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リストカットとバニラアイス  作者: 君名 言葉
10/20

第10話 記憶と安心


 ◇


 目の前で繰り広げられたあの光景を思い出す度に、心が痛んだ。

 何の罪もないのに、大怪我をして、傷を負ってしまった風太くん。普通の人なら、もう関わろうとしないはずなのに。

 私と彼しか乗っていない電車の中、恐る恐る隣を見てみた。彼の視線は床に向けられ、笑っているような、怒っているような、それでいて悲しんでいるような表情だった。

 路地裏での乱闘の後、すぐにコンビニで絆創膏や消毒液を買い、駐車場で手当てをした。赤紫になっていた彼のほっぺたは、見るに堪えなかった。


「……風太くん」

 恐る恐る名前を呼んでみる。けれど、返事はなかった。

「……風太……くん?」

「ん……? あれ、何か言いました?」

 考え事でもしていたのか、一回目は聞こえていなかったらしい。

「その……本当にごめんね……」

「何がですか?」

 予想外の答えに言葉が出なくなった。もしや、これは彼なりの怒りなのかと思えるほどだ。

「何って……私のせいでそんな傷を……」

「僕は、僕の意思で行動したんです。たまたま部屋に置いたままだったスマホが録音状態で、ひなさんの声が聞こえて、新保町の居酒屋に行ったって知りました。でも、僕はひなさんに頼まれたわけじゃないです。自分で勝手にやったんですから、謝罪も感謝も要りませんよ」

「あ、だから私を見つけて……」

 そこが疑問だった。なぜ、彼が私の居場所を知っていたのか。

「はい。だから、ひなさんの事情は何も知らないまま、あんな真似をして、殴られました。今考えれば、当たり前ですよね」

 彼が、僅かに視線を下に落とした。


「嬉しかったの」


 私がそう呟くと、彼は意外そうな顔をしてこちらを見た。

「私ね、汚くなりたかったの。君に嫌われたかったんだ。それで、あの建物の中に入っちゃえば、もう二度と会わなくていいかなって思った」

 彼は何も言わない。

「でも、気づいたんだ。私、ずっと、綺麗になりたかったんだよね。汚れたいって思ってる時点で、今の自分は潔白だって思ってるってことじゃない? その考え自体がうぬぼれだったんだよ」

「綺麗になるって……どういうことですか……?」

 彼が知らないのも当然だ。本当は、こんな話はしたくないくらいだ。

「君は知らないだろうけど、高校生の頃は、何もかもが透き通ってるんだよ。今になればちっぽけなものでも、昔はもっとキラキラしてた」

「今のひなさんは、綺麗じゃないんですか……?」

 なぜか申し訳なさそうに尋ねる彼がおかしくて、少し笑ってしまった。

「ふふ。そうだよ。そんなにまっすぐで純粋な気持ちは、もう私にはないんだ。だからこそ、すごく新鮮で、もうちょっとだけ、一緒にいて、その気持ちを分けてほしかったの」

「……」

「君がくれた優しさは、何よりも大事な"愛"に感じられたの。今まで、歪んだ愛しかもらった事がなかったから、ストレートな愛はどうすればいいの分からなかったの。これ以上私がいれば、迷惑をかけちゃう」

 そう言うと、彼がはっとした顔で頭を上げた。


「だから……今までありがとう。風太くん……」


 電車のアナウンスが流れると同時に立ち上がり、決壊しそうな涙腺を必死に抑え込んだ。

 数秒の後、彼が口を開いた。

「ひなさん」

「……なあに?」


「怒っていいですか?」


「え?」

 流れる寸前だった涙が引っ込んでしまった。

 よく考えれば当然だ。今までの迷惑を考慮すれば、一切怒らない人間なんて逆におかしい。

「そうだよね……お願いします……」

 覚悟して、唾を飲んだ。経験したことないほど苦かった。


「僕は、ひなさんが傷つくのが嫌なんです」


「ふぇ?」

 全く予想のつかない彼の言動に、思わず変な声が出てしまった。

「あなたが傷つくのを見ると、なぜか、僕も少しだけ、苦しくなっちゃいます。僕はあなたの空虚な何かを埋められるピースではないってことは自覚してます。でも、ちょっとだけでも笑ってほしくて一緒にいたんです」

 思わず言葉が詰まってしまった。

「あなたはこの後、家に帰って、一人で泣く気でいたでしょう」

 図星だ。涙はすぐそこまで迫っていた。

「ズルいですよ。泣くなら僕も混ぜてください。泣きたいのは僕もなんですから。殴られたところ、結構痛いんですよ。へへ」


 ああ……


 全身の力が抜けた。その場にへたり込む私の目に映ったのは、にへらと笑う彼の表情だけだった。


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