第19話 終わりと始まり
あれから二年。
僕は高校を卒業して大学生となり、ひなさんは大学三年生になっていた。
久しぶりに会おうと、ひなさんから連絡が来たのはつい二日前だった。
東京から離れ、福井の大学に進学した僕は、なかなか東京に帰ることは出来ず、受験勉強もあってひなさんとは会えていなかった。
あの日、東屋で互いに抱きしめあった日。
僕たちは二人で一緒に山を降りた。
河野さんや黒田は、本当にあちこちを探し回ってくれたらしく、皆、額に汗をかいていた。
二人とも、ひなさんが見つかって心の底から安堵していた。
ひなさんは何度も僕たちに謝っていた。そして、僕も一緒に二人に謝った。
その後、ひなさんは別れ際に、「私も大人になろうと思う」と僕に伝えた。
それからは僕の家に押しかけるなんてことは一切なくなり、お互いに色々と忙しい日々を送った。
そういえば、その時にようやく連絡先を交換した。黒田からは、「なんで今までしなかったの?」と散々突っ込まれた。
そんな黒田は、都内の難関大学に無事合格した。僕に想いを伝えて吹っ切れたのか、夏からの成績の伸びが異常だった。あっという間に追い越され、塾でも五本の指に入るくらいの秀才になっていた。卒業までは塾で毎回会ったが、大学は別々だ。けれど、僕が福井に引っ越した今でも、週に数回、連絡を取り合っている。
そして、一番変化が大きかったのは河野さんだ。なんと、結婚して、今や二児の父である。
結婚を報告するための電話をくれた時、彼は「俺は過去を乗り越えた。忘れたんじゃないぞ。記憶を心にしまったうえで新しい環境を愛するんだ」と言っていたのをよく覚えている。どこまでもかっこいい人だ。
結婚披露宴にも呼ばれていたが、組の連中が沢山いるという話を聞き、委縮してしまった。それに物理的な距離の問題も加味して、泣く泣くお断りした。
久々に降り立つ東京という土地は、まるで別世界のようだった。人の量も、活気も。喧噪も。そのどれもが、また新しく感じられた。
『今どこですか? もう構内出ました?』
『改札出てすぐのコンビニにいるよ。早くー! 待ちきれなーい!』
アプリで会話をしながら、待ち合わせをした。
改札を抜けて、近くに会ったコンビニエンスストアの前に立った。
何も言えなかった。
二年という月日は、ものすごく長かった。なのに、久々に見た彼女を前してみると、そんな時間はちっぽけに感じた。
「久しぶりだね、風太くん。背伸びた?」
ひなさんは相変わらず美しかった。いや、昔以上に。その澄んだ瞳に見つめられると、僕は身動きが取れない。
「お、お久しぶりです。ひなさんも、元気でしたか」
やはり、SNSの画面上のやり取りとは決定的に違う。ひなさんが、帰ってきた。
「ふふ。風太くん、なんか緊張してない?」
「いや、どうやって話してたか忘れちゃいました」
「普通でいいよ、普通で」
「普通が分からないんですよ……」
「まあまあ。じゃ、行こっか」
僕たちは、ある場所に向かっている。とても懐かしい、恩人のもとに。
*
「こんにちはー。河野さん?」
「よう。来たか少年。あ、もうおっさんか」
「青年って段階がありますから」
二年ぶりに見る河野さんは、まるで別人だった。髪型も普通の人になっているし、金のネックレスもしていない。完全に、"父親"の顔だった。
「ふふ。仲良いね二人とも。河野さん、ご無沙汰してます」
「ひなちゃんも元気そうだな」
結婚して家庭を持った河野さんの家にお邪魔した。奥の方では、料理を作る奥さんと、積み木で遊ぶ赤ちゃんが見えた。
「あ、奥さん。ごめんなさいご迷惑をおかけして」
すごく美人な奥さんだ。それこそ、河野さんにはもったいないくらいの。
「いえいえとんでもない。主人は友達が少ないので、仲良くしてあげてください」
「うるせえよ」
皆が一斉に笑った。生まれて初めて、幸せが目に見えた。
僕たちの笑い声からか、赤ちゃんが泣きだしてしまう。
「あらら。そうだ、ひなちゃん、折角だし、あやしてくれない?」
「え? 私がですか?」
そう言って、赤ちゃんを抱き寄せた。その様子を見ていると、なんだか微笑ましくて、同時にどこか恥ずかしくなってくる。僕は思わず目を逸らした。
河野さんが僕に近づき、僕にしか聞こえないくらいの声量で言った。
「様になってるな。ひなちゃん」
「女の人って、みんな似合うんですかね。ああいうのが」
「さあな。お前も、結婚すんだろ?」
唐突にそんなことを言われたので、噴き出してしまった。
「な、何言ってるんですか。それは早いですって」
「まあなんでもいいけどよ。お前は幸せになれよ。今ある幸せを、掴んで離すなよ」
河野さんは遠くを見ていた。けれど、その瞳には、過去との決別と、新たな挑戦への意志がしっかりと宿っていた。
「もちろんですよ」
それから少し世間話をしていると、インターホンが鳴った。最後のゲストだ。
「お邪魔しまーす。みんな久しぶりー!」
相変わらずの明るい声で登場したのは、黒田だった。
塾では高三の冬まで会っていたが、大学生になった黒田を見るのは初めてだ。髪は伸び、一段と大人の女性になっている気がする。
「黒田、ロングにしたのな」
「風太だってなんか雰囲気変わってるじゃん。あ、ひな姉!」
「キョーちゃん! この間のパンケーキ美味しかったねー!」
ん? この間のパンケーキ?
その会話が妙に引っかかった。
「ひなさん、もしかして、黒田と会ったりするんですか?」
彼女はキョトンとして、さも当たり前かのように言った。
「一か月に一回くらい会うよ? ね、キョーちゃん」
「うん。だってひな姉とのデート楽しいもん」
唖然とした。僕でさえ数か月に一回しか会えないのに、黒田とこんなに仲が良いなんて。いくら距離が近いからと言って、そこまで想像していなかった。
「ははは! お前、彼女が取られて妬いてるんだろ!」
河野さんが大声でからかった。まだ昼間なのにもう酔っている。
「えー風太……ひな姉は私のなんだけどー」
「ひなさんは僕のだよ!」
勢い任せに言ってしまった。自分の発言に気づいて三秒後、顔がみるみる赤くなった。ひなさんを見ると、僕と同じように赤面していた。
「ちょっと風太くん……」
「おいイチャつくな」
河野さんからチョップをもらい、その話は終了した。
*
「はい、できたわよ~」
河野さんの奥さんが料理を食卓に並べた。口内でどばどばと唾液が分泌される。
「わぁすごい……」
ソースが絡みつくチンジャオロースやパラパラの黄金チャーハン、生姜たっぷりの冷奴。他にも、見ているだけでお腹がすくようなメニューばかりだ。
ひなさんと黒田は、ただただ感動していた。
そのせいか、食べるのもあっという間だった。
奥さんの手料理は、驚くほど美味しかった。聞けば、調理の専門学校を卒業しているらしい。この食事を毎日食べられる河野さんが羨ましい限りだった。
「桔梗ちゃん、頭良かったんだな。俺にはさっぱりだわ」
「河野さんが頭良かったらイメージ変わっちゃうんで、そのままでいいと思いますよ」
「ん? それ褒めてる?」
食べている間は、皆、会話が弾んだ。久方振りに帰省した僕のために集まってくれたことに、本当に感謝している。
「風太、大学はどうなのよ」
黒田が僕に問いかける。珍しく真面目な顔をしていた。
「まあまあかな。楽しくやらせてもらってるよ」
「そっか。ならいいけど」
黒田は、本当に尊敬できる人間だと思う。容姿は抜群に良いし、取っつきやすい性格も助かっている。
「黒田も、幸せになれよ」
酔った勢いだろうか。自分の口からこんな言葉が飛び出していた。
「え。なにそれ。めっちゃ偉そう」
ひなさんも加勢してきた。
「風太くん、何様?」
河野さんはただ失笑していた。まさか、自分が言った言葉が使いまわされると思っていなかっただろう。
楽しい。こうして、みんなで集まれていることが奇跡だった。不思議な縁で繋がった僕たちが、誇りだった。
あの日、東屋でひなさんを見つけて良かった。助けて良かった。こうして笑っている彼女を見て、どうしようもなく嬉しかった。
「じゃあ、河野さんと奥さん、お子さんと一緒にお幸せに。黒田も。またみんなで集まって、会いましょう。絶対に」
「お前も、ひなちゃんも元気でな。青年」
「風太、また連絡してね~、ひな姉、次の遊ぶ予定立てとく!」
人と別れるのがこんなに寂しいのは初めてだった。
ひなさんは深くお辞儀をした。
「本当に、ありがとうございました」
僕とひなさんは、河野さんの家を後にした。
しばらくは、二人で無言のまま歩いた。
思い立ったように、彼女が口を開いた。
「この後、あそこ寄っていかない?」
僕らは、長めの階段を登って山頂まで登った。
*
「全然変わってないなぁ」
「やっぱり気持ち良いですね。ここの風は」
二年経った今でも、東屋はちゃんとあった。街の景色は、ビルが少し増えた気がする。
「私さ、今でも時々ここに来るんだ。嫌なことがあった時とか、悩んだ時に」
なんとなく、胸がギュッとなった。
「だからさ、ありがとうね。風太くん。何回も言ったけど、ありがとう。君に救われた命を、もうちょっとだけ有効活用してみるよ」
彼女が前向きになることが、これほど嬉しいとは思わなかった。そういえば、笑う回数も格段に増えている。お互いに。
「ひなさんはいつもそう言いますけど、実は僕も救われていたんですよ」
「ん? どういうこと?」
訳は説明しなかった。これを知っているのは僕だけでいいと思ったからだ。
階段を一段ずつ降りると、だんだんと別れに近づく感じがする。上りより楽なはずの下りが、しんどく感じた。
でも結局、話しながら歩くと、一瞬で駅に着いてしまった。
「そういえば、大学生になってから、あんまり自炊をしなくなりました。なんでなんですかね」
「私は結構料理するようになったんだよ。今度こっち来るときは、外食じゃなくて私のお家でもいいかもね」
「それはいいですね。毎日作って欲しいくらいです」
そう言うと、彼女は黙ってしまった。何か気に障ったのだろうか。
「ひ、ひなさん……?」
「風太くん、それ、プロポーズしてるの?」
「いやいやいや! 全然そういう気はなくて!」
明らかに、僕をからかうスキルが上達しているのが分かった。
「ふーん。じゃあプロポーズする気はないんだぁ」
「そういうことじゃなくて、将来的にはそうですけど!」
彼女がニッと笑い、なんだか懐かしい笑顔を見た気がした。
「将来的には、か」
そう呟いて、地面の方を向いて歩くひなさん。実は彼女も照れていたのかもしれない。
ちょうどのタイミングで、新幹線がホームに流れ込んできた。
ドアの前に立ち、またしばらく会えない彼女にお別れする。
「じゃあひなさん、お元気で。帰ったら連絡しますね。なるべく早く、また会いに来ます」
「風太」
彼女の瞳は、吸いこまれそうなほど青く、澄んでいた。初めて、"風太"と呼ばれた。
「はい?」
「卒業したら、一緒に住もっか」
「ええええ!?」
プシューーー
その言葉を最後に、鉄の扉が僕たちを隔てた。窓の外に、にへらと笑う彼女の顔が映り、僕はしどろもどろになってしまった。そのまま、景色が横にスクロールしていく。
しばらくは興奮が収まらなかったが、席に座って珈琲を飲むと、ようやく落ち着きが戻ってきた。
思い出すとにやけてしまい、何度も鼻頭を掻いた。
車窓から見た情景は、ビル群がこれでもかと主張し合っていた。
彼女と別れた後の新幹線で、僕はふと思う。
もう、脆くて、繊細で、壊れそうな、あのひなさんはいない。
それが良いことか悪いことかで言えば、確実に良いことだ。けれど、僕はなんだか寂しい気持ちになった。
あの頃のひなさんとは、もう会えないということに。
昔の彼女は、もうここにはいないんだ。
時間とは、切り取られた"瞬間"の連続だ。
写真が動画になるみたいに、一秒前の僕は、僕ではない。
その分、今を、今という時を、大切にしようと思った。
過去が現在を形成しているのならば、僕は過去の彼女も、今の彼女も、全てを愛することができるはずだ。
昔の彼女に、問いかけてみた。
ひなさん。今の君の姿を見たら、なんて言うかな。信じられないと思うけど、君はちゃんと笑えているよ。
心の中で放ったはずの独り言は、胸を飛びぬけて宙に舞い上がっていった。
それは、限りなく透明に近い、青い色だった。
⁑
「私ね、夏が来る度、死にたくなるの。こんなにも爽やかなのに、こんなにも切ない。やりきれないと思わない?」
唐突に、ひなさんの言葉を思い出した。あの頃は理解ができなかったけれど、今なら分かる。この言葉こそが真理で、彼女こそが本当だったんだ。
あの日見た入道雲のように、今はここにいない。いつの間にか儚く消えてしまったのも全て、夏のせいだ。
終




