第7話 進学塾と居酒屋
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「どうしたの? 風太」
隣の席の女子に声を掛けられ、我に返った。
「ん? 黒田か。いや、ちょっと考え事してた」
「最近の風太、ボーっとしてること多いよね。なんかあったの?」
この、黒田 桔梗という女子は、同じ塾に通っているという以外はなんの接点もない、ただの知り合いだ。
けれど、その割には話すことが多い。隣の席というのもあるだろうけれど。
「んー、何もないわけではないんだけど」
家に大学生のお姉さんがいるなんて言ったら、余計な詮索をされてしまうかもしれない。それは面倒だ。
「えー? 何々? そういう言われ方すると気になるじゃん」
「いや、本当にどうでもいいことだから」
むっとした顔のまま課題に目を向け直す黒田。こいつは時々、鋭い察しをするから油断ならない。
でも、なぜ僕はボーっとしていたのだろう。確かに、あの時考えていたのはひなさんのことなのかもしれない。家で一人で何をしているか、心配ではある。
でもだからと言って、なぜ彼女のことを考える必要があるのだろうか。僕にとって、他にも考えるべきことは数多とあるはずなのに。
「風太ってさ」
急に、黒田が、独り言のように話し始めた。目は合わせてくれない。
「前に言ってたじゃない。人を好きになるっていう感情がわからないって」
「言ったかもしれないね」
何か月か前にそんな感じの話をした記憶がある。休み時間に、恋バナというものを延々聞かされた後でこう言ったら、黒田に呆れられ、怒られた。
「私はね、好きな人って最初は分からないんだよ。でも、気づいた時にはその人のことばっかり考えちゃうの。それが、好きってことなんじゃないのかな」
「その人のことばかり考える……」
「君は幸せなのかもね。恋愛って、楽しいことばかりじゃないんだよ」
その時の黒田は、どこか遠い目をしていた。しかし、いつにも増して、大人っぽく見えた。
一瞬、話を繋げるべきなのか迷った。最終的に、これは、話を聞いて欲しいという彼女なりの意思表示と捉えることにした。
「黒田は……好きな人がいるってことか?」
失言しないよう、慎重に言葉を選ぶ。
「うん。いるよ。毎日その人の事ばかり考えちゃって、どうしようもないの」
基本的に、恋愛にばかりうつつを抜かす人間は嫌いだ。彼らは脆く、弱く見えてしまい、腫物に触れるように扱わなければいけないように思うからだ。
けれど、今、目の前にいる、この女子の言う「好き」という感情は、過去に見てきたソレとは全く違う色を帯びていると直感した。
「そうか。その……好きな人と上手くいくと良いな」
そう言うと、黒田は少しの間、キョトンとした顔になり、そして破顔した。
「あはは! そうだよね、風太ってそういう感じだよね!」
「ん……?」
よく意味が分からなかったが、笑われてるということは失言したわけではないらしい。
「こら、そこ。真面目にやれ」
塾の先生に注意され、お喋りは打ち切りになった。
いつも考えてしまう人……か。
僕の脳裏にはしっかりと、ある女性が焼き付いていた。それでも、この感情の名前は知らないままだ。
*
塾の講義も終え、その後の追い込みの自習も乗り越え、六時になってようやく自転車に乗った。
午後から曇っていたせいで、この時間なのにもう薄暗い。
湿気の多い夜の空気を吸い、家まで急いだ。
ひなさんは何をしているだろうか。晩御飯を作って……いや、あの人に限ってそれはないか。
自問自答で不思議と笑みがこぼれた。その理由は自分でも分からなかった。
十分間のサイクリングも終わり、汗で張り付いたシャツに不快感を覚えながらもドアノブに手をかけた。鍵は当然かかっていない。
「ただいまー、ひなさん、何か食べます?」
入ってすぐに気づいた。電気がついていない。
「あれ? 寝てます?」
そうじゃなければこの暗さの説明がつかない。
「ひなさん?」
ベッドには影も形もない。続いて、洗面所、ベランダ、トイレなど全てを捜索したが、彼女はいなかった。
「帰ったのかな……?」
悩みが解決して、家に帰ったのならばそれで全てよかった。
そのはずなのに。
僕の心には、もやもやした暗雲が立ち込めて消えなかった。
「何か……嫌な予感がする……」
そうは言っても、彼女の行方は分からない。諦めかけたその時だった。
「あれ? そういえば、スマホどこにやったっけ」
あまりに急いで塾に行ったせいで、スマホを持っていくのを忘れていた。ポケットを叩いてみるが、それらしいものはない。
部屋を探してみると、すぐに見つかった。枕の横に、裏返したまま放置されていたのだ。
「こんな所にあったのか」
画面を見てみると、なぜか録音アプリが起動している。恐らく、慌てて出た時に何かの拍子で起動してしまい、そのままだったのだろう。充電が残りわずかしかない。
「ん……? 録音……?」
僕の頭には、ある一筋の可能性が浮かんだ。
充電コードに接続し、一旦録音を切る。一時間前から音の波が途切れている。ということは、ちょうど一時間前に遡れば、何か分かるかもしれない。
汗ばむ手を制服で拭きながら、再生ボタンを押した。
しばらくは、ひなさんが何かをしているであろう音が聞こえた。水や何かがぶつかる音がしているので、恐らく皿を洗ってくれていたのだ。
そして、メッセージアプリの通知の音がする。
ピロン♪
『え?』
ひなさんが驚いた声がする。相手は誰なのだろう。
『新保町の居酒屋に一時間後って……本当に勝手なんだから……』
新保町と聞こえた。この街から二駅隣の街だ。
『別れた女と普通会うかね……』
この発言ではっきりした。ひなさんは、昔付き合っていた人に会いに行ったのだ。
僕はその場にへたり込んだ。
「どうなってるんだろうな。今頃」
僕がとやかく言う権利はないし、関係のないことだ。またその人と復縁出来たら、彼女も幸せになれる。
しかし、気がかりだった。ひなさんは以前、その付き合っていた男のことを酷評していた。彼の浮気性のせいで別れたとも言っていた。ならばなぜ、そんな人に会いに行くのか。
頭の中でぐるぐると考えを巡らせるが、答えは一向に出なかった。
ガタッ
気づけば、体が動いていた。
本当に少ない充電のスマホと財布、家の鍵を持って、起き上がった。
急いで靴を履き、施錠を確認し、駅まで走った。さっきからずっと、嫌な予感がして、胸から離れない。
切符を買い、駅のホームで、いてもたってもいられない気持ちを懸命に抑えた。
いつもは何とも思わないのに、今日だけは電車がものすごく遅く感じた。
二駅なんてすぐの距離のはずなのに、永遠とも思えるほど長かった。新保町と書かれた電光板を確認し、扉が開いた瞬間に駆け出した。
何人かの人にぶつかりそうになって、ヤジを飛ばされながらも、走った。
居酒屋と言っていたが、どこの居酒屋かは分からない。近くの居酒屋を虱潰しにするしかない。
そう思って、居酒屋が多く立ち並ぶ、二番街を通っていた時だった。
一軒の居酒屋から、見覚えのある姿の人が出てきた。
間違いない、ひなさんだ。
そして、ひなさんは、元カレと思わしき男に肩を組まれている。
「いいじゃん。休憩するだけだからさ」
そう聞こえた気がする
見た目で直感した。この男は、信用してはいけない類の人間だと。明らかに嫌がるひなさんを、強引に連れ、横につながった路地に入っていく。どこに行こうとしているのかは、明白だった。
消えゆく二人の背中を、慌てて追いかけた。背中には冷や汗が流れ、喉が異常に乾き出すのが自分でも分かった。