第13話 初訪問と人生ゲーム
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いつもより早く目が覚めた。鼓動がいつもより速いような気がした。
今日は、初めてひなさんの家を訪問することになっている。
よく考えたら、女子、もしくは女性の家を訪れるという経験は初めてだ。今までは、そんな機会も意志もなかった。
いつもよりちょっとだけ高めの服を纏い、寝癖がないかだけチェックした。こういう時、お洒落をもっと勉強しておけばよかったと思う。
駅までは歩いて行くことにした。特に訳はないが、きっと、自分の心を整理する時間が必要だったのだと思う。
途中、コンビニに寄った。お土産として、ひなさんが好きそうなアイスクリームをいくつか買った。
電車で六駅分の距離にある彼女のアパートは、僕の住んでいるアパートの何倍も高そうで、敷居が高く見えた。いつもより少し、余計に汗をかいている。
536号室。エレベーターで五階まで昇り、コンクリートでできた通路の奥へと足を踏み入れた。
扉の前に立つ。TAKASHIMAと書かれた木の表札がぶらさがっている。
「ふぅ」
一度、深呼吸をした。息を吐きながら、ひなさんが僕の家に来るときもこんな気持ちだったのだろうかと思い巡らせた。いや、僕以上に緊張していたに違いない。こんな所で怖気づいてもしょうがない。
意を決して、扉の横のベルを押した。
ピン、ポン
ありふれたベルの音が鳴り響いた。ベルを押すその感触と同時に、僕の心臓がギュッと掴まれたみたいに苦しくなった。
そして数秒後、エプロンを着用したひなさんが姿を現した。
「お、いらっしゃい」
ニッと笑い、出迎えてくれた。一気に緊張がほぐれた。
今日のひなさんは、いつもみたいに髪を下ろしているわけではなく、高いところで結んだポニーテールだった。髪型が違うだけで全く雰囲気が変わるということを、僕はこの時初めて知った。
部屋の中には、いつも彼女からする甘い匂いと、牛乳とチーズのような香りが充満していた。
室内の広さはと言うと、僕の部屋より二部屋も多い。それに、窓からは江の島が望めて、室内装飾もこだわりがありそうな感じだ。純粋に、家賃が気になった。聞かないけれど。
エプロン姿でカルボナーラのソースを作る彼女を見て、改めて年上の女性なんだと実感した。いつか、僕ではない他の男の人が、こうして彼女の料理を待つことになるのだろうかと考えた。それは、僕に何とも言えぬ苦しさのような感情を与えた。
「知ってたんですね。僕がカルボナーラ好きって」
ボウルの中身をかき混ぜる彼女の背中に話しかけた。
「だって君、この間美味しそうに食べてたじゃない」
「見てたんですね。ありがとうございます」
そんな他愛ない会話をして、僕は昼のワイドショーを眺めた。場所は違うが、この状況は前にもあった。
あれから、まだ数日しか経っていない。この短期間の間に、心が奪われている自分が不思議で仕方なかった。
ひなさんはどう思っているのだろうか。多分、どうも思っていないというのが真実だろう。僕はまだ幼すぎる。知らない世界と大人の事情に流されて生き続ける僕には、そんなことを考える資格すらないのだ。
チーズと牛乳の濃厚な匂いが鼻腔をくすぐった。黄色い麺の間から湯気が立ち、散りばめられたパクチーのコントラストが完璧だ。
「「いただきます」」
二人で手を合わせ合掌する。思わず、ひなさんが僕の家に来た日のことを思い出した。
フォークとスプーンを使って食べるのに慣れていない自分が恥ずかしかった。麺を巻くのに苦労していると、彼女が笑いながら言った。
「無理しなくていいよ。箸持ってこようか?」
「お、お願いします……」
結局、日本人にはこれが一番だ。箸を持って無敵になった僕は、無我夢中で麺を吸い込んだ。
「超美味しいです」
素直に口から出た、一切嘘のない感想。
程よくゆでられた麺、舌に絡みつく濃いソース、ピリピリ心地よい黒コショウの分量、今まで食べたどのカルボナーラより特別だった。
「本当に? 良かった、失敗しなくて」
「ひなさん、普段あんまり料理しないんですよね? それでこのレベルってどうなってるんですか?」
「いや、私はサイトを見ただけだから……」
こういうのを才能と呼ぶのだろう。もっと活かせばいいのに。
それから話は進み、いつの間にか昔の話をしていた。
「昔は、夏ってもっとキラキラしてたように思います。朝から友達の家に行って、ゲームしたり外で遊んだりして。お腹がすいたら家に帰って昼ご飯を食べて、また空がオレンジ色になるまで遊んで」
「男の子はそういう遊び方なんだ。でも、キラキラしてたのは同感かな」
「今のひなさんにとって、夏ってどういう風に映ってるんですか?」
僕にはなぜか、その質問がとても重要な意味を持っているような気がしてならなかった。
「私ね、夏が来る度、死にたくなるの」
予期せぬ回答に、箸が止まってしまった。
「どういうことですか?」
彼女はまた、静かに話し始めた。
「こんなにも爽やかなのに、こんなにも切ない。やりきれないと思わない?」
何も言えなかった。僕は、この世界の本質というものを、垣間見た気がした。
「ひなさん……」
意識せずとも、名前を呼んでいた。
「そして、今年の夏も、案の定死にたくなったよ。いや、実際に死のうとしてたんだけどね。だけど私は今生きてる。この意味が分かる?」
「えっと……」
どう返答するのが正解なのだろう。
「この命を救ってくれたのは君。居場所のなかった私を受け入れてくれたのも君。お祭りに連れて行ってくれてのも、その後介抱してくれたのも、喧嘩までして助けてくれたのも、全部君だよ。そして、これだけ生きるのが楽しいのも君のせいなんだよ」
数々の思い出が一気にフラッシュバックしてくる。彼女にとっては、どれもが特別に見えているのだろうか。
「確かに、全部僕ですね」
「それを踏まえて、私が言いたいこと、分かる?」
まずい。分からない。遠まわしに言わずに言ってくれればいいのにと思ってしまう。なんでそんなにもったいぶっているのだろう。
「すみません……分かんないです……」
「はぁ……」
思いきりため息をつかれた。失望と捉えるべきだろうか。
「キョーちゃんの言うとおりだわ。まあ、その方が君らしくていいかもね」
突然、笑顔に変わったのでますます理解不能になってしまった。
「キョーちゃん……?」
「ああ、こっちの話」
とにかく、これが大人と子供の差ということだ。
「ごめんねなんだか重い話しちゃって。そうだ、今から、どうでもいい報告した方が勝ち選手権、やらない?」
「お、なんか面白そうですね。僕は、昨日爪を上手く切れて嬉しかったです」
「うわ、本当にどうでもいいじゃん」
「次、ひなさんの番ですよ」
「そういえば、家のドアの暗証番号変えたの。前までは彼氏の誕生日だったんだけど、思い切って変更しちゃった」
「へえ、そうなんですか。次は何にしたんですか? んー、教えてもいいけど、当ててみて。君なら分かるかも」
「僕の誕生日は……知りませんよね」
「さあ、どうかな~」
思えば、これまでの人生で誕生日を意識したことなんてなかった。これは持論だが、誕生日というのは持ち上げられすぎだと思うのだ。孤独に生きる人間には一切関係のないイベント。生まれただけで祝われるという習慣が、よく分からない。
本当に全く関連性のない演説が頭の中で起こっていた。
「そういえばひなさん、家来たらゲームしようって言ってましたよね」
「お、やる?」
「ちょうど僕も食べ終わったんで、お手合わせお願いします」
聞くところによると、ひなさんも相当やりこんでいるらしい。対戦が楽しみだ。
そうして、僕たちは数時間の間、テレビの前で一緒に騒いだ。あの時間が、僕の十七年の人生で、最も誰かに気を許していた時間だったかもしれない。
時間は光よりも早く過ぎた。
*
隣でスマホをいじっているひなさんに問いかけた。アルコールが入っているのに、今日は眠っていない。
「ひなさん、終電って何時ですか?」
現在時刻は午後十時。そろそろ気になり始める時間帯だ。
「え? 帰るの? 明日学校ないんだよね?」
確かに、明日は学校はない。でも、それは帰らない理由にはなり得ない。
「帰りますよ?」
当然のことを言っているつもりだが、自分がなんだか奇妙なことを言っているような雰囲気になっている。
「いや、だってさ、泊まっていくのかと思って」
数秒間、思考が停止した。
「えええええええ!?」
かなり大きめの声で叫んでしまった。あからさまに近所迷惑だ。
「あ、帰るつもりなら全然いいんだよ? でも、昨日布団買っちゃったんだよね」
フトン……? 布団ってそんなに簡単に買うものだっけ?
「マジすか……でもなんか申し訳ないなぁ……」
「ふはは!」
突然、彼女は噴き出した。
「風太くんさ、こんな怪しい女子大生が自分の家に泊まっても何も文句言わないのに、人の家に泊まると遠慮するなんて、変な子だね」
「そうですかね……?」
ひなさんへの迷惑ももちろんあるが、それ以上に道徳的にダメだと思った。
「大丈夫だって。君が私に何かするような人間だとは、微塵も思ってないよ」
信頼されていると受け取っていいのだろうが、僕にはその言葉が、男としてみてはいない、という意味にも聞こえてなんだか複雑だった。
「じゃあ、泊まらせてもらいます……」
渋々返事をした。
「よし決定! 今夜は寝かさないからなぁ~!」
彼女が手に持っているトランプと人生ゲーム、ゲームのコントローラーを目にして、長い長い夜の到来を直感した。
しかし、僕の疲れた体とは対照的に、心は高揚したままだった。




