1-3
翌日。土曜日。
俺はひとり、森の中を秘密基地へ向けて歩いていた。
静かだった。
自分の靴が落ち葉を踏む音。さっき立ち寄ったコンビニの袋の音。どこにいるのかわからない鳥の声。それだけしか聞こえない。
――いや。
その中にいつの間にか、ギターの音が混ざっていた。平和な世界を切り裂き蹂躙するみたいに、それは荒らっぽい音色だった。
「今日は機嫌悪いのか……?」
独りごちてはみたが、いやいや、そんなことはないだろう。これはそういう曲なんだ。だいたい、音の調子で機嫌がわかるほど俺はベル子と付き合い長くないし。
そう、これは気のせいだ。ベル子の機嫌が悪いなんてこと、有り得ない。なんせベル子なんだから。
「うしっ」
ちょっとだけ怖気づきそうになっている自分を奮い立たせて、俺は茂みに足を踏み入れた。
そして案の定、そこにいたベル子に、俺は、
「…………、」
睨まれた。ギロっと。
「し、失礼しましたぁ……」
「びびったぁ……」
道を少しだけ引き返して広場から距離を取ると、ようやく俺は息をついた。
ヤバイ。まだ心臓がバクバクいってる。
ああいうのを鬼の形相というんだろうか。ベル子のあんな顔、初めて見た。いったい何があれば、あそこまでベル子の機嫌が悪くなるんだろう……。
「まあいいや。ひとまず、今日のところは出直して……」
「くらまくん?」
「どぅわひゃあっ‼」
後ろを見ると、ベル子が茂みから顔だけ突き出していた。
さっきと違って怒ってない、いつもの無表情なベル子だった。
「何、してるの?」
「えーっと、その……」
「用があって、来たんじゃ、ないの?」
そうですがあなた様の機嫌が悪そうなので帰るところです、とは、なかなか言いにくい。
「……えーっと」
「とりあえず、こっちへ来たら?」
首を横に振る訳にもいかず、俺は三度茂みをくぐった。
「だから、弾いてるところを見られるのは、嫌なの」
木の根元に腰を下ろしながら、ベル子は言った。
「前にも、言われたことがあるの。怖いとか、今日は元気そう、とか。私はただ、気持ちを込めて弾いてただけ、なんだけど」
ようするに、怒ってなかったらしい。まったく、怖がって損した。
「それで、あなたは」
「ん?」
「ここに、お昼ご飯を食べに来たの?」
どこか非難じみたベル子の言葉に、俺は口に入れようとしていたコンビニおにぎりをピタっと止めた。
「あー、まあな」
違うけども。本当はギター聴きに来たんだけども。
「えーっと……ベル子も、食うか?」
「私は、さっき食べたから」
「そ、そっか」
今度こそ俺は、コンビニおにぎりを頬張った。
「…………」
「…………」
なんか、食べにくい。
できたらこっちを見ないで欲しいんだが。でもそれを口にするのも意識してるみたいで嫌だしなあ……。
「待って」
「ん?」
「もしかして、あなたが行ってきたのは、シックスイレブン?」
ベル子の目線は、俺の横のビニール袋に注がれていた。心なしか目が血走ってるような気がする。
「あ、ああ」
「にるげそプリンは、買った?」
「買ってないけど」
「…………」
ベル子の目が、一気に冷めた。
「そう。なら、いい」
「…………」
いや、別に、俺はベル子の機嫌を取る為にコンビニへ行ってきた訳じゃないんだから、いいんだけど。
「そこまで好きなのか? プリン」
「プリンが好きなんじゃないの。にるげそプリンが、好きなの」
「そんなに違うか?」
「ぜんぜん違う。食べたこと、ない?」
「あるけどさ。普通のプリンだった」
「…………」
なんだこの沈黙は。なんで無表情なのに視線が痛いんだ。
「くらまくんなら、わかってくれるって信じてたのに」
「なんで裏切られた感じになってんだよ」
「じゃあ、私からにるげそプリンを強奪しようとしたのは?」
「だからあれは強奪じゃ……いや、もういいや。えっと、あの時はさ、姉貴に頼まれてたんだよ」
「お姉さん……いるの?」
「ああ、一応」
「一応?」
果たしてあのお子様を『お姉さん』と表現していいのか、判断に悩む。風呂上がりに下着姿で牛乳飲んでたりするしな、アレは。
「くらまくんの、お姉さん……」
物思いに耽るように、ベル子は合わせた両手をじっと見つめた。
「会って、みたい」
「ごめん無理」
「どうして?」
「いや、だってお前……」
「?」
わからないのか。わからないだろうなあベル子には。男の俺と2人でいても、全く意識してなさそうだし。
だけど、俺の姉貴は違う。色恋沙汰にやたらと敏感で、俺が女子と話してるのを見かけただけでも、どういう関係なのかとしつこく聞いてくるんだ。ただのクラスメイトだっつーのに。
そんな姉貴に、もしもベル子のことを知られたら……想像するだに恐ろしい。
「ベル子はいないのか? 兄弟とか」
「いない。一人っ子」
「ふーん。まあ、言われてみれば確かにそんな感じだよな」
「どういうこと?」
「大事に育てられてそうって意味」
じゃないと、こんなワガママにはならないだろうしな。
「大事に……。そうかも」
思案に耽るベル子が、俺の皮肉に気づく様子はなかった。なんか罪悪感があるな……。
「でも、もうちょっとだけ信用してほしい、かも……」
「ん? 何の話だ?」
「……なんでもない」
これで話はおしまいと言わんばかりに、ベル子はおもむろにギターを取り出した。そのまま何も言わずに演奏を始める。俺も何も言わずに目を逸らした。残りのおにぎりを口の中に放り込む。
今度の曲は、どことなくユーモラスな雰囲気の曲だった。ベル子は今、どんな表情をしているのかと想像してみて……その想像に、思わず吹き出しそうになった。
慌ててコンビニ袋を鞄に押し込んで笑いを誤魔化すと、ついでに俺は、鞄から本を取り出していた。無意識の行動だった。
ベル子がいなかったら読むつもりで持ってきていた本。だけどベル子の演奏を聴きながら読むというのも、案外アリかもしれない。
ベル子とベル子の音を背中に感じながら、俺はページを捲った。
「なに、読んでるの?」
「え……お、おうっ……」
いつの間にか、肩越しにベル子が覗き込んできていた。
俺の肩に顎を乗せるように。俺が少し顔を動かせば大惨事になるようなところに、ベル子の小さい唇があった。
「ねえ、なに?」
「あ、これは……小説……」
「小説」
ベル子が更に身を乗り出してくる。背中に仄かな体温を感じて、俺は気が気じゃなかった。
「本、好きなの?」
「まあ、それなりに……」
「そう。頭、良かったんだ。意外」
色々とツッコミどころの多い発言だったが、状況が状況なのでツッコむのもままならなかった。
いや、本当に近い。近すぎる。なんか良い匂いがする。嗅いでると頭がクラクラする。なんなんだこれは。なんなんだこの状況は。
「見せて、くれない?」
「え?」
「だめ?」
「いや、いいけど……」
本を閉じて、差し出した。肩越しに。下手に動くと、触ってはいけないところを触ってしまいそうだった。
受け取ろうと手を伸ばしてきたベル子は、何を思ってか、途中でその手を引っ込めた。見えないが、背中から離れたような気がする。
恐る恐る振り向くと、ベル子はギターを肩から下ろしていた。
「持っててくれる?」
差し出されたギターを受け取って、代わりに本を手渡した。受け取ったギターはやっぱり小さくて、おかしなことに弦は4本しかなかった。音楽の授業で触ったヤツは確か6本だった気がするんだけど。
両手で持ってるだけだとなんだか落としてしまいそうな気がして、俺は仕方なく紐を首にかけた。ベル子に何か言われるかとドキドキしたが、ベル子は本を見るのに夢中だった。まあ、持ってろって言ったのはベル子だし、これで怒られるとしたら理不尽だよな。
「ねえ」
「なんだ?」
「これ、どういう話?」
イラストが載ったページを開きながら、ベル子が聞いてくる。
それは、ぱんつが丸見えなのを必死に隠そうとする幼女のイラストだった。
「女の子の服を脱がす時だけ特殊能力を使える主人公が魔王討伐の旅に出る話だ。タイトルは『脱がしたらすごかった』」
「そう。服を脱がすの……」
パラパラとページを捲る。次に出てきたイラストでは、ベル子そっくりの女の子が全裸になっていた。靴と靴下をちゃんと穿いてる辺り、この絵師はわかってると思った。
「じゃあこれは、主人公に服を脱がされたところなのね」
「そうだ」
ベル子が、わずかに開いていた足をぴったりと閉じた。心配しなくても、ベル子が穿いてるのはショートパンツだろうに。
「なあベル子」
「なに」
「これは一応言っておくんだが、俺は別にそういう本ばっかりいつも読んでる訳じゃないんだよ」
「…………」
「今日持ってきたのが偶然それだっただけで、もっと小難しい推理小説とか歴史小説だって読むしさ。山岡荘八の徳川家康だって読んだことあるんだぜ。知ってるか? あの無茶苦茶長いヤツ。それにそういう本を読んでるからってだけで、俺のことをそういう奴だって決めつけるのは間違ってる。ホラーが好きだからって、人を殺したりしないだろ? それと一緒だよ。そうは思わないか?」
「そうね」
「だろ?」
「じゃあ……」
ベル子が、じりじりと後ずさりしながら言った。
「私のベース、返してくれる?」
余談だが、このとき俺は初めて、ベル子の弾いてるのがギターではなくベースなんだということを知った。
* *
そういえば、ベル子はいつも同じ服装だ。Tシャツに、カーディガンに、ショートパンツ。
微妙に色が違ったりロゴが入ってたりするからまったく同じ服ってわけじゃないんだろうけど、その組合せ自体は変わることがない。
「何かこだわりがあるのか?」
「…………」
「何を疑ってるのか知らないけど、別に変な意味で聞いてるんじゃないからな?」
あれからずっとこの調子だ。妙に警戒されてる。
今はもう秘密基地を出て、帰り道の途中だ。本の話をしてからそれなりに時間も経って辺りも薄暗くなってきたっていうのに、一向に警戒を解いてくれる気配がない。むしろ余計に警戒されてるような気がする。なんでだ。
「この服、楽だから」
しばらくして返ってきたのは、なんともベル子らしい答えだった。音楽のこと以外は本当にどうでもよさそうだな、コイツ。
「だけどさ、その格好だとそろそろ寒くないか? もう10月になるし」
「ん。確かにちょっと、寒い……」
そこまで言って、ベル子は何かに気づいたようにピクッと身体を震わせた。
「でも、手を握るとかは、いらない」
両手を背中に隠しながらそんなことを言う。いやいや、警戒しすぎだろ。
「やらねえよ。そんなベタなこと」
「でも、貸してくれた本にそういうのがあった」
「あったっけ?」
「あった」
『脱がしたらすごかった』のことじゃないだろう。あれにそんなピュアピュアなシーンが存在するはずがない。
たぶん、あのあと俺が名誉挽回の為に貸したほうの本だ。ハードカバーの恋愛モノ。持ってきてた中で一番マシなのが、それだった。
「ていうか、手を握るのがそんなにダメなのか」
「だめ」
「ふぅん……。まあ俺も、好き好んで女子と手を繋ぎたいとは思わないけどさ」
「それも、あるけど」
「ん?」
珍しく、ベル子は言い淀んでいた。
そして、
「……私の手、汚いから」
小さく、そう言った。
「…………、……ああ」
しばらく考えて、ようやく思い出した。ベル子とコンビニで会ったときのことを。
プリンの上で触ったベル子の手。ささくれて、ガサガサで、とても女の子らしいとは言えない、その指先。
あのときは深く考えなかったけど、今ならわかる。あれはベースのやりすぎで、ああなってるんだ。
「…………」
ついさっきの自分をぶん殴りたくなった。何が音楽のこと以外はどうでもよさそう、だ。
どうでもいいわけがない。人に悪く思われて気にしないわけがない。
ただ、それが霞むぐらい、音楽が好きなんだ。
一途で、ひたむきで、あと、ちょっと不器用なだけで。
ベル子も普通の女の子なんだと、この時ようやく俺は気が付いた。
「…………手」
「なに?」
「手、出せ」
「……嫌」
「いいから」
「…………」
ベル子が手を出した。俺の顔をじっと見ながら。その目は、俺を睨んでいるようにも見えた。
手を取る。その指先はやっぱり固くて、そして、少し冷たかった。
「汚くは、ないだろ」
ベル子の目を見返して、俺は言った。
「こうやって握ってても、全然嫌な感じなんかしない。汚いとも思わない。こんなになるまでがんばってるんだなって、そう思うだけだ。
俺はベル子の音が好きだ。あの音を出してるのは、この手なんだ。この手がなかったら、あの音は出ないんだ。
音だけ好きで手は無理とか、そんなこと言わない。嫌がる奴もいるかもしれないけど、俺は嫌じゃない。気にしてるベル子見るほうがよっぽど嫌だ。
だから、その……」
ベル子は、まだ俺の目を見ていた。
先に目を逸らしたのは俺のほうだった。
「えーっと、つまり……アレだ! 汚くなんかないんだよ! そ、それだけだ!」
手を離す。とてもそれ以上は握っていられなかった。今更になって、恥ずかしさが込み上げてきた。
だいたい、何が言いたくてこんなことをしたんだ俺は。自分で自分がわからなかった。急に手を握ったりして、嫌がってるのはベル子のほうじゃないのか。
ベル子は、離した手をじっと見つめていた。一瞬だけ、上目遣いにこっちを見上げてきて。そしてすぐに伏せる。そんなベル子が、なんだか、なんだか……
「…………帰るぞ」
俺はベル子に背中を向けた。そして先に歩き出す。台詞から動作まで、まるで昨日の繰り返しだ。そんな俺の後ろをベル子がちょこちょことついてくるのも、昨日と同じだった。
なんで、ベル子といるとこういう空気になるんだろう。もしかしてこれからも毎日こんな感じになるんだろうか。
でも、それもそんなに悪くはないななんて、そんな風に思う自分がいた。それが自分でも、意外だった。
とりとめのない思考が、頭を渦巻く。酒で酔ったらこんな感じなんだろうか。ぐちゃぐちゃになった頭をどうにかすっきりさせたくて、俺は夜空を見上げていた。
そんな俺の手が、後ろからぎゅっと握られた。
「!」
ベル子は、何も言わなかった。
何も言わずに、俺の手を握っていた。
その手は、さっきよりも少しだけ暖かかった。その手は一度だけ離れて、そして今度はしっかりと握り直された。
俺は、ベル子を見なかった。見ることができなかった。
でも、それでも良かった。
今の俺にとって、握られた手に伝わる温度だけがすべてだった。それで十分だった。
言葉がなくても。姿は見えなくても。
俺はベル子の思いを、その手の平から感じていた。だから――。
俺は、ベル子の手を握り返した。
ただ思いを伝えたくて、手を握った。
握った手のひらは、今はもう、心地よい暖かさに包まれていた。