2-2
「いいか倉間青年よ。私は手荒な真似はしたくないが、君の進路は君の手にかかっているのだ」
「そのセリフは生徒の襟首ひっぱりながら言うセリフじゃないと思います、先生」
「今は無駄に思えるかも知れないが、いずれ君も英文を前にこう言える日が来る。『読める、読めるぞ』と」
「それが言えることの良さが俺にはよくわかりません、先生」
「そして用済みになったプリントに火をつけながらこう言うのだ。『見ろ、紙がゴミのようだ』」
「それはゴミのようじゃなくて普通にゴミだと思います、先生――ところで」
「なんだね倉間青年」
「先生はご存知でしたか。実は1ヶ月後に、文化祭が開催されるんですよ」
「もちろん。君こそ、私がこの学校の教師であるということをお忘れなく」
「やあ、これは失礼しました。それでですね先生。俺、文化祭ってすごい青春だと思うんですよね」
「うむ、続けたまえ」
「仲間と仲間で力を合わせて何かを創りあげる。たった1日にすべてのエネルギーを注ぎこむ。時には喧嘩して、挫折して、それでも立ち上がって突き進む。そんな日々は、これ以上ない青春の1ページだと思いませんか」
「異論はない」
「ですよね! それじゃあ今は補習なんてしてる場合じゃ……」
「却下だ」
「…………」
「さあ、無駄話は終わりだ。覚悟を決めたまえ。今や君は、黒板の前にいるのだ」
* *
「くそぅ……あの鬼畜中二病先生め……」
町向こうへと沈んでいく夕陽を睨みながら、ひとり悪態をつく。解放された今になっても、先生のキザったい発音の英会話が頭のなかでリピートされてる気がする。
結局、下校時刻ギリギリまで補習させられた。廊下の向こうから文化祭準備の楽しそうな声が聞こえる中で、だ。
まあ、ここまで補習から逃げ続けてた俺が悪いんだし、それに仮に補習なんかなくても、俺は文化祭の準備なんてしなかったと思うけど。
「ベル子、まだいるかなぁ……」
補習で疲れきったこの心、せめて少しは癒されたい。そう願いながら俺は足を秘密基地へと向けた。
もちろん、ベル子本人にじゃなくてベル子の音楽に癒されるわけだけど。そこはくれぐれも勘違いしないでもらいたい。
歩き慣れた森。木の形さえ覚えてしまったその道なき道を、俺は耳を澄ましながら歩いていた。
ここまでくれば、秘密基地の広場までは秒読みだ。しかし森は変わらず静寂を保っている。となれば、ベル子はもう帰ってしまったのか。残念だ。
残念とは思いつつも、進める足は止めない。せっかくここまで来たんだし、もしかしたら帰り際のベル子と会えるかもだし……っていやいや、別に俺はベル子に会いに来たわけじゃないんだってば。
と。
いよいよ目的地に近づいてくると、音楽とは別の何かが聞こえてきた。これは……話し声?
ひとりはベル子だろうけど、もうひとりは誰だろう。まさかベル子の独り言ってことは……ありそうで怖いな。
いや、違うか。ちゃんとベル子じゃない声も聞こえる。
ん? あれ? でもこの声、なんか聞き覚えが……
まさか、いや、そんな……
「あ、マダオ、おかえりー」
「うっす、ただいま姉貴……って、いやいやいやいや」
慌ててツッコむ。ちなみに場面は飛んでない。いま俺がいる場所は間違いなく秘密基地だ。
秘密基地に、姉がいた。ベル子と向かい合って、自然な距離感で座っている。あまりの自然さに一瞬ツッコミを忘れかけた。
「おかえり、なさい……?」
「ベル子。変に姉貴に合わせようとしなくていいから」
「へぇー。マダオったら『ベル子』って呼んでるんだね。だいたんー」
「違うそんなんじゃない。ただ最初苗字がわからなかったから名前で呼んだだけ……ってそんなことよりも!」
俺は切り株に腰かける姉にどしどしと歩み寄ると、そのセーラー服の襟を持ち上げた。
「やー、シワになるー」
なんでちょっと嬉しそうなんだよ。
「おい姉上よ」
「なにかな弟君よ」
「なんでお前がここにいる?」
「…………面白そうだったから?」
「処刑」
「やーっ」
だからなんでちょっと嬉し(以下略)
「…………」
「あっと、悪いベル子」
所在なさげなベル子に向き直る。俺としたことが、姉ごときを相手にしててベル子を放置してしまうとは。
「えっとだな、こいつが前に話した、『一応』姉の、スグミだ」
「一応じゃないよ! ちゃんとお姉さんだよ!」
「そんな子供みたいに駄々こねられても説得力ない」
「むーっ! ちゃんとワサビ食べれるようになったんだから!」
その発言からして高校生のするような発言じゃないんだよ。
とまあ、そんなことは今はどうでもいいんだ。姉が姉だろうと兄だろうとヤニだろうとどうでもいい。
俺は、姉貴にずずいっと歩み寄った。
「それで?」
「ん?」
「そ・れ・で?」
「ちょ、近いよマダオ……や、やめてよこんなところで……」
なぜ頬を赤く染める。俺としては迫力を出したつもりなんだが。
「ベル子に何を吹き込んだ?」
「え? ふきこむ?」
「ベル子とどんな話をしたかって聞いてるんだ」
「え、え? そんなこと、聞かないでよぅ。もう、女の子どうしの話を聞き出すなんて、マダオったらデリカシーないんだからぁ」
もじもじとそんなことを宣う姉。
なんか知らんが、腹が立つ。
「処刑」
「やーっ」
この『処刑』が一体なにをしているのか、それをここに記すことはできない。それほどまでに残酷な所業であるということだけは明記しておこう。
「仲、いいのね」
おいベル子。なぜそうなる。
「えへへへー」
姉貴はなんで照れてるんだ? もっと恥ずかしいことされたいのか? ん?
「…………チッ」
よくわからないが、妙なことを吹き込んだわけではないらしい。
もしこの状況を第三者が見れば、『何をそんなに心配することがあるんだ?』と思われるかもしれない。だが、わかってくれ。この姉は普通じゃないんだ。俺の黒歴史の10や20は当たり前に……
「そういえばくらまくん。家族で映画館に行ったとき、結局トイレは間に合ったの?」
「だぁあぁああああああ!!!」
吹き込んでんじゃねえか! 思いっきり!
「それがねぇ。まーくんったら慌ててたものだから間違えて……」
「やぁぁぁめぇぇぇろぉぉぉ!!!」
ああ、やっぱりこの2人を会わせるべきじゃなかった。妙に意気投合してるっぽいのが却ってマズイ。
いや、落ち着け俺。何にせよ会ってしまったものは仕方ない。ここはこれ以上傷口を広げないうちに、この場を引き上げるしかない。
「そ、そうだスグ姉! 俺お腹すいたなあ、そろそろ家に帰ってスグ姉の美味しいご飯が食べたいなあ」
瞬間、スグ姉がパっと顔を輝かせた。「まあっ」と「えぇっ」を混ぜたような奇声を発しながら、バタバタと手を振る。
「え、あ、そ、それなら早く帰らないと! 任せて、お姉ちゃんがまーくんをお腹いーっぱいにしてあげるから‼」
「……わーい」
扱いがチョロ過ぎるのは良しとしよう。
呼び方が昔に戻ってるのもこの際置いとこう。俺だってさっきスグ姉って呼んじゃったし。
俺が今気にすべきは、今晩の俺の腹具合と、今月末の食費だった。ウチは別に裕福でもないからな。
「ま、まあそういうわけだから。俺たちは、今日は帰るよ」
俺はベル子に向き直ってそう言った。
ベル子はこくんとうなずくと、ギター……じゃなくてベースのケースを肩にかける。
「じゃあ」
ごく小さい声でそれだけ言って、街の方向へと歩いていった。
その様子がどことなく寂しげで、俺は謎の罪悪感に襲われた。
考えてみれば、さっきから姉にばかり気を取られてベル子の扱いが雑になっていたかもしれない。身内特有の空気で居づらくさせていたかもしれない。
今度会ったら、それとなく謝っておこう。そうだ今度こそ、にるげそプリンを買ってやるのもいいかもしれない。
俺がそんな風に考えを巡らせていると……
「まって! ベルちゃん!」
姉がベル子を呼び止めた。
あ、やばい、これは……
「よかったらベルちゃんも、ウチで一緒に食べない?」
「ぐ……」
やっぱりか……。
危険を感知するので精一杯だった俺は、姉のその一言を止めることができなかった。というか俺が姉の暴走を止められた試しがない。
「…………」
悩む様子のベル子。付き合いの長い姉と違って、ベル子の心情は俺には推し量れない。断れ、断れと念を送る。いや、別にベル子と一緒にご飯を食べたくないわけじゃないけど。
目が合った。ベル子が瞬きする。なんだ。その瞬きにはいったい何の意味がある? ていうか俺の念は伝わってるのか。
「わかった。行く……ます」
伝わってなかった……。
「わーい! よかったぁ~。ごめんね、急に誘っちゃって」
「いい、です」
「だから無理して敬語つかわなくってもいいってばぁ」
「うん……あっ、はい……うん?」
「むっきゃあああ! かぁわぁいぃいぃ!!」
「あうあうあうあう」
「…………はぁ、」
結局、こうなるのか。
いや、まあいいんだけどさ。ベル子と晩ご飯たべるのはそんなに嫌じゃないし。絡んでくる姉さえいなければ、だけど……
…………。
いやいや、姉がいなくてベル子とご飯ってどんな状況だよ。それを良しとする俺ってなんなんだ。だから何度も言ってるように俺はベル子が好きなんじゃなくて、ベル子の音楽が……
「なに気持ち悪い顔してるのマダオぉ? 早くいくよー」
気がつけば、姉とベル子は既に茂みを掻き分けて広場を出ようとしていた。
さっきまでベル子を放置していた手前、自分が放置されたことにも文句を言えず……ていうか気持ち悪い顔って何だよ。そんな顔してないし。
してない、よな?
頬をぐにぐに抑えながら、俺は秘密基地を後にした。
* *
「ふんふんふふふ~ん♪ ふんふんふ~ん♪」
台所から調子っぱずれな鼻歌が聞こえる。
毎日歌っているはずなのに、一向にうまくならない鼻歌。一緒に聞こえる包丁のリズムの規則正しさがその調子っぱずれっぷりをより顕著にしている。
『本日のご注文は……お前だァァァァァ‼』
目の前のテレビからは謎の番組が垂れ流されている。
さっきまでは確かに料理バラエティ番組だったのに、突然のホラー展開。こんなよくわからない番組では現実逃避すらできそうにない。
「…………」
俺の隣にはベル子がいる。
この状況に落ちついてからそれなりに時間が経つのに、まだ一言もしゃべろうとはしない。そんなベル子と一緒のソファーで2人、テレビを観ながらぬぼーっと座っている。
一緒のソファーだから、距離はまあまあ近い。だけどお互い両端に座ってるから、そんなには近くない。いつだったか、後ろから本を覗きこまれたときとかに比べたら全然近くない。
なのに、なんでだろう。
自分の家にベル子がいる。俺が休日とかにゴロゴロしてるソファーに、ベル子が座っている。
たったそれだけのことで、妙にドキドキしてしまう自分がいる。
もしかして、俺は変態なんだろうか。世の中には女の子の自転車のサドルをペロペロ舐めて喜ぶオッサンがいるらしい。そういうのと大差ないんじゃないだろうか、俺のこのドキドキは……。
「…………?」
マズイ、目が合った。見すぎた。
ベル子が首を傾げる。「どうかしたの?」って感じに。
なんて答えよう。ベル子のことだから、首を振って「何でもない」って言うだけでも引き下がってくれそうな気はする。だけどできたら、それらしい理由をつけたいし……
「あ……えっと、あの……、あー、そうだ料理。ベル子は、料理とかしないのか?」
「…………??」
ベル子がさらに首を傾げる。「どうして突然そんなことを聞くの?」とでも言いたげだ。どうでもいいことかもしれないけど、首を傾げすぎたベル子が今にもソファーから落ちそうで見ててハラハラする。
「いや、その、テレビで料理やってたから……」
どこか言い訳っぽくなってしまった。まあ実際こじつけだしな。
俺の返答を受けて、ベル子がもう一度テレビに目線を向けた。傾げた首をそのままテレビに向けたものだから、体勢がかなりおかしなことになっている。
『絶対にィィ、訴えてやるゥゥゥゥ!!!』
テレビでは、結婚詐欺に遭った幽霊が慰謝料を求めて井戸から這い出してくるところだった。この番組のディレクターは一度精神科で診てもらったほうがいいと思う。
「料理、してないわ」
幽霊に人差し指を向けながら、ベル子が言った。
「さっきはしてただろ?」
「そうなの?」
「いや、ベル子も観てたじゃん」
「う、ん……」
なんだ? 歯切れが悪いな。
「もしかして、テレビ観てなかったのか?」
少しの間のあと、ベル子はこくんと頷いた。
そんなに面白い番組じゃなかったし、興味が湧かなかったのはわからなくもない。だけど、それを言いにくそうにしているのがよくわからない。
というか、テレビを観てなかったのなら何を見てたんだ? 視線は確かにテレビのほうに向かってた。俺は何度かベル子の横顔を盗み見てたから、これは間違いない。視線だけテレビに向けて、頭の中ではなにか別のことを考えてた……?
「したこと、ない」
「え?」
「料理」
「あ……ああ、その話」
相変わらずベル子の話運びは、その、何ていうか、独特だ。マイペースっていうか。
なるほど、友達ができないわけだな。
「お母さんが、危ないからダメだって」
「またずいぶんと過保護なんだな」
「…………」
ベル子が顔を伏せた。
伏せる寸前、ほんの一瞬だけ、いつも変わらないベル子の表情が変わったように見えた。
しかし、その顔は……
「ベル子……?」
見間違いでなければ、その顔は。
何かと葛藤しているかのように、物悲しげで、歪んだ表情だった。
「たいしたことじゃ、ないんだけど……」
顔を伏せたまま、ベル子は言った。らしくない、そんな前置きを入れて。
「料理だけじゃなくて……掃除とか、洗濯とか。私が手伝うって言っても、しなくていいって言うの。親の仕事だからって……」
「それは……」
いいこと、なんじゃないだろうか。
無理に手伝いをさせられるよりはよっぽどいい。俺もよくそれでイライラするし。
「お母さんのことは、好き。お父さんも。でも、私は……」
そこまで言って、ベル子は言葉を詰まらせた。
内容だけ聞けば、羨ましい話にしか聞こえない。なのにどうして、ベル子はこんなにも寂しそうなんだろう。
考えて、考えて、思い出した。
そういえば、前に家の話をしたとき、ベル子は言っていた。
――でも、もうちょっとだけ信用してほしい、かも……。
「信用してほしい、か……」
ベル子がぱっと顔を上げた。その目が、縋るように俺を見つめる。
しかし俺は、その目に何も返してやることができない。
俺はただ、ベル子の過去の言葉を繰り返しただけだ。俺はベル子のことを何も知らないし、それどころかベル子が何を悩んでいるのかすらわかってない。
「……ぜいたくなのかも、とは、思ってるの」
何も言わない俺を見限ってか、ベル子は独白を続けた。
「なにか強制されてるわけじゃないし、料理だって、もっと真剣に頼んだらやらせてくれると思う。でも、そうじゃないの。私はお母さんに、信用……ううん、違う。そうじゃなくて。もっと、こう……」
「…………」
「……褒めて、もらいたいの。お母さんに」
* *
――褒めてもらいたい。
どこか子供じみたその言い方に、俺はベル子らしさを感じた。
ベル子は殊更に、その悩みを大したものじゃないみたいに話そうとしていた。だけど、いつも無遠慮なベル子がそんな配慮をしてくる時点で、それは大したことなんだ。
なんとかしてやりたい。そう思う。
ベル子にはいつもベースを聴かせてもらってる。ベル子からしたら俺に聴かせてるつもりはないんだろうけど、そんなのは関係ない。俺はベル子のベースが好きなんだ。その恩を返したい。それに、俺は……
…………。
「……とにかく」
ベル子の悩みを、なんとかしてやりたい。
だけど、と。
頭のどこかで、冷静な自分が問う。
これは、俺になんとかできる問題なんだろうか?
ベル子の悩みは、完全にベル子の家の問題だ。これが虐待とかならそんな悠長なことも言ってられないだろうが、そこまで大きい問題でもない。部外者の俺が変に手出しして、却ってこじれたりはしないだろうか。
――褒めて、もらいたいの。
その言葉を聞いたとき、俺の頭の中では、理科室で聞いたベル子のベースの音が流れていた。胸に迫り、突き刺さるようなその音が。
いつだったか、ベル子は言った。「気持ちを込めて弾いているだけ」だと。音で内心を決めつけないでほしいと。だからこれはたぶん、俺の穿ちすぎなんだろう。でもそうは思っても、考えは止まらない。
あのときの音は、どこか寂しそうだった。
あのときの音と、「褒めてもらいたい」と言ったときのベル子の表情が、重なる。
演奏を褒めたときに、骨格標本を指でいじるベル子。
そのあと、何も言わずに俺へ向けて奏でたベースの音。
「ありがとう」と言ったときの、ベル子の溶けるような声。
夜の帰り道、俺の手をそっと握ったベル子の手と、その温かさ。
ベル子は、はっきりと口には出さなかった。きっと俺に言っても仕方ないと思ったんだろう。だけど、もしかしたら。
もしかしたら、ベル子が母親に認めてほしくて、褒めてほしいと思っているのは……
「借りてる、本のことだけど」
静寂を破るように……というには少しばかりささやかすぎる声で、ベル子は言った。
その声で、俺は現実に引き戻される。今は、ベル子を家まで送っているところだった。
「もうしばらく、借りててもいい?」
「別にいいけど……ってことは読んでるんだな。面白いか?」
正直、ベル子に恋愛モノはどうなのかと思っていた。コイツほど恋愛に無頓着そうなヤツもいないし。
「まあまあ」
そう言いつつも、面白いと思ってるんだろうなあってことがそこはかとなく感じ取れた。相変わらずの無表情だったけども。
「そっか。俺はもう読み終わってるし、好きなだけ貸しててやるよ」
「あなたはあの本、好き?」
「いやあんまり」
ベル子がまじまじと俺の顔を見た。いや、ゴメン。けどさ。
「なんていうか、読んでてヤキモキするんだよな。好きなら好きってさっさと言っちまえよって思う。似たようなシーンを何度も繰り返してさ」
「…………」
「あっと、悪い。楽しく読んでる本をけなされたら嫌だよな。別にあの本が悪いとかじゃなくて、俺は基本的に純恋は苦手っていか……」
普段は読まない新ジャンルを開拓しようとして失敗した形だ。〇〇賞受賞とかって書いてたから、ちょっとだけ期待してたんだけど。
「…………」
ベル子にしては珍しく、本当に怒ってるみたいだった。謝ったのに何も言ってこないのがその証拠だ。その顔はやっぱり、無表情だったけども。
「いや、本当にごめん。ベル子がそこまで気に入ってるとは思わなくて。俺の言ったことなんか気にすんなよ。あの本は人気あるし、間違いなくベル子の感性のほうが普通だから」
「……そんなことは、気にしてないわ」
やっと喋った……と思ったら、やたらと刺々しい口調だった。
ここまで来ると、無表情が逆に怖い。気にしてないってのも本当かどうか……。仮に本当だとして、じゃあこのピリピリした空気はなんなんだろう?
「ここで、いい」
そう言ってベル子が足早に歩きだしたのは、ベル子の家まで通りを一本挟んだ手前のことだった。
「さよなら」
それだけの言葉を残して、俺を一瞥もせずに歩き去ろうとする。
確かにあと少しの距離だし、送るっていうんならここでも十分だろう。
だけど……
「ベル子!」
俺は、反射的に呼び止めていた。
こんな形で別れるのは、なんか嫌だった。何が嫌なのかはよくわからないけど……とにかく、嫌なんだ。
「…………」
ベル子は振り返らない。だけど、足は止めてくれた。
一方の俺は、呼び止めたはいいけど、言葉が見つからなかった。怒ってる原因がわからない以上、下手なフォローは火に油になりかねない。だったらこの状況で、言うべき言葉はなんなのか。
時間にすれば、一秒にも満たない。そのわずかな時間に、俺の頭は猛烈に回転した。
それはもしかしたら空回りだったのかもしれないけど、なんにせよそのおかげで、俺はひとつの言葉に辿り着いた。
「も、もっと、ぶつかっていけよ!」
「…………?」
振り返ったベル子が、首を傾げる。
そりゃそうだ。脈絡も何もあったもんじゃないからな。ベル子じゃあるまいし。
だけど……そうだ。そうなんだ。
俺はさっきからずっと、これが言いたかったんだ。スグ姉の手料理を食べてるときも、ベル子と2人で歩いてるときも、ずっと。
これを言うタイミングを、探してたんだ。
「母親に褒めてほしいなら、そう言えよ! 母親に! 変に遠慮して黙ってるなんて、お前らしくないだろ! 信用してほしいんなら、もっとぶつかれ! いや、もうしてるのかもしれないけど……もっと、もっとだよ!」
お前にベル子の何がわかるんだと言われれば、わからないとしか答えられない。
なにせベル子と話すようになってから、まだ3日しか経ってないんだ。しかもその間してたことと言えば、ベル子の奏でるベースの音に耳を澄ませるばっかり。会話なんてほとんどしていない。
俺はベル子のことなんて、何もわからない。だからこれは、俺の勝手な想像だ。
俺が褒めたときのベル子の仕草。
母親に褒めてほしいというベル子の言葉。
そしてベル子が、何よりも大切にしていること。
「お前が……お前のベースが母親に認めてもらえないとか、んなことあるわけねえだろ‼」
「…………!」
その瞬間のベル子の反応で、俺は確信した。俺の想像は間違ってなかったんだと。
ベル子が母親に認めてほしいこと。
それは、ベースだ。
ベル子は、一言だってそんな風には言わなかった。ただ家事をやらせてもらえないと、そう言っただけだ。
だけど、それだけじゃなかった。大した悩みじゃないとそう思わせるために、ベル子はあえて肝心なことを言わなかったんだ。
「お前のベースをはじめて聴いたとき、感動した! 泣きそうになったよ! 今だってたまに泣きそうになるくらいだ! ベル子のことなんかただのクラスメイトぐらいにしか思ってなかった俺がこれだけ感動したんだ。お前の母親が、感動しないわけないだろ!
それにな、知ってたかベル子。俺が休みの日に秘密基地へ行くのはな、お前のベースを聴きに行ってるんだよ! ヒマ人だからじゃないんだ!
だから……えっと、お前の母親が、じゃなくて……えっと……」
しまった。何も考えずに喋りだしたから結論が迷子だ。
「と、とにかく! お前の母親が褒めてくれなかったとしても、俺が褒めてやるから! だからそれで我慢しろ!」
結局、バカみたいに不遜な物言いになってしまった。
俺の言葉を、ベル子は黙って聞いていた。
こうやってベル子のベースを褒めるのは何回目か知らないが、しかし今回のベル子はいつにもまして、その目に熱がこもっているように感じた。
「……わかった」
目を逸らさず、ベル子はほんのわずかに首を縦に振った。
「あなたを、信じる」