6-4
幕が開き切る前に、それは聞こえた。
穏やかな音色。澄んだ歌声。ベル子の声に違いないはずなのに、それはまるで別人のように聞こえた。
少しずつテンポが上がって、音が組み合わさっていく。ベースと、ギターと、ボーカルと。最後にロリっ子のドラムが加わり、ついに、曲は佳境へと差しかかり――
――圧倒的、だった。
すべての音が、渾然一体となってぶつかってくる。音に重さがあるんじゃないかと錯覚するほどに、それは圧倒的な迫力を持っていた。
いつか、ロリっ子が言っていたらしい「ベースだけを聴いて感動するわけがない」という言葉。その言葉の意味が、今ようやくわかった気がした。
秘密基地で聴いたベル子のベース。
あれだけじゃ、不完全だったんだ。
今聴いているこの音こそが、ロリっ子が、そしてベル子が、聴かせたかった音なんだ。
気がつけば、俺は立ち上がっていた。俺だけじゃない。隣の姉貴も、その向こうも。観客は総立ちで、ベル子たちの放つ音に聴き入っていた。
それに気がついた瞬間、俺は音楽から感じるそれとはまた別の感動を覚えた。
今ここにいる全員が、ベル子のベースを聴いている。
あの日、理科室で俺が感動して、すごいと思ったあの音に、ここにいる誰もが同じように感動してくれている。
何時間、何日、何カ月と、ずっと一人で練習してきたベル子のベースが、今ようやく認められた。
そのことに、俺は言い知れない感動を覚えた。
――同時に。
俺の心のなかに、暗く、粘つく思考が湧き上がった。
ライブ直前にも感じていた不安。ベル子が一人前になったとき、俺はベル子の隣にいられるのか。
まだしばらく先だと思っていたその未来が、この瞬間、急に現実味を帯びてきていた。
ベル子はすごい。前からすごいとは思っていたけど、思っていた以上に、ベル子はすごかった。
そう。俺なんかとは、比べ物にならない程に。
暗い不安は、次第に寂しさへと形を変えていく。
今まさにベル子のすごさを肌で感じて、感じるほどに、俺とベル子との距離が開いていく気がする。ベル子が、どこか遠くへ行ってしまうような気がする。
あそこにいるのは、本当にベル子だろうか。
プリンが大好きなベル子。
ずぶ濡れのベル子。
怒ったベル子。
俺の手を後ろからぎゅっと握ったベル子。
そんな俺の知っているベル子が、今目の前でベースを奏でているベル子と、結びつかない。まるで長い夢から覚めるときのように、俺のなかのベル子がかき消されていく気がした。
俺は、一人だった。ベル子の歌声に聴き入って鳥肌を立てている自分とは別の自分が、薄暗い場所で一人寂しく泣いている。
俺は思わず、自分の胸元を握りしめていた。
胸が痛かった。そして苦しかった。ベル子の幸せを喜べず、ベル子たちの奏でる音を真摯に聴けない自分が憎くて、悲しくて、やるせなかった。
今だけでも、こんな暗い気持ち忘れたい。いっそこの音で押し流してほしい。そう、思うのに。
感動が高まれば高まるほど、暗い気持ちがよりはっきりと感じられる。
もう、耐えられない。
目を逸らしたい。耳を塞ぎたい。
だけどそんなことをしてしまえば、もう本当に俺は俺を許せなくなる。俺は下唇を噛みしめながら、無理やりに、舞台上のベル子を、見上げて――
――瞬間。
一瞬。ほんの一瞬の出来事だった。
ベル子と、俺の、目が合った。
そしてほんのわずかに、ベル子が、微笑んだ。
それだけだった。
合わされた目はすぐに外されて、またベル子は次の歌詞を紡ぐ。
気のせいだと言われればそうとしか思えない、ほんの一瞬の出来事だった。だけどその一瞬で、俺の不安は完全に吹き飛んでいた。
何一つ解決してないし、何も変わっていない。なのに俺のなかの不安だけが、綺麗さっぱりなくなっていた。
なくなって、そして俺は、ようやくそのことを思い出した。
ベル子は、ベル子なんだって。
それだけでもう、俺には十分だった。
* *
ベル子たちの演奏は、最後までつつがなく終わった。
1曲目のあとのメンバー紹介でベル子の声が小さすぎてマイクが拾わないとかいうトラブルはあったものの(歌は大丈夫なのになんでだ)、演奏そのものは2曲目、3曲目と底なしに盛り上がっていった。
最後にはアンコールにまで応えて、ベル子は少し疲れを覗かせながらも、しっかりとした足取りで舞台袖へと下がっていった(「まだ幕が降りてない!」というロリっ子の悲鳴が客席まで響いた)。
そして、今は放課後。
文化祭の余韻が抜けきらない、どこか浮ついた空気の中。俺とベル子はその空気から逃れるように体育館裏へと来ていた。
「で、なんだよ? 話って」
そう問いかける俺の前では、ベル子が珍しく迷うような仕草を見せていた。
ライブから程なくして閉会式が始まったせいで、俺とベル子はまだロクに話せていない。せめて帰り道でライブの感想を伝えようとベル子を誘いにいったら、どこか人のいない場所で話がしたいとベル子のほうから誘われた。
すぐ済むからということで、理科室じゃなくてすぐ近くの体育館裏へ来てみたんだが、着いても肝心のベル子がなかなか話し出さない。焦れて急かしてみてもやっぱり反応がない。壁のヒビをなぞるの、そんなに楽しいのか?
やがて飽きたのか、ようやくベル子がこちらに向き直った。
「くらまくん」
「ん、なんだ?」
「め、つぶって」
「…………?」
どういうことだ? 目をつぶってって。話があるんだよな? 俺が目をつぶらないと出来ない話ってなんだ?
ま、つぶるけども。
「……しゃがんで」
「????」
余計に意味がわからない。しゃがませて、何がしたいんだ? ベル子はいったい何を考えてるんだ?
ま、しゃがむけども。
「…………」
………………何も、起きない。
何も聞こえない。かなり遠くから誰かの笑い声とか片づけしてる物音とかが聞こえるけど、それだけだ。目をつぶってるせいで、今の状況がまったくわからない。ベル子がどんな顔をしてるのかすらわからない。いや、十中八九無表情なんだろうけど。
それでも俺は辛抱強く待った。10秒、20秒……。ベル子と付き合っていくには忍耐力は必須だ。これぐらい待てなくてベル子の彼氏は務まらない。
……が、さすがに3分を数えたあたりで限界が来た。
まさかベル子のヤツ、俺を置いて帰ったんじゃないだろうな。そういうことはやらないヤツだと思うけど、でもさすがに、これは……
そんなことを考えながら、目を開けた。――同時に。
俺の唇に、何かが触れた。
柔らかい感触。石鹸の香り。
開いた俺の視界には、近すぎてピントが合わないほどの……でもきっと、いや、間違いなく。
ベル子の顔が、そこにあった。
「――――、」
ベル子の息を継ぐ声が、信じられないほど近くから聞こえた。
何が起こってるのか考えようとして、だけど考えがまとまらない。唇に意識がぜんぶ持っていかれていた。
それでも目だけは動かして、なんとか俺と同じようにしゃがんでいるベル子の姿だけは確認できた。しゃがんだ俺は、どうも無意識に地面のほうを向いていたらしい。そんな俺の顔を下から持ち上げるように、ベル子が顔を差し込んできていた。
目を閉じたベル子が、わずかに身体をよじらせる。当たった唇が動いて、妙になまめかしい。みるみるうちに自分の身体が熱くなっていくのを感じた。
もう、ダメだ。いろいろ限界だ――。
そう思い始めたころ、ようやくベル子は唇を離した。
「…………」
目を開いたベル子が、無言でこっちを見つめてくる。いつもより頬が赤くなってる気がするのは、俺がそう思いたいだけか?
「め、つぶってって、言ったのに」
「いや、無茶言うなよ⁉」
どうやらベル子的には、顔を見られたくなかったらしい。だけど急にあんなことされて、そのまま目を閉じていられるわけがない。
あんなこと……あんな、あんなこと……。
「ベ、ベベベベベベ、ベベベ……」
「ベ?」
「ベル子⁉ な、なななんで、急に、こんな……」
「前に、できなかったし」
ベル子は、相変わらずの何を考えてるのかわかりにくい顔で言う。
「それに、文化祭も終わったから。もう、変に我慢する必要、ないと思って」
ぽつぽつと語るベル子。「我慢」という言葉が、なんかちょっと嬉しかった。それはつまり、ベル子のほうもずっと俺とこうしたいって思ってくれてたってことで。
「言うの、恥ずかしかったし」
……いや、そう言うんならもうちょっと恥ずかしそうな顔しろよ。
「くらまくんなら、急にしても、許してくれるって思ったから」
「…………」
「くらまくん?」
「…………許すわけ、あるか」
いつしか、俺の中には激しい怒りが燃えたぎっていた。
ベル子がずっと「我慢」してたってのは嬉しい話だった。ベル子のほうから距離を近づけてきてくれたのもすっごく嬉しかった。
だけど、だからって絶対に見過ごせないことが、一つだけある。
「ベル子、お前、どういうつもりだ」
「…………」
俺が怒ってるってのに、ベル子は相変わらずの無表情だった。その顔が余計に、俺の心をムシャクシャさせる。
「どういうつもりかって、聞いてるんだ」
「どういうつもりも、ないけど」
これっぽっちも悪びれた様子のないベル子。むしろ呆れてるようにさえ見える。
そんなベル子になんとか罪を自覚させるべく、俺はベル子の両肩を強めに掴んだ。
「許すわけ、ないだろ。俺がせっかく、せっかく……」
「くらまくん、痛い」
ちょっと手の力を緩めた。
それから、叫ぶ。全力で。俺が見過ごせないこと。怒りの、その理由を。
「せっかく、俺のほうからキスしようって思ってたのにっ!!!」
ベル子は、やっぱり無表情だった。




