第16話 告白と消失
◇
私が起きた時には、風太くんは既に帰っていた。机の上のゴミはきちんと片付けられ、お皿まで洗ってあった。
残されたメモ書きを見ると、なぜか少し寂しくなった。
「こんなに丸文字だったんだ」
そのメモがまるで彼のように感じられ、大切に保管しておこうと心に決めた。
何時間か前までは、この部屋に彼がいたのだ。彼の柔軟剤の香りが、未だに辺りに漂っていた。
一人だけの部屋は、私には広すぎるような気がした。
「あ、布団」
そういえば、せっかく買った布団を使ってもらうのを忘れていた。お互いに
疲れてその場で寝てしまったのだ。
けれど、私たちはそれでいいと思った。どこか抜けている方が、むしろ心地よかった。
起き上がってタオルケットをどかしていると、ポロっと何かが落っこちた。
「あれ?」
緑色のメモ帳のようなものだった。
拾い上げてまじまじと見つめると、それは彼の学生証だった。今より髪の短い、初々しい写真が貼られている。
「これ……ないと困るよね……」
サッとだけシャワーを浴び、髪を巻いて、新しい服に着替えた。今日の気分はノースリーブだった。左腕の傷は時計で隠すことにした。
次会うのはいつかと憂いていたが、まさかこうやって連続して会うことになるとは。運命とはこういうことを言うのだろうか。そんなことを想像して、一人でニヤけた。
彼の家に行くのも、もう慣れたものだ。六駅離れた町まで電車に乗り、駅から夕凪荘までは歩いて十五分くらいだ。
途中の坂道を登ると、小さな公園がある。ブランコと砂場とベンチがあるだけの、本当に小さな公園だ。
私は、そこで一休みするのが好きだった。いくら慣れたと言っても、男の人の家を訪れるのは緊張する。そこで心を整理するのだ。
坂道にあるということもあり、なかなかに景色が良い。
彼の学生証がポケットに入っている感触を確かめながら、公園に足を踏み入れようとした。その時だった。
一人の女子高生が、ブランコに座って泣いていた。
そして、私はその子を知っていた。ただ、なぜこの時間にこの場所にいるのかという疑問だけが、頭で埋め尽くされていた。
声をかけるか、かなり迷った。
泣いているということは、少なからず悩みがあって傷心中なのだ。悩みを持っている時、人に話したいタイプと一人になりたいタイプの二種類がいるというネットの記事を思い出し、私は躊躇っていた。
しかし、相手は他人ではない。友達だ。私なんかが力になれるのならと、勇気を出して前へと進んだ。
「き、キョーちゃん……?」
もしかしたら人違いかもしれない。念のための確認は大切だ。
下に向いていた顔がゆっくりと上がると、涙でぐちゃぐちゃになってしまっていた。目が赤く充血している。
間違いない。先日スーパーで出会ってお茶をした、桔梗ちゃんだ。
「ひな姉……?」
「どうしたの? こんな所で。大丈夫?」
明らかに何か悪いことが起こった後だ。首を突っ込んで良いものだろうか。
「へへ、ちょっとフラれちゃって」
「告白してきたんだ……」
その勇気が凄いと思った。いつまでも想いを秘めたままの私とは違い、この子はちゃんと行動している。
私はもう一つのブランコに腰かけた。キーキーと耳障りな音を立てる。
「キョーちゃん。ちょっとお話しよっか」
「……うん」
素直な子は好きだ。彼に話を聞いてもらって救われたように、私も誰かにとってそうでありたいと思った。
「前に言ってた、気になってた人?」
「そう。家に押しかけて告白したら、謝られちゃった。謝るくらいならズバっとフッてくれればいいのにね」
「あらら」
「もう会えないや。どんな顔してればいいのか分からないもん」
ずっと深い溜息をついている。その吐息は、悲しげに宙に消えていくようだった。
「普通でいいよ。次に会った時も、明るく挨拶すれば、それでいいよ」
「え? でも……私……」
「キョーちゃんは偉いよ。凄いよ。勇敢だよ。私みたいにうじうじしてないで、ちゃんと前に進んだじゃない。その勇気があれば、きっとできるから、ね?」
「ひな姉……」
まさか、一度は自殺を試みたような自分が、こんなに大それた励ましの言葉を贈るなんて思いもしなかった。確実に、彼の影響を受けている。
「嫌なことは過去に置いてってさ。思い出は光るけど、それだけじゃ未来は照らせないんだよ」
どこかで聴いた曲の歌詞をそのまま言ってみた。少しでも元気になってくれればいいのだけれど。
「また恋愛、できるかな」
桔梗ちゃんの顔が少し上がった。
「キョーちゃんくらい可愛い子だったら、うんざりするくらい候補が見つかるよ」
冗談ではなく、本気でそう思った。モテる人種とはこういう子のことを言うのだ。
曇り空の中に、晴れ間ができた。今日は空模様が良く変わる日だ。
「あ、そうだ。ちょっと待っててね」
私は近くにコンビニがあることを思い出し、駆け出した。
エアコンの効いた店内に入り、カップのバニラアイスを二つ買った。スプーンも忘れずに貰った。そして、また公園に戻った。
「はい。一個どうぞ」
「え? アイス?」
「うん。これ食べて元気出して」
「……ありがとう」
辛い時には甘いものという持論のある私は、見覚えのあるバニラアイスを桔梗ちゃんに渡した。
二人でブランコに並び、黙々とスプーンを口に運んだ。
突如、桔梗ちゃんが口を開いた。
「私、まだ好きなの」
それは、誰に向けているとでも捉えられる言い方だった。
「彼が、好き。多分、これからもずっと」
桔梗ちゃんの目は、遠くを見ていた。私に喋る暇も与えず、続ける。
「恋愛って、そういうものだと思う。フラれたって、そう簡単には忘れられないもん。きっと、フラれた相手のことを好きな上で、違う人を好きになるんだと思う」
何も言えず、スプーンを動かす手も止まった。
「でも、もしその昔の人を知らなかったら、新しい人も好きにならないんだよね。だから、初めて好きになる人ってめちゃくちゃ大切なんだよ。きっと」
私の今までの恋愛は、本当に好きだったと言えるのだろうか。
「キョーちゃんは、その人のどこが好きだったの?」
「優しいところ。彼は時々、過度なくらいに優しいの。いつも、自分のために使う優しさは残ってるのかって疑問だった。同時に、それが私にとってちょっと辛かったの」
私もそんな人を知っている気がした。
「もうフラれちゃったから意味ないけどね。これからはあの人の顔にモザイクをかけて生きていかなきゃならないと思ってたけど、そんなことないよね。普通に挨拶していいよね」
「うん。何も変える必要ないよ」
「そっか。ありがと、ひな姉」
そう言って桔梗ちゃんは立ち上がった。いつの間にか、互いのアイスは空になっていた。
「私、前に進むよ。ひな姉も頑張ってね」
その時の桔梗ちゃんの笑顔は、今まで見たどの女の子より可愛かった。
つい最近聴いた、軽快な音楽が頭の中で流れていた。
*
桔梗ちゃんと別れた私は、本来の目的を達成すべく、風太くんの家に向かった。
インターホンを押すと、すぐに出てきた。
「はーい。え? ひなさん?」
「風太くん、君、学生証忘れてたよ」
「あ! それでわざわざ届けてくれたんですか? 携帯に連絡してくれれば僕が取りに行ったのに」
「そんなこと言ったって、私達、連絡先の交換してないよ」
今更だが、私は彼の連絡先を知らない。というか、今まで必要が無かった。
「確かにそうですね……とりあえず、あがってください」
「え? でも私……」
話し終える前に、彼がこう続けた。
「実は今から、人と会う約束があって出かけるんです。その後お礼したいので、待ってて貰えませんか? 一時間くらいで済むはずです」
インターホンを押してすぐ出てきたのはそういう訳だったのだ。ちょうど出掛けようとしているところに来てしまったらしい。
「え……でも……」
「冷蔵庫の中身なんでも食べていいですよ!」
そう言い残し、彼は扉を閉めて行ってしまった。
彼の部屋に私だけが取り残されるこの状況が、どこか懐かしかった。
ふと、違和感に気付いた。
玄関から部屋にかけて、香水の匂いがする。
私は冷や汗をかいた。手を固く握り、部屋の奥へと進む。匂いはより強くなった。
彼が香水をつける訳はないし、それらしいものは見当たらない。このタイプは、私がつけている香水でもない。
つまり、この部屋に、先程まで誰かがいたことになる。
しかし、誰かがいたことは大した問題ではなかった。それなら、単なる、彼の友達でも説明がつく。そういうこともあるだろう。
本当に問題だったのは、私がこの匂いを知っていることだった。
しかも、ついさっきまで嗅いでいた匂い。思い出そうとせずとも、誰の匂いかすぐに分かった。
全身から力が抜けた。
その場で膝をつき、動けなくなった。持っていた鞄は落ち、床に張り付いているようだった。
まさか、あの純粋で可愛い女子高生の好きな人は、私が知っている人だったなんて。
いや、知っている人なんてものではない。私の好きな人が、同じく桔梗ちゃんの好きな人だったなんて。
途端に、私の心は黒い感情で覆いつくされた。不安。焦燥。罪悪感。そんなものばかり詰まっていた。
確かに、それなら全て納得だ。優しいところが好き、と言っていた。大いに同感だ。辻褄も合う。
「うっ……う……」
自然と涙が溢れてくる。何のために、誰のために泣いているのか分からなかった。
「ごめんね……風太くん……」
桔梗ちゃんは、好きな人にフラれたと言っていた。その件に私が関係しているかどうかは分からない。彼の中で、私がどういった存在なのか、知る由もない。
それでも、私が二人の関係に何らかの邪魔をしている可能性があるということに、耐えきれなくなった。
涙が止まる気配はない。いっそ、このまま干からびて死んでしまいたかった。
風太くんに、何度も救われた。そして、出来るだけ彼の青春を邪魔しないようにしながら、彼のキラキラした時間を眺めていた。それも、もう終わりだ。私はここにいてはいけない存在だと、ハッキリと自覚した。
そんなことを言うと、彼はきっと否定するだろう。
けれど、それも優しさから言うのだ。本心、いや、もっと根本的な部分で、彼は私をうざったいと思っているに違いない。そう考えずにはいられなかった。
ああ。私、なにしてんだろ。
冷静に考えれば、簡単な話だった。年下の高校生に迷惑をかけ続けるような人間が、真人間の訳がない。
今できる最善の手を言えば、ここから消える、それのみだ。
私は、机の上にあったノートをちぎり、鞄からペンを取り出した。
最後に、今までの感謝と懺悔を、この紙に記しておこうと思ったのだ。
涙で手元が上手く見えない。それでも、私は何とか書き上げた。
自分で書いたはずの文字が、恐ろしく、おぞましいものに感じた。
そして、その手紙を書き終えた瞬間、私の居場所はなくなった。彼との関係は消失した。この世界で生きる意味が、消滅した。
この家から、この関係から、この世界から逃げるように私は立ち去った。




