第3話 訪問者と扇風機
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今日も今日とて三コマの補習をこなし、帰路についていた。
授業で曖昧だった三角関数を頭でぐるぐる考える内に、無意識に家の前に立っていた。
「あっ、もう着いたのか」
自分でも思わずそんな事を呟いてしまうほどだ。
太陽に熱された鍵穴にカギを差し込むが、なぜか回りはしなかった。試しにドアノブを回すと、あっけなく扉が開いた。
「あれ? 鍵かけ忘れたかな?」
解錠していないのにノブが回るという事は、それ以外ない。盗られるほどのものはないが、心の中で自分を戒めた。
しかし、違和感はそれだけでは終わらなかった。
ドアを開けた瞬間、覚えのない匂いが玄関に染み付いていた。
まさか泥棒か!?
一瞬断定しかけたが、泥棒がこんなにいい香りの香水を使うのかは疑問だった。
名前は知らない美しい香りが鼻孔をくすぐった。どこかで嗅いだことがあるような気がしたが、覚えていない。
真意を確かめようと、音を立てぬよう靴を脱ぎ、ゆっくりと部屋を覗いてみた。
そして広がっていた光景を、僕は信じられなかった。
「あ、帰ってきた」
なんと、昨日、山の頂上の東屋で会った女の人が、ごく自然に座り込み、テレビを見ていた。
「え…………? ひなさん……?」
動揺の中、辛うじて名前だけでも思い出せた自分を褒めてあげたい。
「シャワー借りた。これ、食べる?」
木製の低い机の上に、幾つかのアルコール飲料とコンビニ弁当が、無造作に置かれていた。
この状況を当然のように振る舞うひなさんに、困惑が隠せなかった。昨日は半袖で肩が出ている服だったのに、今日は白い薄手のカーディガンを羽織っている。
「えっと……」
「まあ言いたいことは色々あると思うけどさ、とりあえずここ座りなよ」
そう言って、自分の座っている隣をポンポンと叩く。
「じゃあ、失礼します……?」
もはやどちらが家主か分からない。意味不明の状況を、既に受け入れつつある自分が少し怖かった。
そのまま、何も喋らず彼女の買ってきたカルボナーラを貰い、昼のワイドショーを見た。気分は悪くなかった。
途中、床に落ちっぱなしの漫画が気になった。けれど、普段から割と几帳面に過ごしていたお陰で、埃は少ないし、脱ぎ捨てられた下着が散乱しているなんて事はない。
横から香る、彼女の香水の香りに胸がざわついた。膝を抱え、アルコール飲料を飲む彼女の横顔は、消えてしまいそうなほど儚くて美しいのに、寂しいと訴えるような目をしていた。
そのまま黙々と麺を啜り、最後の麺を僕が食べ終えたタイミングで、彼女が話し始めた。
「怒ってる……?」
予想外の発言に、なぜか笑えてしまった。
「どういうことですか?」
笑ってはいけないような気がしたので、必死に堪えた。
「勝手に家に上がり込んだことだよ。警察に通報されなくて良かった」
「まあ、大歓迎とはいきませんけどね」
そう言いながら、思い出した。なぜひなさんが僕のアパートを知っているのだろうかと不思議だったが、昨日、独り言のようにアパートの名前を言ってしまった。昨日の自分を責めたい。
「アパートの場所は分かったけど、部屋が分からないから大家さんに聞いたの。染谷 風太の姉ですって。そしたら部屋を教えてくれて、鍵も開けてくれて、合鍵までもらっちゃった」
「何してんだ大家さん……」
セキュリティの甘さにびっくりする。人当たりのいいおばちゃんの大家さんは、いつか絶対にオレオレ詐欺に引っかかるだろう。あとで合鍵は回収しておこう。
「本当は昨日のお礼が言いたかっただけなんだけど、君がいなかったから待ってたら、やっと君が帰ってきたってわけ。学校だったんだね」
僕の制服を見て言った。
「ちなみに、何時からいたんですか?」
現在の時刻は午後一時。家を出たのは午前八時だ。
「九時からだから……四時間かな」
「四時間!?」
この狭くて陰湿な部屋にそんな長居をさせてしまい、逆に申し訳ない気分だ。
「本当に迷惑だったよね、ごめん」
「いやいや、そうじゃなくて、この部屋、扇風機しかないのに大丈夫でした? 多分冷蔵庫にも何もないですよね」
「ふふ、君は変わってるね。普通じゃないよ」
変わってる。どういう意味で捉えれば良いのだろうか。まさか、この短時間で、実はクラスに馴染めていないという、個人的な問題まで見透かされたのだろうか。
「まあいいや。それで、お腹が空いたからコンビニで色々買ってきた。これが昨日のお礼ってことで」
「そんなの全然いいのに……」
ちらっと、彼女の左腕が見えた。見てはいけない気がして、すぐに目を逸らした。
「あんなんじゃ全然死ねないんだね。血が出てるからいけるかなと思ったのに」
「やっぱり、死のうとしてたんですね」
見たのを気づかれたのだろうか。
「そうだよ。言っとくけど、失敗したのは君のせいだと思ってるから」
「え? 僕ですか?」
「君が引き上げるから……」
「引き上げる? 何をですか?」
「んん、こっちの話」
その後も、死生観についての会話が続いた。
「私はね、いつも死にたいとは思ってるの。それが、世界とか社会への漠然とした鬱憤や、憎悪だったりするんだ。けれど、トリガーを引いたのは、そんな大きなことでもなかった」
なんとなく、恋愛の話なんだろうなと察した。僕の方から聞くつもりはない。
「ここからは私の独り言。聞きたくないならいいよ」
まるで、昨日の僕のように言った。
「半年間付き合って、同棲までしてた彼氏が居たんだけど、二度目の浮気で、完全に終わったって思って。本当はあの東屋で死のうとしてたんだよね。全てに裏切られたような気がして。今思えば、お酒で酔った時にしか好きって言ってくれなかったなぁ……」
直接顔は見ていないが、静かに泣いているのが分かった。テレビから聞こえる笑い声が、酷く場違いに感じた。
「その人のこと、まだ好きなんですか」
慰め方を知らないが、とりあえず努力はしておこうと思って発したのが、この言葉だった。
「いや、好きじゃないかな。今まで何人かの人と付き合ったけど、みんなクズみたいな性格ばっかりだったよ。いや、もしかしたら私がそうだからそういう男しか寄ってこないのかもしれないけど」
何も言わないでおいた。ここで迂闊なことを口にすれば、それは逆効果でしかないと思ったからだ。
「家に帰ると、彼の荷物はないけど、彼の匂いとか思い出がまだ染み付いてて。帰ろうにも帰れないんだ。好きだった時の気持ちとか、楽しかった思い出が蘇ってきて」
恐らく、それが僕の家を訪れた理由のような気がする。もちろん、お礼という気持ちも彼女の中にはあったのかもしれないが、一度しか会ったことのない男子高校生の家に行くなんて、よほどの理由がないとしないはずだ。
「ごめんね、お礼するつもりが、逆に迷惑かけちゃった。じゃあ、私は行くね。ありがとう」
コンビニのレジ袋を手に取り、立ち上がる彼女。立ったところは初めて見たが、以外と身長は低めだ。
僕はその時、その言葉を口に出すつもりは一切なかった。だが、気づいた時にはもう口から離れていた。
「もう……行くんですか」
「えっ?」
自分でも、どういうつもりで言ったのかはっきりとは知らない。不安定な彼女を、これ以上悲しませたくなかったのかもしれない。
「まだいてもいいのにと思って……」
「いいの……?」
立ちすくんだまま、彼女の目からゆっくりと水滴が流れる。それは、頬から顎を伝って、カーペットに灰色の染みをつけた。
「僕は、ひなさんにこれ以上悲しい思いをして欲しくないんです。それに、いつまた自殺を試みるか分からないでしょ?」
「本当に君は……」
「それに、今日は、うちの地区のお祭りがあるんですよ」
大げさに笑って言って見せた。彼女はその場にへたり込み、更に泣いてしまった。
やはり、引き留めて正解だったみたいだ。平静を装ってはいたが、彼女の心のコップは、もう限界スレスレだったに違いない。こんな状態で家に帰っても、立ち直れるはずなんてない。帰してしまうのはあまりに酷だ。また、死にたいなんて言い出すかもしれないのに。
僕は、彼女の望むような、救いの手を差し伸べてやれるような人間ではないことは確かだ。けれど、僕がいれば幾らかマシくらいに思ってもらいたかったのかもしれない。
その時の僕の部屋は、まるで世界に二人だけみたいに居心地のいい空間だった。流れる時間も、扇風機しかない部屋の温度も、全く気にしなかった。