第16話 『柿本 勇』
撮影は恙なく終わり、終始朗らかだった各務原と別れる。あそこまで上機嫌な各務原は珍しいとスタッフも首をかしげていた。
何はともあれ仕事は終わり。私服に着替えてS社の編集と次のグラビア撮影の打ち合わせ。それから柿本に車で家まで送ってもらう。いつものとおりのルーティーン。
運転席の柿本は筋肉質のボディをスーツにしまい込んでいる。『窮屈そうだな』と見るたびに思う。
『柿本 勇』と遥が初めて出会ったのは、『空野 かなた』がグラビアデビューし、そこそこの仕事が舞い込んできたころだった。
父親を通じてに初めて引き合わされたとき、その重厚な筋肉の鎧と堅苦しい顔に驚かされた。今思えば、ずいぶんと失礼な態度だった。
柿本は遥の親戚筋のひとりで大学までは空手をやっていたとのこと。親族が集まったときに顔を見たことがあるような気がした。ただ、はっきりとは憶えていない。あまり関わり合いのない人物だった。
大学を卒業して無事就職するも、職場の水が合わず数年で退職。詳細については聞かされていない。
再就職先を探していたところを人柄と経歴を買われ、芸能界入りする遥のお目付け役として再出発することとなった。
主に期待されているのは腕力で、実際のところはボディーガードに様なものだ。
最初はマネージャーとして、そして遥の仕事が順調に波に乗ってきた今は『かなたプロダクション』代表取締役社長として大忙しの日々を送っている。
堅物で生真面目な性格の柿本は芸能業界との相性は悪い。
本来マネージャーがやるような交渉などもほとんど遥本人が担当している。
実際のところ、柿本が今の自信の境遇をどのようにとらえているかはわからない。怖くて聞けないというのが本音だ。
突発的な遥の(暴走ともいえる)アレコレに振り回された結果、柿本の人生設計をメチャクチャにしてしまったのではないかという気がするのだ。
「かなたさん」
我妻に容疑者候補として柿本の名前を挙げられた時、『あり得ない』と思った。
良くも悪くも誠実で実直。ついでに小心。
空手という暴力を身につけてはいるものの、殺人なんてバイオレンスとはもっとも縁遠い人間。
それが遥の知る『柿本 勇』という男だ。
色々頼りない部分はあるものの、人柄は信用できる。
一緒に仕事をするようになってから、その思いはずっと変わらない。
しかし――アリバイがない。推理作家『空野 彼方』としては、柿本犯人説を『絶対ないとは言えない』と認めざるを得ない。
その柿本に横合いから話しかけられて思考中断。
「どうかした、柿本さん?」
「何かおかしなことに首を突っ込んでませんか?」
直球を投げ込まれて、一瞬返答に戸惑う。その物言いは実に柿本らしい。
車の運転中に、柿本が仕事以外のことを口にすることは珍しい。
安全運転を第一に考えるがゆえに、走行中に気を散らすことを柿本は嫌う。
遥も普段は車内で柿本の集中を途切れさせることが無いように神経を遣っている。
その柿本があえて口を開いた。つまりそれだけ遥のことを心配してくれているのだろう。
そう思う。思いたい。
「えっと……」
だからこそ、答えられない。
その柿本を――疑っているだなんて。よりにもよって殺人容疑である。
何の証拠もないのに、迂闊なことは言えない。遥と柿本の信頼関係を根本的なレベルで破壊しかねない。
そして考えたくもない。親戚が人殺しだなんて。
でも、その一方で『無意識のうちに柿本を擁護していないか』という疑いが、我妻との密会から常に頭の片隅にある。
沈黙をどうとらえたか、さらに柿本は言葉を続ける。
「何もかも自分一人で背負いこもうとしてませんか?」
「いえ、そんなことはないですよ?」
感情のコントロールを失敗。語尾がおかしな感じに浮いてしまう。
「この前だって、あんなことがあったのに……」
遥は基本的に自己管理能力が高い。高すぎると言ってもいい。
日々の健康や美容に限らず、出版社への営業や仕事のスケジュール管理もほぼ自身でこなしている。
そのことを、ビジネスパートナーとして歯がゆく思っているらしいことには気づいていた。何しろすぐ傍にいるのだから。
まぁ、遥にも言い分はある。日々多忙な業務(しかも慣れないジャンル)をこなしている柿本の負担を減らすため、自分でできることは自分でやろうと、そう考えているのである。
社長ひとり社員ひとりの弱小プロダクション。その辺りは多少融通を利かせても問題なかろう。
別に柿本の仕事を増やしているわけではないのだから問題はあるまい。
……その発想が、あまり健全なものでないことに気付かないのは、遥がまだ15歳の少女だから。
大人に混じって働いていても、根本的にはまだまだ幼い部分がある。
「私は大丈夫ですから……それよりも、柿本さんに聞きたいことがあるんですけど」
「自分に答えられることなら何でも」
即答されて逆に遥の方が戸惑う。
話を振っておいて何だが、尋ねてしまってよいものか。
軽く息を吸って吐く。胸に手を当てると鼓動を感じる。
緊張している。高揚はしていない。付け加えるならば気が重い。
しかし、この問題はいつまでも避けることはできない。
「では、大場さんが殺された日のことを」
「かなたさん、それは……」
運転中である。柿本は視線を前に固定したまま表情を歪める。
「私……怖いんです」
目の前で大場が殺されたこと。
大場を殺した犯人が捕まっていないこと。
犯行が行われたのは撮影のために借り切ったホテル。
それはつまり、殺人犯があの場にいた業界関係者であるということ。
このまま事件が迷宮入りすれば、そんな殺人犯とこれからも仕事をしていく可能性があること。
そして――
「つまり自分を疑っておられる、と?」
一番言いにくい部分は、柿本が引き取ってくれた。
出版社やほかのスタッフとの打ち合わせでは、しどろもどろになりながら何とか受け答えするのがやっとのくせに。
こういう所は年相応というべきか、少なくとも遥よりは年長者としての振る舞いが身についている。
今までずっと自分のために身を粉にしてくれて来た柿本に疑惑の眼差しを向ける。
迷いがあった。こんなことを口にしていいのか。その遥の弱い心を柿本は汲み取ってくれた。
「……わからない。柿本さんはそんなことしないって信じたい。でも」
「アリバイがない、ですね」
遥は黙ってうなずいた。
柿本は元々あまり本を読む方ではなかったらしいが、『かなプロ』社長就任に前後して遥の著作には目を通してくれたらしい。
遥は今のところミステリーしか出版していない。ゆえに、遥の考えるところはお見通しだったようだ。
ミステリーで疑いをかけられるのは第一発見者やアリバイのない者。それがセオリー。
「かなたさんもご存じのとおり、例の漫画原作の件でS社の編集部と電話していたのですが……」
「昼休み中ずっと……じゃないですよね?」
「ええ」
赤信号。車はゆっくりとストップする。豪快な見た目とは裏腹に柿本はかなり繊細だ。
車の運転に限らず、例えば道を歩く際にはさりげなく遥をガードしてくれる。
こういった些細なところからも、その生真面目な性格の一端が窺える。
横断歩道を行きかう人の群れをじっと眺めていた柿本は、
「……私には大場氏を害する動機もあります」
重々しく口を開いた。
隣に座っていた遥は驚いて目を見開いた。
耳に飛び込んできた言葉が信じられなかった。
聞きたくなかった。でも――聞かなければならない。
柿本は、遥の問いに答えたのだから。
「それは……」
「一日目の夜、『親睦会』と称したあの集まりで、かなたさんが……」
ハンドルを握りしめる柿本の大きな手が震える。眉にしわを寄せ、こめかみがピクピクと震える。必死に怒りを抑えているのだ。
柿本は可能な限り遥のボディーガードを務めてくれた。いつもどおりに。
しかし――あの日はあまりに勝手が違った。
酒宴の場にいたのは、遥と柿本を除けばほとんどは大場の息がかかった者ばかり。商売上では相手の方が圧倒的に格上。
鍛えられた空手をもってしても、アウェーに過ぎる空間で完全に遥を護れるわけもなく――
「あれは――もう過ぎたことですから」
遥の唇から、小さな声が零れた。
「しかし!」
柿本が吠える。
あの場で行われていた所業は柿本の眼には入っていない……はずなのだが、想像することはできるのだろう。
そして――自分の想像に悔み、自身を強く責め立てている。2か月近くたった今もなお。
「あの場で暴力を振るうわけにはいかないし、結果として何もなかったんだからいいじゃないですか」
「……不甲斐ないです、自分が」
項垂れる柿本。
自信を信じて娘を託してくれた遥の父の期待にこたえられなかったことに、求められている本来の任務を遂行できなかったことに苦しんでいる。
それ以上に――男として、人として自分で自分を許せないでいる。別に柿本自身が悪いわけではないと思うのだが。
「柿本さんにはいつも助けてもらってます。それで充分です」
どれだけ感謝の言葉を連ねても、歯ぎしりする柿本の顔は硬い。
遥が横目で様子を窺う限りでは、どれだけ行っても柿本は自分を責めることを止めそうにない。
柿本は真面目な性格だ。それゆえに悪い噂が付きまとう大場に対する感情は、当初から決して良くはなかった。
もともと遥を護るために『かなたプロダクション』代表の椅子に座っている男だけあって、あの日の嬌態を受け入れることができないのだろう。
でも――それが大場の命を奪うに足る理由になるだろうか。殺人の動機としては軽いように感じられる。
誰かとの口論の中で『殺す』という単語が飛び出すことはある。実行されることはない。
柿本が口にする殺意とやらは、結局のところその程度に思える。身内を庇いたいというバイアスがかかっているのだろうか?
――わからない。
「自分は大場氏を殺してはいません。しかし、殺してやりたいとは思っていました」
「柿本さん……」
絞り出すような柿本の声。
殺意はあった。証拠はない。アリバイもない。
だから疑われて当然だと柿本は言う。
一方の遥としては、柿本を疑いたくはない。
でも――推理作家『空野 彼方』としての視点で状況をまとめようとすると、柿本はあまりにも怪しい。
身も蓋もないことを言えば、我妻が名前を挙げた四人の容疑者候補の中で最も犯人の条件を満たしているのである。
それに、ここで柿本を庇ったところで、もし彼が本当に犯人だったとしたら警察はいずれ必ず柿本にたどり着くだろう。
――こういう時、どうすればいいんだろう?
かける言葉が見当たらない。柿本はそれ以上言葉を発することはなかった。
自分の人生経験の少なさを恨めしく思う遥だった。
信号が青に変わり車が発進する。狭い車内がやけに息苦しい。
街の明かりに照らされた夜道が、どこか心細く感じられた。