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リストカットとバニラアイス  作者: 君名 言葉
15/20

第15話 比喩と矛盾


 ◆


「いてっ……」

 寝返りを打とうとして、固い何かに足をぶつけたのが、僕の目覚めるきっかけだった。

 足の方に目を向けると、見慣れないソファが置いてあった。一気に昨日の記憶が蘇ってくる。

「あ、そっか……俺……」

 ひなさんを探してみると、同じく床に横たわっていた。

 「すぴー、すぴー」という規則正しい呼吸が聞こえてくる。無防備な彼女の姿は、いつもより僅かに小さく見える。

 時計の針は、八を指していた。

 立ち上がって、机の上に散乱したゴミを片付けることにした。ビールの缶や、おつまみの袋を持って台所に行く。

 その後、洗っていないカルボナーラの皿を洗った。それでもひなさんは起きなかったので、鞄から筆記用具とノートの切れ端を取り出し、メモを残した。


『泊めてくださってありがとうございました。お皿洗いとゴミ捨てはやっておきました。起こすのも申し訳ないので、お先に失礼します』


 そう書き残し、うるさくならないよう、なるべく静かに鉄製の扉を閉めた。

 ひなさんの家から出て、アパートの五階から東京の景色を見渡してみた。

 そこにあったのは、いつもの息苦しさはない、青くて、ただただ神秘的に輝いている都会の姿だった。

 ビルに反射する光。鬱蒼と茂る街路樹。忙しなく足を動かす人々と、切なげに飛んでいく蝉。

 朝出て行く場所が違うというだけで、まるで生きている世界が変わったみたいだった。

 思わぬ眩しさに、僕は目を細めて遠くを眺める。

 悠々と発達する入道雲に、なぜか畏怖の念を抱いた。


 早く家に帰ってシャワーを浴びたい気分だった。いつもよりちょっと早い駆け足で駅まで歩いた。

 月曜日の朝九時ということもあり、電車内はそこそこ混んでいた。六駅だけだったので、席には座らずに、ドアの近くのつり革を掴んだ。

 何の気になしに、スマホでニュースを見ていると、ふと、向かいに立っている人の姿が目に入った。

 ワイヤレスのイヤホンをした、女子高生。

 僕は、この女子を知っていた。同じ塾に通う、黒田 桔梗という女の子だ。綺麗に切りそろえられたショートカットが揺れていた。

 相手がまだ気づいていないので、声をかけるか迷ったが、無視するのも如何なものかと思ったので、一応かけておくことにした。


「よ、黒田」

 いきなり肩を叩かれた黒田は、飛び跳ねるほど驚いていた。

「ふ、風太!?」

 制服を着ているあたり、これから部活なのだろう。確か、バスケ部のマネージャーをしていると聞いたことがある。

「これから部活か? ご苦労様」

「いや、何してんの? なんでこんな時間にこの路線乗ってるの? なんでちょっとお洒落な服着てるの? なんで?」

 質問が渋滞して、とても捌ききれない。

「まあ、色々あって……」

「ちょっと、真面目に答えて。真剣なんだから」

 真剣になる必要性を全く感じないが、とりあえず言いたいことがあった。

「黒田、もうちょい静かに。電車だから……」

「あ……」

 周囲からの視線を集めてしまっていた。


 次の駅で、僕は強制的に黒田に降ろされることになった。

「なあ黒田、これから部活だろ? こんな駅で降りて大丈夫なの?」

「それどころじゃないの! 私にとっては、風太がこの場所でこんな格好でいることの方がずっと重大な問題なの!」

「なんで……?」

 依然、意味が分からない。そんなこと、どうでもいいことのはずだ。

「なんでって、そりゃ……」

 そう言って、黒田はなぜか黙ってしまった。さっきから思考が読めない。

「友達の家に泊まってたんだよ。さっき起きて、今から家に帰ろうとしてるところだ」

 一応、何も嘘は言っていない。

「友達の家ねぇ……」

 怪訝な目で僕を見つめる。ひなさんのことを知られると、厄介な事この上ない。

「な、分かっただろ。いつもよりちょっとだけいい服着てるのも、納得できるだろ。前に僕がその人を泊めたから、今度は僕が泊ってきたんだよ」

「友達の家ってどこの? その人は一人暮らし? 同じ学校の人?」

「おいおい、ちょっと待てって……」

 何かを悟ったように、黒田は息をついて、こう言った。

「よし、決めた。私、今から風太の家に行く」

「はあ!?」

 急展開、破天荒、意味不明。

 黒田が訳の分からない提案をしてくる。

「いいじゃん。友達の家に泊まったんでしょ? 私が遊びに行くくらいどうってことないって」

「いや、なんでそうなる?」

「泊まるって言ってるわけじゃないからさー、あ、別にお泊りでもいいんだよ?」

 ニシシとからかったような笑い交じりに話す。どうも、会話の主導権を取らせてくれない女の人は苦手だ。

「だから、無理だって。片付けなきゃいけないし」

「じゃあ、片付けてる間は外にいるよ。見られたくないものはベッドの下に隠しなよ」

「そういう問題じゃなくてさ……」

「お! 電車来たよ! レッツゴー!」

「おい!?」


 *


 そうして僕は、友達の女子高生までをも家にあげてしまった。いや、強引にあげさせられた。なんとなく後ろめたい気分になる。

「へー、一人暮らしの高校生の部屋にしては片付いてるね」

 謎の目線で僕の部屋を物色する黒田。ひなさんがいなくて本当に良かった。

 質素で狭い部屋を、まじまじと見つめている。満足したらさっさと帰ってもらおう。いつもと違う状況の部屋というのは、なにかとストレスのかかるものだ。

 疲れた僕は、どかっとソファに座り込んだ。全身から力が抜けていく。

 瞼もだんだんと重くなってくるが、この状況で眠るわけにはいかず、慌てて

 首を振った。


「風太、この本、ちょっと読んでもいい?」

 本棚の前に立つ黒田がそう言った。

「ああ、いいよ」

 部屋の空気が、一気に違う香りになっているのに気付いた。本当に、人によって匂いが違うというのは不思議な話だ。

「なんか面白そう。『幽霊に恋した透明人間』だって」

「それは、僕が一番好きな恋愛小説なんだ。特に夏祭りのシーンとか感動で……」

 そういえば、この話を夏祭りでひなさんにもした。続きが気になると言っていたが、あれから読んだのだろうか。

「変なの。恋愛感情が分からないって言ってるのに、恋愛小説が好きなんて」

 確かに、もっともな意見だ。一見、矛盾しているように思えるかもしれない。

「そう思うよな。でも、違うんだ。小説の中の恋愛を知っているからこそ、現実の恋愛に興味が持てないんだよ。これだけ透き通って綺麗な世界を提示されたら、今の世界なんてちっぽけに見えちゃって」

「それが、風太が恋愛小説を好きな理由?」

 彼女の苦笑いも当然だと思った。

「それもそうだけど、他にもある。恋愛小説って、好きって感情をストレートに表現はしないんだ。遠まわしに、もったいぶって、比喩的に伝えるんだよ。それが、なんとも素晴らしいんだよね」

「まあ、そうだよね。内面描写とかあるしね」

「だろ。夏目漱石が訳した、『月が綺麗ですね』とかまさにそう。何かに例えて

 伝えるってこと自体が芸術なんだ」 

 思わず熱く語ってしまった。引かれていないだろうか。

 そう心配したのだが、黒田は、真っ直ぐな瞳でこちらを見据えていた。

 本棚の前で棒立ちになり、いつの間にか鞄を手放している。

 部屋の電気は点いておらず、カーテンも閉まっているので薄暗い。感じたことのない雰囲気が漂っていた。


「風太」


 まるで独り言のように黒田が呟いた。

 そして、ゆっくりと、ソファに座る僕に歩み寄ってくる。


「遠まわしの表現が好きって……どの口が言ってんのよ」

「え……?」

 黒田は近づいてきて止まらない。何をするつもりだろうか。


 疲れて力が入らない僕の体が、急に重くなった。状況が飲みこめず、息をするのも忘れていた。


「それなら、私の気持ちに気付いてよ……」


 その言葉を聞いた瞬間、全身が凍り付くような感覚に囚われた。背中を大量の冷や汗が伝い、瞬きができない。

 黒田は、ソファの上で、僕を押し倒し、上に乗った。

 涙目で語るその様は、今まで見たどの黒田より大人っぽく、切なく見えた。

 僕は、ただただ絶句するしかなかった。自分の中の何かが壊れる音がした。


「小説みたいな恋じゃなきゃ……ダメなの……?」


 その質問に答えることはできなかった。

 肯定も、否定もできない。ひたすらに「ごめん」と言い続けることしかできなかった。

 その時、僕の部屋の時間というものは止まっていたのだと思う。

 時計の針の音はしなかったし、二人とも呼吸をするのを忘れていた。

 もちろん、これが一種の告白であるとは理解していた。彼女は、異性として、もしくは性愛の対象として、僕を求めているのだ。けれど、僕にはその想い受け止めきる力も勇気もなかった。どうすれば良いのか、全くもって知らなかったのだ。

 それどころか、その時の僕の頭には、別の女性が思い起こされていた。


『私の気持ちに気付いてよ』


 その一言が頭の中で反芻した。幻想だろうか。いや、実際に黒田が繰り返していたのかもしれない。

 いずれにせよ、ずっと、頭について離れなかった。

 頭を振っても、目を閉じても、大きく息を吸ってみても。その言葉は僕の心を抉り続けた。


 それから、黒田は少しの間だけ泣いた。慟哭とは正反対、びっくりするくらい、静かに。そして、美しく。

 僕は、自分の中にあった信念や考えみたいなものを、一切合切打ち砕かれたような気分で、何も言えなかった。

 突き付けられた言葉のどれもが、自分に刺さった。分かり切っていた矛盾や感情を、改めて自覚し、僕まで泣きそうになった。


 黒田は、無理矢理家に付いてきたことを謝罪し、涙を拭いたハンカチを僕に渡して去っていった。

 その後、僕は、自分が泣いていることを、鏡の前に立つまで知らなかった。

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