第10話 記憶と安心
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目の前で繰り広げられたあの光景を思い出す度に、心が痛んだ。
何の罪もないのに、大怪我をして、傷を負ってしまった風太くん。普通の人なら、もう関わろうとしないはずなのに。
私と彼しか乗っていない電車の中、恐る恐る隣を見てみた。彼の視線は床に向けられ、笑っているような、怒っているような、それでいて悲しんでいるような表情だった。
路地裏での乱闘の後、すぐにコンビニで絆創膏や消毒液を買い、駐車場で手当てをした。赤紫になっていた彼のほっぺたは、見るに堪えなかった。
「……風太くん」
恐る恐る名前を呼んでみる。けれど、返事はなかった。
「……風太……くん?」
「ん……? あれ、何か言いました?」
考え事でもしていたのか、一回目は聞こえていなかったらしい。
「その……本当にごめんね……」
「何がですか?」
予想外の答えに言葉が出なくなった。もしや、これは彼なりの怒りなのかと思えるほどだ。
「何って……私のせいでそんな傷を……」
「僕は、僕の意思で行動したんです。たまたま部屋に置いたままだったスマホが録音状態で、ひなさんの声が聞こえて、新保町の居酒屋に行ったって知りました。でも、僕はひなさんに頼まれたわけじゃないです。自分で勝手にやったんですから、謝罪も感謝も要りませんよ」
「あ、だから私を見つけて……」
そこが疑問だった。なぜ、彼が私の居場所を知っていたのか。
「はい。だから、ひなさんの事情は何も知らないまま、あんな真似をして、殴られました。今考えれば、当たり前ですよね」
彼が、僅かに視線を下に落とした。
「嬉しかったの」
私がそう呟くと、彼は意外そうな顔をしてこちらを見た。
「私ね、汚くなりたかったの。君に嫌われたかったんだ。それで、あの建物の中に入っちゃえば、もう二度と会わなくていいかなって思った」
彼は何も言わない。
「でも、気づいたんだ。私、ずっと、綺麗になりたかったんだよね。汚れたいって思ってる時点で、今の自分は潔白だって思ってるってことじゃない? その考え自体がうぬぼれだったんだよ」
「綺麗になるって……どういうことですか……?」
彼が知らないのも当然だ。本当は、こんな話はしたくないくらいだ。
「君は知らないだろうけど、高校生の頃は、何もかもが透き通ってるんだよ。今になればちっぽけなものでも、昔はもっとキラキラしてた」
「今のひなさんは、綺麗じゃないんですか……?」
なぜか申し訳なさそうに尋ねる彼がおかしくて、少し笑ってしまった。
「ふふ。そうだよ。そんなにまっすぐで純粋な気持ちは、もう私にはないんだ。だからこそ、すごく新鮮で、もうちょっとだけ、一緒にいて、その気持ちを分けてほしかったの」
「……」
「君がくれた優しさは、何よりも大事な"愛"に感じられたの。今まで、歪んだ愛しかもらった事がなかったから、ストレートな愛はどうすればいいの分からなかったの。これ以上私がいれば、迷惑をかけちゃう」
そう言うと、彼がはっとした顔で頭を上げた。
「だから……今までありがとう。風太くん……」
電車のアナウンスが流れると同時に立ち上がり、決壊しそうな涙腺を必死に抑え込んだ。
数秒の後、彼が口を開いた。
「ひなさん」
「……なあに?」
「怒っていいですか?」
「え?」
流れる寸前だった涙が引っ込んでしまった。
よく考えれば当然だ。今までの迷惑を考慮すれば、一切怒らない人間なんて逆におかしい。
「そうだよね……お願いします……」
覚悟して、唾を飲んだ。経験したことないほど苦かった。
「僕は、ひなさんが傷つくのが嫌なんです」
「ふぇ?」
全く予想のつかない彼の言動に、思わず変な声が出てしまった。
「あなたが傷つくのを見ると、なぜか、僕も少しだけ、苦しくなっちゃいます。僕はあなたの空虚な何かを埋められるピースではないってことは自覚してます。でも、ちょっとだけでも笑ってほしくて一緒にいたんです」
思わず言葉が詰まってしまった。
「あなたはこの後、家に帰って、一人で泣く気でいたでしょう」
図星だ。涙はすぐそこまで迫っていた。
「ズルいですよ。泣くなら僕も混ぜてください。泣きたいのは僕もなんですから。殴られたところ、結構痛いんですよ。へへ」
ああ……
全身の力が抜けた。その場にへたり込む私の目に映ったのは、にへらと笑う彼の表情だけだった。




