第9話 逃走劇と鉄の味
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まだまだ子供の僕には、はっきりとした事情を汲み取ることはできない。もしかしたら、本当に休憩が目的で、ひなさんのための事だったのかもしれない。
それでも。
あの境界線を越えたら、僕は二度とあの人に会えない気がした。
別に、それで何の問題もないはずだった。
会いたいと思っているわけじゃない、僕はただ、あの繊細な彼女を傷つけ、壊そうとする何かを、ひたすらに憎み、嫌悪しているのだと気付いた。
ひなさんの元カレと思われる男が、彼女の肩に手をまわした。意識するより先に、駆け出していた。
走る勢いそのままで、ひなさんの右腕を強引に掴む。
「走って!」
彼女は驚いた顔で、まだ事態を掴めていないが、気にせず腕を引っ張った。
「ええ!?」
「ちょっ、なんだこのガキ?!」
雑多で薄暗い路地を走り続けた。後ろを振り返る勇気は、僕にはなかった。
「風太くん……!」
パタパタパタ……
だんだん、後ろから聞こえる足音が大きくなっていく。
まずい。追いつかれる。
コンビニを少し過ぎたあたりで、制服のネックの部分を鷲掴みにされた。
そのまま後ろに押し倒される。ひなさんと繋いでいた手も放してしまった。
「お前さぁ……何してくれちゃってんの? ええ?」
改めて見た男の顔は、明らかに、信頼できる類の人間ではなかった。色落ちしている金髪が、街灯に照らされて不気味だった。
首に手をまわされ、徐々に力が強まっていく。息苦しい。
「だって……ひなさんは……」
「このガキ、なんなんだよ? 俺の邪魔しやがって!」
ガッ
頬骨を思いきり殴られた。ヒリヒリした痛みが広がり、口には鉄の味が広がりだした。
「お前が……無理矢理連れ込もうとしてたじゃないか……!」
口の中が切れてうまく喋れない。
「やめて!」
ひなさんが悲痛な声を上げた。男の腕を掴んで必死に止めようとするが、反対の腕で二発目のパンチをもらった。だんだんと視界がぼやけていく。
「はぁ……ぁっ……」
抵抗も虚しく、三発目が飛んで来ようとしていた。
ふと、どこからか知らない男の人の声が聞こえた。
「見つけたぞ、マキノ!」
霞む目で声の方に視線を移すと、そこには、とんでもなく強そうで怖そうな男達が三人立っていた。
「くそっ……!」
その男たちを見た途端、僕の上に乗っていた重みは消え、満足な呼吸ができるようになった。
「追いかけろ!」
一人が追いかけ、もう一人が別の路地に向かった。回り込もうとしているのだろう。そして、残った一人が僕に近づいてくる。不思議と、その人に対する恐怖はなかった。
しかし、歩み寄る男が僕のもとに着く前に、間にひなさんが割って入った。
「何か用ですか」
彼女の声は微かに震えていた。
サングラスと金色のピアスをした強面の男を目の前にしているのだから、当然だ。
だが、その男の口から発せられた言葉は、意外なものだった。
「安心しな、姉ちゃん。俺たちはあんたらの味方だ」
全くもって意味が分からなかった。味方とはなんのことだろう。
「どういうことですか?」
「俺たちはいわゆる、借金取りってやつさ」
その言葉だけで、マイナスの印象を持ってしまった自分は浅はかだろうか。それならその格好も納得できるが、実際に見るのは初めてだ。
「それはつまり、あの男の人が借金をしてて、取り立ててるってことですか?」
切れた口内を気にしつつ、僕は問いかけた。
「そうだ。あいつは昨日、十万は確実に返すと言っていた。だから今日取り立てに来たんだ。合計で百万あるから、十だけじゃ全然だけどな」
「あの人、借金あるんですか……?」
ひなさんがそう聞くということは、知らなかったのだろう。
「ああ、一年前からだ。パチンコでスったらしい。それで、あのホテルの前で待ってろて言われたのさ。けれど、来てみて分かったよ。あんた、マキノの彼女だろ?」
「昔は……そうでした」
以前にひなさんから聞いていた、自殺未遂の原因となった男とは、あのマキノという奴のことだったようだ。
「あーそうか、今は違うのか。いずれにせよ、あいつは今日、あんたから十万借りて、俺達に渡すつもりだったらしいな。だが、ウチの組のおやっさんはそういう無粋なことはしない質でね」
組とか、おやっさんとか、イマイチピンとくる単語ではなかったが、とりあえずこの人はいい人だと分かった。
「なるほど……」
落ち着きを取り戻した彼女は、腕をぶらんとさせ、息を大きく吐いた。
「まあ、また奴が絡んできたりしたら、連絡してくれ」
なぜか、ひなさんではなく、僕の方に名刺を渡してきた。
「えっ? 僕ですか?」
不思議な顔をしていると、耳元でこう囁かれた。
「兄ちゃん、ちゃんとこの姉ちゃん守ってやってな」
そう言って、グッと親指を立て、微笑みながら去っていった。
『武田金融 河野和人』と書かれた名刺を制服のズボンのポケットに入れ、立ち上がって言った。
「帰りましょうか。ひなさん」
心を優しく撫でられたかのような温もりを感じつつ、僕は立ち上がり、ひなさんの手を取った。