第5話 コンソメスープと昼寝坊
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「いてっ」
包丁に赤い液体が付着し、なんとも言えない、不快な気分になった。
午前十一時にようやく目が覚め、ネギたっぷりのコンソメスープを作るため、ネギを千切りしていると、思わず指を切ってしまった。
絆創膏を取り出すため、テレビの横に置いてある救急箱を取りに行こうとすると、僕のベッドで気持ち良さそうに眠るひなさんが目に入った。すーすーと規則正しい呼吸で熟睡している。
昨晩のお祭りで、花火が上がり始めた頃。ひなさんは酔って寝てしまった。いくら起こしても起きないので、仕方なく肩を担いで僕の家まで運んだ。いつもなら三分で着くはずの道のりが、一時間くらいに感じられた。
ひなさんの家はどこか知らないし、放置するわけにもいかないので、仕方なく連れて帰ってきた。おかげで、僕は床にタオルケットを敷いて寝る羽目になった。
しかも、今はもうお昼だ。まだひなさんは起きてこない。きっと色々あったんだろう。もしかしたら、悪い夢でも見ているのかもしれない。心の中で様々な憶測が飛び交い、僕はというと絆創膏をもう巻き終えた。
少し近づいてひなさんを見てみると、肌の白さと透明さが際立っている。睫毛は針のように黒くて長く、青のインナーカラーが宝石のように輝いていた。
そして、その瞬間は突如として訪れた。
「んん……んー……」
何の音かと思ったが、タイミング悪く、ひなさんが目を覚ましてしまった。僕は、すぐ近くまで接近して、観察している最中だったのに。
咄嗟に離れようとしたが、なぜかひなさんが両手で抱きついてきた。それも結構な力で。
「うぐっ……!」
「ビビィー……」
そういえば、昨日の話で、実家でビビという猫を飼っていたという話を聞いた気がする。まだ寝ぼけているか、酔いが残っているのだ。
「ひなさん! 僕は猫じゃないから離れて……!」
「逃げないでよ……ビビィ……」
抱きしめられた僕の鼻を、甘ったるい香水とお酒の匂いが混ざり合った、大人の香りがくすぐった。
僕の理性と意識が崩壊する前に、体を突き放した。その衝撃で、ようやく本来のひなさんが戻ってきたのだった。
*
「ほんっとうにごめん!」
「だから、僕は怒ってませんって。もう謝らなくていいですって」
さっきから、延々と謝罪を繰り返されている。一つは夏祭りで泥酔して、僕が担いで帰ったこと。もう一つは、寝ぼけたひなさんが、飼っていた猫と間違えて抱きついてきたこと。
「心の底からごめん。あれだけお酒を飲まないでおこうと決めたんだけど、いつの間に意識が飛んでて……」
「それでそのまま寝ちゃったんですよね」
「やっぱり怒ってるよね?!」
なんだか面白くてなってきたので、少しからかってみたくなった。
「まあ、何か破壊したいくらいですね」
「超怒ってるじゃん?!」
思わず噴き出した。
「あはは。冗談ですよひなさん、僕がそんなことできると思います?」
「それは思わない」
自分でも、ひなさんを怒るなんてことはできるはずがない。抱きつかれた時に、僅かでもドキッとした気持ちが無かったかといえば、間違いなくあるからだ。
「とりあえず、朝ご飯食べましょうよ。あ、もうお昼ご飯ですかね」
古びた時計の針はちょうど12を指したところだった。
「ということは私、半日くらい寝てたんだね」
彼女が独り言のように呟いた。それはまるで、自省の言葉のようにも聞こえた。
「はい。どうぞ。コンソメスープとおにぎりです」
二人分の簡易な食事を机の上に置いた。ひなさんが頬を緩めたのを見て安心した。
「「いただきます」」
今の瞬間だけ、時間の流れがすごく遅いように感じた。窓から吹き込む生温い風を、旧式の扇風機が精一杯かき混ぜている。
部屋中にコンソメのいい匂いが充満していた。
ああ、幸せだ、と思った。
こんなにも脆くて、不安定で、感傷的な彼女の微笑ましい姿を見ることができたのが、僕には人生最大の喜びのように感じられた。
ピピッ
急に携帯のリマインダーが起動する。一気に現実に返された気分だ。
何かと思って画面をのぞき込むと、忘れかけていた記憶が戻ってきた。
『十二時 半 塾』
現在の時刻を見てみると、十二時 十五分だった。
「やっべ!」
慌てて洗面所に行き、下着を換え、制服に着替える。学校ではないので制服の必要はないが、周りも制服ばかりなのでいつもこれを着ている。
「ひなさん、ごめんなさい、十二時 半から塾あるの忘れてました!」
「そうなの? 行ってらっしゃい?」
ひなさんの返答を最後まで聞くこともなく、家を飛び出した。塾までは自転車で十分程度とは言え、ギリギリの闘いだった。