第13話 『谷川 雫』
まばらに席が埋まっているカフェで向かい合う人気グラビアアイドル二人。『空野 かなた』と『谷川 雫』。
最近巷でホットな美少女二人が一つのテーブルに座っていると、自然と周囲の視線を集めてしまう。
遥の前にはウーロン茶が、雫の前にはホットココアが湯気を立てている。
甘い香りを漂わせるココアを眺めていると、雫が苦笑する。
「頭使った後って甘いものが欲しくなるんだよね」
だから一杯だけ。
雫はいたずらっ子のように舌をペロリと出す。小悪魔系だ。
ありふれた日常風景ですら絵になる女。同性の遥から見てもそう思う。
さすが現在人気ナンバーワンとも称されるだけあって、ひとつひとつの仕草がやたら絵になる。
「わかります」
その気持ちはよくわかる。
小説執筆に学校の授業。頭を使う機会は多く、そのたびに甘味の誘惑と戦う日々である。時々負ける。
「……かなたちゃんは真面目だ」
グラビアの仕事を始めてからというもの、食事には人一倍気を遣うようになった。以前では考えられないくらいに。
カロリーはもちろん糖分、脂質、ビタミン、ミネラル……より栄養価の高いもの積極的にを摂取し、それでいて太らないように量を制限する。
何をするにも身体が資本。適度な運動、適度な食事。栄養学にも手を出している。輝くばかりの美貌は地味な努力の結晶である。
それは遥だけではなく、目の前にいる雫もまた同様。同業者は日々暴食の欲求に抗っているのだ。
「それで……わざわざこんなところまで来て何の用?」
ココアをひと口を啜った雫が切り出してくる。
バイトがあると言っていた。あまり時間を使わせるわけにもいかない。
遥ひとりならともかく、雫に迷惑をかけるのは困る。早速用件を切り出す。
「えっと、この前の撮影の時、プールに落っこちた私を雫さんが助けてくれたと聞いて……それで、気絶してたからお礼言ってないなって」
あらかじめ用意してあったセリフ。内容にウソはない。
「別にそんなの直接言いに来なくても……そういえば、連絡先交換してなかったね」
雫の言葉に頷く。
「折角だから交換しとこっか?」
「いいんですか?」
「もちろん、私たち仲間じゃん」
互いにスマホを取り出して液晶に指を走らせる。
あまり多いとは言えない遥の連絡先に『谷川 雫』の項が追加される。
胸の内から何となく満足感が溢れてくる。
「最近、お仕事はどうですか?」
まずは当たり障りのないところから。
遥の問いに雫は胸の下で腕を組む。
ごく自然に豊かなバストが強調される。
――負けてない……はず。
遥もこのポーズをとることが多いせいか、どうでもいいところで張りあってしまう。
それはさておき――
「う~ん、今のところは特に変わんないかな。でも……」
「でも?」
「社長がああなっちゃって、ウチは今色々……ね?」
知ってるでしょ?
言葉にすることなく目で尋ねてくる雫。
社内では、大場の件はタブー扱いになっているようだ。
「やっぱり、影響あるんですか?」
「そりゃもう。うちは社長がグイグイ引っ張っていく感じだったから。私もプッシュしてもらってたけど、これからどうなるか……」
大げさにため息をつく雫。
他社の人間である遥にしても、仕事がパーになってショックだったのだ。
直に推されていた雫のダメージは計り知れない。
「雫さんは女優になりたいんですよね?」
先ほどの講義の様子を思い出す。
グラビアアイドルとして知名度を上げ、女優やタレントに転身。
この業界の黄金パターンである。
「うん。子供のころからの夢」
そう前置きした雫が語ったのは、どこにでもある物語。
幼い少女がたまたま見た映画に触発され、身体ひとつで芸能界に足を踏み入れた。
はじめはグラドルとして小さな仕事を貰うだけで精一杯。
ギャラはかつかつでバイトしないと食いつなぐだけでも一苦労。
でも、有名になったら――世界は一変する。
「テレビや映画に主演して、いずれハリウッドってね」
「ハリウッドですか……」
稀有壮大という者もいるだろう。
「おかしい?」
「いえ」
同業者としては笑わない。笑えない。
大きな夢を持つことは悪いことではないはずだ。
ただ、さっきのマネージャー氏の態度が気になる。
彼の見立てでは雫にはあまり伸びしろがないように見られていると感じられた。
大場の後ろ盾なくして、目の前の女優志望グラドルに未来はあるのだろうか?
でも、そんなことを直接口にすることはできない。
「でもかなたちゃんだって狙ってるんでしょ?」
「いえ、私は別に女優になりたいとかそういうのはないですが……」
「じゃなくって、小説の方。何だっけ……芥川賞と直木賞だっけ?」
「え? そうですね……う~ん、あまり考えたことなかったです」
誰でも知っている超有名な二つの賞。
その名を挙げられても、遥としてはピンとこない。
自分の物語を広く世に知らしめたい、多くの人と共有したい。
それが遥の夢であったが、特定の賞を取りたいと言った具体的なイメージはなかった。
自分の人生設計が曖昧模糊とした不確かなものであることを突きつけられて動揺を隠せない。顔がわずかに引きつる。
「ふぅん、そうなんだ……」
「変……ですかね?」
「ま、人それぞれなんじゃない?」
遥の様子に気付いているのかいないのか。
雫はそれ以上踏み込んでくることはなかった。
「ところで、話は変わるんですが……大場さんが亡くなられた時のことを聞かせてもらっていいですか?」
我ながら不自然だな、と呆れる。
会話の唐突さといい微妙な演技といい、自分は女優には向いていないと思ってしまう。
上体を前に倒すことで胸の谷間が深くなる。
他人の視線を誘導する癖がついてしまっているが、女――特に同業者相手にはあまり有効な手段ではない。
先ほど受けたささやかな敗北感が対抗意識を刺激してしまった。
「いきなり何?」
疑惑の眼差しを向けてくる雫に、慌てて頭を振る遥。
「その……ほら、私、推理小説を書いてるじゃないですか」
「うん、知ってる。難しそうだから、読んだことないけど」
ごめんね、と謝ってくる雫。
残念ではあるが、別にそれはどうでもいい。
大場の件について尋ねるための言い訳に過ぎないのだから。
……納得しているつもりでも、微妙に悔しい遥であった。どうでもよくなかった。
それはともかく――
「だから不謹慎だとは思うんですけど、話を考えるときの参考にしたいというか……」
「はぁ、真面目そうに見えるけど、かなたちゃんも案外変わってるね」
「……すみません」
面と向かって言われると忸怩たる思いがあるが、客観的に考えるならば雫の言うとおりである。
そうねぇ……雫は腕を組み、天井を睨んで記憶を遡っているようだ。
両腕に挟まれた胸から首筋のラインが美しい。傍を通る男の視線がテーブルを挟んだ二つの柔らかな谷間に吸い込まれている。
雫も遥もそんな視線を特に咎めたりはしない。
「確か……社長ってば、大騒ぎしてたよね」
初日のことである。
カメラマンである各務原やスタッフにあれこれと指図していた姿が思い出される。
おかげで撮影スケジュールは押してくるわ、スタッフもアイドルも精神的に疲れてくるわでロクなことがなかった。
「で、その後ご飯食べてから親睦会があって」
酒の席に未成年が足を踏み入れていいのかという一般的な常識と、大場との顔つなぎは重要という業界の常識の狭間に揺れた。
Aプロ所属の雫と、弱小プロダクション所属の遥は出席。声優のなぎさは欠席。
酒の席は――案の定というべきか、人前で口にすることは憚られるような一幕があった。
遥の傍にはボディーガードとして柿本がついていたが、その防御は完璧なものではなかった。
柿本が席を外した時に大場にかなり強引なスキンシップがあったことは事実だ。これはまだ我妻にも言っていない。あまり言いたくないというのが本音だ。
ほとんど、いや完全にセクハラであった。それでも権力者である大場を正面から拒絶することなどできない。まして相手は既に故人。騒ぎ立てたくない。
「あの時は助けてあげられなくて、ホントごめんね」
「いえ……」
閉ざされた空間でのいかがわしい記憶が呼び覚まされ、遥は思わず腕を抱く。鳥肌が立っていた。
結局あの場では難を逃れることができたが、もしアルコールを口にしていたらどうなっていたか、想像しただけでも身震いする。
自分がかなり危ない橋を渡っていたことを改めて思い知らされる。
「次の日は……私たちは朝から撮影、社長は昼前までおやすみ」
「こう言っては失礼ですけど、スムーズにいきましたよね」
「ほんと。何しに来たんだか、あの人は」
似たような思いを共有する二人で忍び笑い。
そして――
「確か……午前中の撮影が最初に終わったの、雫さんでしたよね?」
「うん」
「撮影が終わった後、どうされてました?」
「えっと……普通にお昼食べて休憩してたと思う」
「自分の部屋で?」
「う~ん、確かレストランに行った。サンドイッチを作ってもらったの」
「何時くらいでした?」
「何それ……ひょっとしてアリバイって奴?」
「ええ。聞き込み調査って奴です」
メモを取りながらしゃあしゃあと答えを返す。
小説のネタにするという大義名分があるから、堂々としたものである。
雫も乗り気であった。女優志望というくらいだから、将来サスペンスドラマに出演するときの予行演習とでも考えているのかもしれない。
「食べ終わったのは……確か11時半くらいかな」
「それから、どうされたんですか?」
「えっと……ホテルの中を散歩してた、と思う」
「部屋には戻ってなかったんですか」
「うん、戻ってない」
部屋の外に出ていたのなら監視カメラに映像が残っているのではないか。
……まぁ、ホテル全域をカメラがカバーしているとも限らないから、期待しすぎてもいけない。
「誰かに会いました?」
思わず身を乗り出してしまう。ずり下がった椅子が耳障りな音を立てる。
「うう~ん、どうだっただろう? ホテルの人とはすれ違ったような気がするけど、スタッフさんは……よく覚えてない」
「そのあと午後の撮影に合流したって感じですね」
「ええ。あとはかなたちゃんが見てた通りかな。一緒にいたよね」
「そうですね……で、大場さんが……」
「あなたの撮影中に倒れて……それで……」
苦しむ大場の姿を思い出す。
ひとりの人間が死に至る一部始終が目に焼き付いている。
前日にセクハラを受けた相手ではあったが、まさかあんなことになるとは想像もしなかった。
腹立たしいこともあったが、仕事をくれた相手でもあり胸中は複雑だ。
「確認なんですけど、休憩時間中にほかの人には会ってないんですね?」
「うん。警察にも話した。アリバイがないってんでしょ?」
「ええ……まぁ、そうなりますね……」
「ひょっとして、私のこと疑ってたりする?」
「いえ、そこまでは……」
これには遥も言葉を濁さざるを得ない。
「でもさ、私には、えっと、アレなんだっけ……そう、動機! 動機がなくない?」
「……と言うと?」
「だってうちの社長だよ。私を猛烈に推してくれてたの。これからステップアップしていこうって人間がボスを殺してどうするのって話」
現に今の雫を取り巻く情勢は、大場の生前に比べてややこしくなっているらしい。
故人の遺志を継いで以前と同様に彼女を推す派閥と、これを機に大場の影響力を払しょくしようとする派閥。
Aプロ内の勢力争いに巻き込まれ、雫の将来の見通しに暗雲が垂れ込めているという。
雫のマネージャーも遥に粉をかけてきたあたり、前者から後者に派閥の乗り換えを狙っているのかもしれない。
「確かに、そうですよねぇ」
「でしょ」
同業者である遥にとっては他人事ではない。
どれだけ自分に自信があろうとも、そして実際に能力があろうとも、それだけでは成功はおぼつかない。
多くの人の支持を受け、実力者の後押しがあり、そして天運に恵まれる。そんな選ばれた人間だけが生き残る。
華々しい外見と比して、芸能界の裏側は世知辛い。
強力なバックアップを失うことは、この業界では死を意味する。
「……大丈夫なんですか、雫さん?」
聞いている遥の方が不安になってくる。
先ほど見たレッスン場の光景が思い出される。
業界最大手所属と言えば聞こえはいいが、実際は他社アイドルと競い合う前に自社内での争いに勝たねばならない立場である。
社長一人グラドルひとりのかなたプロダクションでは、身内での仕事の奪い合いなんて発生しない。
遥にとってはにわかに想像しづらい世界である。とても同業者とは思えない。動物園とサバンナぐらい違う。
「ま、やるしかないし。自分で飛び込んだ世界だからね」
そう笑う雫の瞳には、確かな光が宿っていた。