の子を儲けた。
そう、五人。ハルモニアは五人の子を産んだ後も、変わらぬ美貌――ではなく。
人と同じように。カドモスと同じように年を重ね、仲睦まじく暮らした。
先に旅立つカドモスをハルモニアが看取り。
その後を追うように息を引き取ったハルモニアを、二人の子供たちに孫。それからハルモニアの母、アフロディテが看取った。
「ねぇ。アフロディテ様。お祖母様はどうして、アフロディテ様のように光になられなかったの?」
光の玉はハルモニアの幼い孫達の前、ユラユラと揺れながら点滅した。
子供たちはキャッキャと声をあげる。
「そうなの。お祖母様は愛するお祖父様と結ばれたからなのね。お互いがお互いにとってただ一人の――」
だが孫の一人が首を傾げる。
「でも、それじゃあどうしてお祖母様は、愛する方との間にできた子を産むと、人の形を保てなくなるとお考えだったのかしら?」
これを受けて、光の玉はギクリと不自然に動きを止めた。
慌ただしく、不規則なリズ厶と強弱で、光が瞬く。
「ええええええっ! アフロディテ様ったら、お祖母様に嘘を教えられたの?」
孫たちの大ブーイングに、光の玉は慌ててぴょんぴょんと上下する。
「そりゃあ、私達だって、お祖母様がいつまでも側にいてくださったら嬉しいけれど……。ふぅん。アフロディテ様ったら、そうなの。お祖母様にお祖父様とは結ばれっこないから、他の方とお子を作るよう勧められたのね。そうすれば人の形を失わないからと偽って……」
したり顔で頷く、少しませた少女のとなり。年齢の割に眉骨の張った少年が、拳を振り上げた。
「アフロディテ様の嘘つき! お祖父様以外のお方とお子を作られていたら、今頃お祖母様は、アフロディテ様のように、光の玉になられていたんだ!」
光の玉は藪蛇だとばかりに、子供たちから逃げ、王家の眠る墓所へと飛んで行った。
子供たちは、やいのやいのと囃し立て、しばらくするとそれぞれが遊びに夢中になった。
花々が香る西風が一陣。子供たちの鼻腔をくすぐっては抜けていった。
カドモスに出会う前。恋に恋する年若い娘だったハルモニアが、鼻息荒く、意気込んでいたこと。
『わたくしに魅了されない方と、燃えるような恋をしたいのですわ!』
愛の精霊が持つ魅了の力ではなく。
自分自身を見てくれる人を愛し、愛されたい。
互いが互いにとって、ただ一人の存在でありたい。
そして愛する者の子を産むことで、人の形を保てなくなるのならば。
それならば、愛する者の下穿きとなって、相手の貞操を護り抜きたい。
そんな夢を抱いていた王女ハルモニアにとって、カドモスとの出会いはまさしく運命だった。
ハルモニアの夢は叶った。
攫われなかったし、下穿きにもならなかったけれど。
(了)