第8話 過去の汚れと失くしたピース
◇
「やめてよ」
「大丈夫だって。ちょっと休むだけだよ」
かなり酔ってしまっている。足取りが覚束ないのが自分でも分かる。
自分に選択権などないまま、元カレに手を引かれ、居酒屋の裏の路地を歩く。どこに向かっているかは明白なはずなのに、わざと知らないふりをしていた。
私、また汚れちゃうんだ。
それで良いのかもしれなかった。呆れるほど綺麗な彼に、二度と近づけなくなるくらいに穢れることができれば、この不確かな感情を捨て去ることができるはずだ。
どれくらい歩いたか覚えていないが、きっと数十メートルの距離だった。
引かれる手が止まったかと思えば、眼前にはうざったいくらいのネオンが煌々と輝いていた。
「俺が受け付け済ませておくから」
まるで善人のような口ぶりだ。こういうところが嫌いだったのだと、言いそうになる。
「ん……」
自動ドアは開いたのに、私の足は中に入ろうとしなかった。まったく、やりきれない。
足取りの止まっている私に気付き、引き返してきた。
「どうしたの?」
下から顔を覗き込まれる。私はどうしたいのだろう。
「やっぱり……やめない?」
「そんなこと言ったって、もう部屋とっちゃったって。何もないから大丈夫だって」
そんな分かり切った嘘を拒否できない自分が嫌だった。この自動ドアを越えるということは、ある一人の男の子との決別を意味している。
しかし、それが傲慢な考えであることはとうに悟っていた。
私が一方的に迷惑をかけていただけ。私が勝手に想っていただけ。彼は私のことを、ただの迷惑な酔っ払いとしか思っていないのだ。
そう考えると、だいぶ心が軽くなった。この身軽さなら、この建物に入ることは容易だ。
「分かった」
そう言って、頷いた。元カレはにっこりと笑い、私の肩に手をまわした。思わず、ビクッと震えてしまった。
「怖がってるの? なんか俺、悪い人みたいじゃん」
冗談のつもりで言ったのだろうが、私には真実としか思えなかった。あなたが悪い人でなければ、なんなのか。
「さ、行こうよ」
そう声を掛けられ、"Welcome"と刺繍されたカーペットに足をつけようとした。
その時だった。
私の重心は、肩を組まれた左側ではなく、右側にグイっと引っ張られた。
手を引く男の子の後ろ姿は、自殺しようとしていた日に見た背中と一緒だ。
そして、自分の心にぽっかり空いた穴の正体を、失くしてしまったピースの正体を、確信した瞬間だった。