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カペ谷ベル子のベース  作者: 泉野 戒
3曲目 俺もベル子も特別じゃない
7/18

3-2

雨の音が聞こえる。


しとしと、しとしとと。


日はまだ高いのに薄暗くて、だけど、灯りを点ける気にはなれなかった。手には小説。もはや癖みたいなものだ。読んでないときでも読む気がないときでも小説を持つ。ちょうど今が、そんな感じだった。


窓の外をぼーっと眺めながら、何を考えるでもなしにただ過ごす。それがここ最近の、俺の日課だった。


「マダオ、大丈夫……?」


いつの間にか隣に姉がいた。心配そうな瞳が、俺を覗き込んでいる。


何が、とは聞かなかった。こんな風に姉が心配してくるのは、この3日間で何度もあったことだから。


「だから、大丈夫だって」


「…………そう……」


そう言って、姉はキッチンのほうへと引っ込んでいった。


いつもはしつこい姉には珍しい引き際の良さだ。それだけ、本気で心配されてるってことなんだろう。けど……


「ほんと、何もなかったんだけどな……」


何もなかった。


それはもう拍子抜けするぐらい、何もなかった。あの昼休み以来、俺とベル子の間には何もなかった。会話も目配せもすれ違いさえもなかった。


俺はベル子のほうを見ないようにしていたし、ベル子が俺に話しかけてくることもなかった。最初はかなり意識していたが、だんだん自然体でこなせるようになってきた気がする。


ベル子のほうから話しかけてくることも、もちろんなかった。きっと俺たちの関係はこのまま自然消滅していくんだろう。


きっと、それでいいんだ。


別に珍しいことでも何でもない。何年も続く友情なんてそうそうないし、喧嘩したからって仲直りするとは限らない。そもそもあのやり取りを喧嘩と呼んでいいのかどうか疑問だし、俺たちの間に友情があったのかどうかすら疑わしい。


だから俺は、何ともない。


無かったものは無くならない。ショックも喪失感も無い。


何も無い。


「…………」


ページを捲る。


次に開かれたページはセリフが少なめだった。文字の洪水が、少し重い。そのせいだろう。俺の心も少し、重かった。


「ふぅ……」


本を閉じた。ろくに読んでないにしたって、手に持つのはもう少し軽めの本にしたい。ただでさえ悪天候で薄暗いのに、これじゃあ心まで暗くなってくる。


俺は立ち上がって、階段へと向かった。


そのとき、インターホンが来客を告げた。ちょうど、俺が玄関の前を通るタイミングだった。


ミスった、と思った。運が悪いというか。


もともと俺はコミュ障気味だし、ましてや今は誰かの相手をしたい気分じゃない。もしもさっきのソファに座った状態なら、来客の対応は姉に任せて知らんぷりできたのに。


さすがに玄関まで数メートルのこの位置で素通りは気が咎める。俺はため息をつきつつも、サンダルを履いてドアノブに手をかけた。


そして開いた、ドアの向こうに立っていたのは――


「え……」


ベル子、だった。


傘を持たず、濡れそぼったベル子がそこにいた。


いつも着ているカーディガンが、まるで別の服みたいに重く垂れさがっている。上から打ちつける雨を厭う様子もなく、そんなことしても無駄だというように、ただぼーっと突っ立っている。実際、ベル子は全身余すところなくずぶ濡れだった。


「――――」


呆気に取られたのは、一瞬。


「な、なにやってんだよお前!」


俺はすぐにベル子の腕をつかみ、家のなかへと引きずり込んだ。ドアを閉め、すぐにベル子に向き直る。


つかんだ腕が冷たくて、少し震えている。唇は紫色で、肌もいつもより青白い気がした。


「お前、傘は⁉ いったいいつから外に……」


「あなたが、来ないから」


「お、俺⁉」


「来ないから。待ってたのに」


「来ないって……」


どこに、と聞きかけて、気づく。ベル子が俺を待つとしたら、そんな場所は一つしかない。秘密基地だ。


だけど……待ってた?


「昨日も、おとといも、待ってた。今日は、朝から。でも、くらまくん来ないから」


「……ッ! 別に、俺は……!」


あの場所に行くなんて、一度も、一言だって、約束してない。


そう言おうとして……だけどその言葉は、ベル子の顔を見ただけで喉の奥へと引っ込んでいってしまった。


「…………?」


ベル子の、その顔。


俺があそこへ行くのが当たり前だと思っている顔。俺を信じきった顔。


その顔を向けられることが、その気持ちを向けられることが、後ろめたくて、申し訳なくて。


俺は、言葉が見つからない。


「くらまくんは、ヒマなんでしょう?」


「…………」


「ヒマでヒマで仕方がないから、ヒマつぶしにあそこへ来ていたんでしょう?」


「…………」


「ヒマ人のくらまくんが、この3日に限ってヒマじゃなかったなんて、そんなことあるはずない。だって、くらまくんヒマ人だもの。ヒマ人だから、わざわざ家に行かなくてもヒマつぶしに来てくれるって、信じてたのに。こういうときに来てくれなかったら、くらまくんがヒマな意味なんて、ないじゃない。だいたい、くらまくんはヒマで、ヒマな、ヒマの、ヒマによる、ヒマのための、ヒマヒマヒマヒマ……」


「あああああ! ヒマヒマうっせえよ! バカにしてんのか! バカにしてんだな⁉」


「ヒマ?」


「鳴き声か!」


「マダオー? 誰か来てるのー?」


そこで、キッチンのほうから姉が顔を出した。


「あ、姉貴。えっと、今……」


と、事情を説明しようとしたところで、俺もいまひとつ事情を呑み込めていないことに気づく。


俺が秘密基地に行かなかった。だからベル子は家に来た。そこまではわか……らない。なんでだよ。それは理由になってない。もっとちゃんとした理由があるはずだ。もっと別の、俺に話したいこととか。


だがそんなことを俺が考えるよりも、姉の目線がベル子へ向くほうが早かった。


「あれ? ベルちゃ……ん……」


姉の言葉は、そこで途切れた。


震える両手で口元を覆い、目を見開いてこっち(たぶんベル子のほう)を見ている。その顔はいつになくまっかっかだ。


「…………?」


反応が変だ。


確かにずぶ濡れのベル子は無反応で済ませられるような状態じゃないが、この反応はなんか違う。


違和感を突き止めるべく、俺はもう一度ベル子の姿を確認しようとして……


「ま、マダオ! 見ちゃダメ!」


直前、姉の制止が入った。


が、遅かった。


俺の顔は既にベル子のほうへ向いていて、そして、今度は見た瞬間に気づいてしまった。本当に、なんでさっきまで気づかなかったのか不思議なくらい、明らかな事実だった。


雨にずぶ濡れの、ベル子の姿。さっきは濡れたカーディガンがいつもより重そうだぐらいの感想しか持っていなかったが、もう一つ、気にすべきところがあった。いや、気にしてはいけないところと言うか。


カーディガンも、シャツも、ショートパンツも。秋口にしては薄着なベル子の服が、雨でピッタリと、ベル子の肌に張り付いていた。


服越しでもわかる、ベル子の肢体。その曲線。


うっすらと透けたシャツは、中の黒と肌色が見て取れた。改めて意識するとどうしようもなくアレな、ベル子の姿だった。


俺の視線を受けて、ベル子は脚をきゅっと閉じた。前にもこの仕草をしていたが、どうやら恥ずかしいときの癖らしい。そしてその仕草が、またさらに……


「マダオーーっっ‼」


そんな俺の年頃な思考は、走り込みつつ放たれた姉の延髄切りによって遮られた。というか、意識が遮られた。


「――――」


声をあげることも受け身を取ることも叶わず、俺は玄関の上に倒れ伏す。頭をぶつけたらマズイと思ったのか、そこだけはベル子が受け止めてくれた。足で。


「ど、どうしたのどうしたのベルちゃん! どうしてそんな……と、とにかく、はやくお風呂に!」


「うん……でも、これ、いいの?」


「いいのっ、そんな変態は! ほらはやくはやく!」


ベル子と姉のそんな声を頭の上に聞きながら、俺はゆっくりと意識を落とした。




で、すぐ起きた。


すぐ起きた気がしただけで実は日付が変わってましたってなパターンでもなかった。脱衣所から出てきた姉に確認したから間違いない。


「お風呂、覗いたらダメだからね」


ジト目で釘を刺してくる。どうもさっきの一件で警戒レベルを高めてしまったらしい。


「するワケねえだろ。ラノベじゃあるまいし」


現実世界で覗きなんかして、もしそれがバレでもした日には良くて絶交、悪ければ少年院送りまである。いくら見たくてもそこまでバカにはなれない。ラッキースケベですら、場合によっては関係にヒビが入りかねないってのに。


「そうだよねー。透けてる下着をガン見なんてされたら、普通はその人のこと嫌いになっちゃうよねー」


「うぐっ……」


ガン見ってほど見てたつもりはないけど(その前に姉に落とされた)、確かにさっきのでベル子が機嫌を損ねててもおかしくない。


参ったな。ただでさえ、今はベル子と喧嘩してる真っ最中だってのに……


「…………」


喧嘩。


ベル子がインターホンを鳴らすまでは、あれは喧嘩じゃないと思っていた。喧嘩ですらない、喧嘩なわけがないと、頑なに考えていた。


だけど、今。


ベル子とほんのちょっと話をした今では、あれは喧嘩だったのかもしれないなあなんてすんなり納得できてしまいそうな自分がいる。


その上で、疑問に思う。


――あれって、喧嘩だったんだよなあ?


どっちなんだよと我ながらツッコミを入れたくなるが、実際よくわからなかった。


俺たちは喧嘩してるはずだ。教室で無視されただけとは言え、あの瞬間ベル子が俺に腹を立てていたのは間違いない。……と、思う。


だとしても、さっきのベル子はなんなんだろう。


まるで何も気にしてないみたいに……というか、気にしてないんだろう。いくらなんでもそこまで裏表があるタイプじゃないはずだ、ベル子は。


そういえば、おとといにはもう秘密基地で俺を待ってたって言ってたっけ。てことは喧嘩した次の日にはもう機嫌が直ってたってことになる。いや早すぎだろ。そのころ俺はまだベル子を意識しないようにって意識しまくってたころだ。


ひょっとすると俺が意地になってただけで、ベル子はほとんど気にしてなかったとか? だとしたら……なんだ。ものっすごいこっ恥ずかしいな。


いや、怒ってもいいところだとは思うんだ。ベル子の不機嫌に振り回されたわけだから。だけど不思議とそういう感情は湧いてこない。ただただ、気恥ずかしかった。


あと、ちょっと安心した。


少なくとも、今のベル子は怒ってない。それがわかっただけで気が楽になる。俺ってヤツはそうとう単純だ。


「……マダオ、元気になったね」


そう言う姉の顔には、安堵の笑みが浮かんでいた。よっぽど心配させてたんだなということが、その顔を見ただけでもわかる。


「だから言ったでしょ? 早くベルちゃんに会いに行きなさいって。それで仲直りできるって」


「言ったっけ……?」


「言ったよ! 何度も何度も!」


もうっ、と頬を膨らませる。そう言われてみれば、言われたような気もする。何度もってのはさすがに嘘だろうけど。


「もう大丈夫だと思うけど、今度はちゃんとお話するんだよ。それで仲直りするの。マダオみたいなものぐさと友達になってくれる子なんて、滅多にいないんだから」


「ものぐさっていつの時代の言葉だよ……」


「返事っ!」


「ふぁーい」


よしっ、と腰に手を当てる姉。


内心、ありがたかった。意地になった俺を変に焚きつけるでもなく、見捨てるでもなく、ただ見守っていてくれたこと。


今になって思えば、姉がいてくれたからこそ俺は平常を保てていたんだと思う。喧嘩はしてないだとか、そんな風に強がっていられたんだと思う。


改めて実感する。俺は姉に甘やかされていた。その甘やかしに、助けられていた。


「……サンキュ」


リビングへ向かう姉の後ろ姿に聞こえないように礼を言って、俺は2階の自分の部屋へと向かった。


「あ、マダオ、まって!」


階段を中ほどまで上がったところで、呼び止められた。リビングのほうに顔だけ覗かせると、姉も似たような感じで顔を突き出していた。


「ベルちゃんの家に電話しておいてくれない? 親御さんが心配してるかもしれないから。――そんな嫌そうな顔しないで」


そう言われても、嫌なものは嫌だ。姉に感謝はしてるけど、それとこれとは話が別だ。


同級生の女の子の家に電話する? この俺が? で、なんて言うんだ。お宅の子は今ウチでシャワー浴びてますってか。なんの事前報告だ。


「大丈夫、ちゃんと説明すればわかってくれるよ。それに私は今からベルちゃんの着替え見繕わないといけないから……マダオの服を着せるわけにもいかないでしょ?」


まあ確かに、濡れた服の代わりは必要だよな。


にしても、ふむ。俺の服を、ベル子に、か……




『これ、くらまくんの服……?』


『……くらまくんの、匂いがする』


『ううん、これでいい。この匂い、なんだか落ち着く……』


『だけどなんだか……むずむずする。変な、かんじ。なんか、だんだん……』




「ま~だ~お~?」


「おっと……」


しまった。妄想が顔に駄々洩れだったか。姉がジト目に、冷や汗が流れる。


「もうっ。とにかく、電話しておいてね。番号は家の電話に登録してあるから」


よろしくね、と言いおいて、今度こそ姉はリビングへと引っ込んだ。


さすがにここで頼みを無碍にするというわけにもいかない。仕方なく俺は階段を下りて、受話器を手に取った。


渋々の嫌々ではあったが、ただ、俺個人的にもベル子の母親とは話したいことがある。


それは、ベル子のベースのことだ。


元々、ベル子の母親がベースを認めていないのが事の発端だった。それが俺たちの喧嘩に繋がったんだ。


ベースを母親に聴かせられなかったのか、それとも聴かせた上で芳しい反応が得られなかったのか……なんにせよ、一度ベル子の母親から話を聞いてみたいと思っていた。


ベル子の知らないところで母親に探りを入れるなんてのはあんまりしたくはないが、話す用事があるんだったら、それを聞かないわけにもいかない。


「……よし」


俺は意を決してアドレス帳ボタンを押し、いつの間に登録されたのか謎なベル子の家の番号に電話をかけた。


『――はい、もしもし』


電話口の向こうから、女性の声が聞こえた。


透き通った、どこか無機質な感じのする声。直感で、このひとがベル子の母親に違いないと思った。


緊張がいや増していくのを自覚しながら、俺は口を開く。そして、


「みょ、みょひもひっ」


盛大に、噛んだ。


「…………」


……なんてこった。そうだ、忘れてた。俺ってばコミュ障だった。


やばいぞ、どうにかして取り返さないと。


「え、ええとあのその、ベル子が、ベル子がですね? その、うちに来ててそれで、あ、じゃなくてベル子さんが、その、えっと、あ、実は雨がふってて、それでベル子……じゃなくてベル子さんが……」


いやいやいやなんでこんなしどろもどろなんだ俺は。いくらなんでもここまでのコミュ障じゃなかったはずなんだが。


え、なに。俺ってここまで緊張してたの? 嘘、ありえない。電話が始まってから気づくところが更にありえない。


『あの……どちらさま、でしょうか?』


そういえば名乗ってなかった!


「はい! すみません! 私決して怪しい者ではなくてですね」


あ、これ怪しいヒトが言うヤツだ。


「わ、わたくしは倉間マダオと申します! ええっと、ベル子さんとは……と、友達? 友達をさせていただいておりましてですね……」


『ああ、ベル子から聞いています。くらまくんさん、ですね』


「は、はい! そのくらまくんさんです!」


いや、くんは要らないんだけどな?


ただ、なんていうか、その『くらまくん』の言い方にどことなくベル子を感じてしまって、俺は思わず頷いていた。


『私は、ベル子の母です。ベル子から聞きました。ベル子のこと、好きだって言ってくださったそうですね』


「いや、ベル子のベースが、ですけどね?」


ここはさすがにツッコんだ。そこを勘違いされるのは問題だ。いや別に嫌いじゃないけど、それでもな?


にしても、なんだろう。思ってたよりも感じの良い人だ。ベル子のベースを認めてくれないっていうからもっとキツイ感じの人を想像してたんだけど。


『それで今日は、どういったご用件でしょう? ベル子は今……ああ、そちらにいるんでしたね。どうか、なさいましたか?』


ベル子によく似た声。


どこか浮世離れしたようなゆったりした話し方も同じで、違うところと言えば、ベル子よりも人懐こそうな、人当たりのよさそうなところだろうか。聞いていて安心感のある声だ。それでいてどこか頼もしさも感じる。


そういえばベル子、言ってたっけ。


お母さんのこと、好きだって。


「…………」


いつの間にか、緊張はほぐれていた。


ベル子のベースのことがどうなったのかを誘導して聞き出そうなんて企みも、霧散した。この人には、素直に話そう。そう思わされた。ここまでの、ほんの二三言の会話だけで。


息を吸う。


「――実はついさっき、ベル子がうちに来まして……」


出した声は、今度は上ずっていない、支離滅裂でもない、ちゃんとした言葉になっていた。


俺は話した。今日のことを。そして、俺とベル子が会ってから、今日までのことを。




ベル子のお母さんは、俺が話し終えるまで口を挟まなかった。あまりにも静かなんで聞いてるのか不安になったが、俺はぐっと堪えて最後まで話し切った。


「――それで俺は、あの日ベル子が、あー……その、機嫌が悪そう、だったのは、ベル子とお母さんの間で何かあったんじゃないかって思ってるんですが……」


『そうですね』


不意の応答。受話器が自分の役割を思い出したかのようだった。


『たぶん……そう、ベル子があなたの家で食事を呼ばれた、次の日だと思います。あの子が、ベースを聴いてほしいって、言ってきたの。曲を弾くから、聴いてほしいって。


時間もまだ早かったし、一曲ぐらいならって、弾かせたんです。――うちはご近所に少し繊細な方がおられるから、普段は、家で楽器は弾かせてあげられないんですが。


ただ、その……私は、音楽がよく分からなくて。だからそのとき、ベル子にも言ったんです。聴いても、何も言ってあげられないって。


それでもあの子が、聴いてほしいって。聴いてくれたら、わかるからって。いつもは、あんなに主張の強い子じゃないんですが。


でも。そう、だったんですね。あなたが、ベル子を……』


そのあとに続く言葉は、なんだったんだろう。


俺が、ベル子を。


褒めた、なのか。励ました、なのか。


それとも……


『私は、あの子の演奏を聴きました。上手だと思いました。だから、言ったんです。上手だったって。でもあの子は、何か違うような顔をしていて……』


あの夜、俺はベル子に言った。ベル子のベースを聴いて感動しないわけがないって。本気でそう思って言った。今もそう思ってる。ベル子のベースにはそれだけの力がある。


なのに、この人は……『上手だと思いました』。


それだけか? それだけの感想しか、抱けないのか?


『ごめんなさい。私、本当に音楽はわからないんです。何かあるのかもって、一所懸命、聴いたんです。でも、わからなくて……』


この人は真摯だった。ベル子に対しても、俺に対しても。


当たり前だ。ベル子の母親なんだから。ベル子の好きな母親なんだから。いい人に決まってる。


だからこれは、悪意とか、嘘とか、偏見とかじゃないんだ。


本当に、伝わっていない。


ベル子のベースが、この人には届いていない。


『正直にお話すると、くらまくんさん。あなたのこと、少しだけ、恨んでいます。あなたが、あの子のベースを好きだって、そう言わなかったら。あの子はきっと、私にベースを聴かせようとは、しなかったはずなんです。あなたが、あの子と出会わなかったら……』


「…………」


『私は、あの子のあんな顔、見なくてすんだのに……』


それがどんな顔なのか、俺には想像もできない。いつも無表情なベル子の、悲しそうな顔なんて。


想像もできないが――俺が、ベル子を悲しませた。


その言葉が、その事実だけが。


俺の胸を、きつく縛り上げていた。




受話器を置いて間もなく、脱衣場の戸が開いた。


そこから、ベル子が姿を現す。頬はほんのりと上気して、髪はしっとりと濡れていた。


いつもと違う服。いつもと同じ無表情。


その吸い込まれそうな瞳は、まっすぐに俺へと向けられていた。


「――――」


言葉が、出ない。


事情を知ってしまって……その原因が、紛れもなく俺だったという事実を突きつけられて。


言うべき言葉が、見つからない。


謝れば、いいんだろうか。だけど、謝るってことは間違いを認めるってことだ。ベル子のベースには感動しないって、大したことないって、認めるってことだ。それは違う。それは嫌だ。


俺は間違ってない。本当の本当に、感動したんだ。


大好きなんだ、ベル子のベースが。


それは絶対に、嘘なんかじゃない。


「くらまくん」


ベル子は無表情だった。まるで何も気にしていない、気にかけていないかのように。


だけど、本当にそうなのか? 大好きな母親に認めてもらえなくて、期待を裏切られて、それで何も気にしてないなんてこと、ベル子に限ってありえるのか? あれだけベースに全てを賭けていた、ベル子に限って。


俺には、ベル子の考えてることなんてわからない。


事情を知った今でも、それは同じだった。


「話したいことが、あるの」

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