第1話 リストカットとバニラアイス
「私ね、夏が来る度、死にたくなるの。こんなにも爽やかなのに、こんなにも切ない。やりきれないと思わない?」
唐突に、ひなさんの言葉を思い出した。あの頃は理解ができなかったけれど、今なら分かる。この言葉こそが真理で、彼女こそが本当だったんだ。
あの日見た入道雲のように、今はここにいない。いつの間にか儚く消えてしまったのも全て、夏のせいだ。
◆
「溶ける……」
思わず口から本音が漏れていた。
最高気温が40度を超え、もはや温帯とも呼べなくなってきた日本。その中でも首都、東京は、ヒートアイランド現象の影響を受け、異常なまでの気温を記録していた。
熱中症のニュースが絶えない日々。微かな抵抗をしようと、先程コンビニで買ったバニラアイス二個も、殺されてかけている。ただ「暑い」と「死ぬ」を連呼するしかなかった。
僕、染谷 風太は、太陽を恨みながら電車を待っていた。
都内の、そこそこの高校に通っている17歳だ。そこそこと言えども、進学校らしく夏休みの補習は用意されており、午前中は授業がある。休みとは名ばかりの七月二十六日だった。
暑さに耐え切れず、どこか涼めるところへ行こうと決意した瞬間、電車がホームに入って来た。今の僕には、走るクーラーにしか見えない。
シューッと扉が開き、足元をひんやりした空気が伝ってくる。なんとも言えない快感だ。
平日の昼で、乗客はそんなに多くはない。運よく座ることが出来たので、おもむろにスマートフォンを取り出し、SNSを起動する。
画面に表示された、同級生の楽しげな投稿が目についた。
『今日はリカとカラオケ! 夏休み入ってから遊びっぱなし! これからもよろしくね!』
遊んできたという報告と、彼女らの自撮り写真を投稿している。もしかして、と思い、画面をスクロールすると、案の定、タピオカミルクティーの写真も付いていた。
こういった類の投稿を見る度に、「誰がこの投稿を望んでいるのだろう? もはや文化として根付いているのではないか」と謎の視点で慮るが、ならば自分が投稿を見なければいいという結論に至り、結局画面を消して鞄にしまうだけだった。
「はあ……」
訳も分からず溜息が出る。人生がキラキラしている人間を見ると必ず考えてしまう。自分の人生とはなんなのだろう。こんな風にずっと生き続けるのか。しかしそれも結局答えは出ず、自己嫌悪に陥るだけだ。
別に、友達がいないわけではない。クラスメイトとは仲良くやっているつもりだし、たまに遊んだりもする。けれど、それだけでは、空白の何かを埋めることはできない。
くだらない考えを巡らせている間に降りる駅に着こうとしていた。今からまたサウナに飛び込むと思うと、足は容易に動いてはくれなかった。
プシュー、と間抜けな音を出して乗客を吐き出す電車がどこか滑稽に思えて、心の中で少し笑った。ちょっとだけ心が軽くなった気がした。
涼しかった電車内のお陰で、滅亡しかけていたバニラアイスは耐えていた。ちょうど風に当たりたかったので、近くにある、ちょっとした展望台に向かうことにした。
東京と言えども、家は郊外にある。いくつかの郊外には、低い山に展望台がついた、お洒落スポットなんかもあるのだ。
親は、仕事の都合上、福井に住んでいる。高校生になって引っ越すことになったが、東京を離れたくないと粘り続けた僕は、とうとう家賃四万円、風呂付き、トイレ付きの古アパートで一人暮らしをするという条件の元、東京に留まることができたのだ。前の家よりは確実に狭いが、一人暮らしにも慣れ、今は大いに楽しんでいる。
「ふぅ……」
少し昔のことを考えながら、頂上へと続く階段を登った。蒸し暑いのは間違いないが、木陰がこんなにも気持ちいいと知らなかった僕は、思わず感嘆の声を漏らした。
登っていくにつれ、体温は上がってきたが、空気はだんだんとひんやり感じられ、非常に心地良い。
山登りなんて全然しないけど、悪くないな。山登りと呼べるほどのものでもないけど。
あと三段……二段……一段……
「よっし!」
最後まで登りきった。十五分ほどの運動で、汗すらも気持ち良く感じる。展望台のインテリアの一種として設置された東屋でアイスを食べようと、鼻歌まじりに近づいていく。
ガタッ
「へっ!?」
突然、何かが動く音がした。まさか誰かがいるとは思わず、みっともない声が出た。
もしかしたら動物かもしれない。いずれにせよ、注意しよう。
そう思いながら、恐る恐る東屋のベンチを覗く。
まず目に入ったのは、南国の風景がプリントされたTシャツ。次に、地べたに座り、ベンチに寄りかかる人間が見えた。
寝てるのか……?
そろりそろりと距離を詰めていくと、それが、若い女性だと分かった。肌は透き通るように白く、魅力的で美しい唇に少しドキッとした。所々、青に染められた髪の毛が風になびかれている。
声をかけようと、正面に回り込んだその時だった。
彼女の左腕に視線が奪われ、体が動かなくなった。
そこには、痛々しい無数の切り傷があった。
手首から肘辺りまで、見るに堪えない赤い線の痕。その中の幾つかは、まだ血が出ている。
どろりと流れる鮮血の赤色は、僕にめまいを引き起こし、くらくらする血の匂いは、鼻から侵入して喉を鷲掴みにしたまま放さない。もしかしたら、匂いは僕が創り出した幻覚だったのかもしれない。
捨てられたように置かれたカッターナイフは、地面に冷たく固まっていた。
た、助けなきゃ。
雑多な思考より、本能が働いた。硬直していた僕の体は、一秒ほど経ってから動き出した。
「だ、大丈夫ですか?」
声が震えてしまう。普段から小さめの僕の声が、今は更に小さい。
「……」
反応はなかった。聞こえていないのか、意識を失っているのか。後者だとすれば一大事だ。
しかし、この状況で大声を出してはいけないのは分かっている。この女の人をビックリさせて、何か非常事態が起ころうものなら大変だ。
数秒間迷った後、僕は傷のない右手を取り、軽く握った。そして、さっきよりも僅かに大きめの声で声をかける。
「大丈夫……ですか?」
数秒間、沈黙が流れた。ダメだったかと諦めの気持ちが過ぎった瞬間、彼女のまぶたが薄く開いた。
「ん……」
吸い込まれそうな程、美しい目だった。心なしか、それは青い色を帯びていた。
「大丈夫ですか?」
また声をかけ、意識を確認する。
「誰……?」
会話は出来ていないが、意識はあるようだ。安心して、握っていた手をそっと元の場所に戻した。
しゃがみながら、しばらく彼女の様子を見守る。
「あ、そうか、私……」
どうやら何かを思い出したらしい。
「救急車、呼ばなくていいですか? 必要なら今から走って山を降りて、呼んできますよ」
まだ虚ろな目をしている彼女に尋ねた。あまり血は出ていないので、一刻を争う事態ではないと思うが、病院に行ったほうがいいのは確かだ。
「いや、いいよ。こんなんじゃ死ねないって、分かったから」
彼女の言葉に、すごく引っかかった。
「……死のうとしてたんですか?」
「当たり前じゃん。それ以外に自分の腕を傷つける理由がある?」
「まあ、そうですけど……」
どうやら彼女は大丈夫そうだったので、ベンチに腰掛け、持っていることを忘れていたコンビニの袋からバニラアイスを取り出した。
「ちょうど、二つあるんです。一つどうぞ」
「いらないよ、そんなの」
膝を抱えて座り込む彼女の頬に、アイスをくっつけた。
「きゃあ!?」
「じゃあ、お願いです。二つも食べたらお腹を壊しちゃうので、一つ食べてくれませんか?」
急に頬が冷たくなって驚く彼女を軽く笑い、お願いへと言い方を変えた。
「じゃあ、なんで二つ買ったのよ」
ふふ、と笑った彼女の顔を見て、心から安堵した。渋々ながら、パッケージを開き、木のスプーンを刺している。
「本当に暑いですね。こんな日は風にあたりながらアイスを食べたいと思って、ここに来たんですよ」
ただただ思っていたことを口に出したが、返答が案外冷淡だった。
「勝手に話しかけないで。何も知らないくせに同情なんかいらないよ」
恐らく自分より年上だろう。髪を染めているので大学生くらいだろうか。自分の方が年下なのに、まるで子供を扱っているみたいだった。
「じゃあ、今から独りごとを言いますね。適当に聞き流してください」
「……」
「この東屋、自分の住んでいる街が一望できるし、涼しい風に揺られて鳴る葉の音とか木々の音がなんとも素晴らしいですね。関係ないけど僕の名前は染谷 風太って言うんですよね。高校二年生らしいです」
彼女は、僕の独り言を黙って聞いていた。嫌々だったのに、僕よりアイスの減りが早いのが、なんだかおかしかった。
「両親は福井で開業医をしてます。本当は僕も付いて行く予定だったんですけど、どうしても東京にいたくて、今は一人暮らしです。勉強にはうるさいけれど、最低限のお小遣いはくれるし、良い親だと思います。夕凪荘って言うんです。お洒落な名前のアパートですよね」
口に出してから、個人情報を垂れ流していることに気づいたが、特に問題はないと思っていた。彼女は相変わらず何も言わなかったが、ちょっぴり笑っているような気がした。
ようやく自分のアイスを食べ終え、バニラの甘さと匂いが広がったまま、ベンチから立ち上がった。
「じゃあ、僕は行きますね。これは預かっておきます」
落ちたままの黄色いカッターナイフを拾い上げ、鞄に放り込んだ。
「あっ」
玩具を取り上げられた幼児のようなポカンとした顔をしている彼女を横目に、階段のある方に足を向けた。
少しかっこつけたかったというのもある。だって今は夏だ。それくらいは許されるだろう。
このまま何も起こらず、彼女とは二度と会う事はないだろうと思っていた。
そんな時、彼女に向けた背中に、微かで消え入りそうな声が届いた。
「あの」
何も言わずに後ろを振り返った。足を横に崩して、ベンチにもたれているのが見えた。
「高嶋 ひな。これが私の名前」
お礼を言われるのかと思ったが、違う。ただ名前を伝えられただけ。けれど、なぜかその方が暖かく感じた。
「ひなさん、ですね。付き合っていただいてありがとうございました」
それ以降返事がなかったので、当初の予定通り、元来た階段を降り、そのまま夕凪荘に帰った。
帰っても誰もいないという、一人暮らし特有の寂しい気持ちも、その日だけはなかったような気がした。