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カペ谷ベル子のベース  作者: 泉野 戒
間奏 私とベースとくらまくんのこと
12/18

4.5-1

文化祭 19日前




その日、私は初めて、ベースを弾くのを怖いと思った。


ベースを弾けなくなることなら、これまでにも何度かあった。そんなときは、どう弾いたらいいのかわからなくなって、どんな風に弾いても納得できなくなる。そんなときも、辛くて、苦しい。


でも今のこの辛さは、それとは違う。


ベースは、弾ける。きっと弾ける。指の動きが思い浮かべられるから、あとはそのまま弾いてみるだけ。早く弾いて、その音を聞いてみたいって思う。


でも同じくらい、怖い。


初めて弾いたときでも、こんな風には思わなかった。


上手くいかなかったら、どうしよう。くらまくんに、軽蔑されたら……


わかってる。くらまくんはそんな風には思わない。もし今日上手く弾けなくても、それだけで私を見捨てたりなんて、しない。


でも、今日だけじゃなくて、明日も、明後日も失敗したら?


それでもくらまくんは、一緒にいてくれる?


くらまくんが、私のそばを離れてしまうのが怖い。


くらまくんと、ずっと一緒にいたい。


どうでもいい話をして、ベースを聴いてもらって、それであとはちょっとだけでも褒めてもらえたら、それだけで私はすごく嬉しい気持ちになる。そんな毎日が、これからもずっと続いてほしい。


くらまくんがいなくなるかもって思うと、怖い。


怖くて、ベースが弾けない。


ベースが弾けなくなったら、きっとくらまくんはいなくなる。それは嫌だ。でも怖くて弾けない。弾かないと。でも、怖い。くらまくんと一緒にいたい。ずっと一緒にいるためにはベースは弾かないとだめで、でも失敗したらくらまくんに嫌われる。怖い。怖くて弾けない。今も、くらまくんが幻滅してるんじゃないかって、そう思うと、怖くて、指が震えて……


なくなる。全部なくなる。くらまくんも、ベースも、全部なくなる。


どうしたらいいのか、わからない。




文化祭 18日前




くらまくんは、私のベースを応援して、期待してくれてる。


だったら私は、ベースを弾かないといけない。ベースをやめられない。


……本当は、ベースをやめてもいいかもって、思ってた。


こんなに辛いなら、やめてもいいかもって。


それでくらまくんと一緒にいられるなら、私は、それでもいいかもって。


でもやっぱり、くらまくんに、これからも私のベースを聴いてほしい。私のベースを、好きって言ってほしい。


だから私は、ベースをやめられない。くらまくんが好きって言ってくれたベースを、やめられない。


弾くのが楽しくて続けてたベースは、今はくらまくんと一緒にいるためのベースになった。たくさんの人に私のベースを聴いてほしくて、でもそのたくさんの人の中には、どうしようもない大きさでくらまくんがいる。


これからも、くらまくんと一緒にいたい。そのためにも、ベースを続けたい。


だから、私は……


くらまくんと一緒には、いられない。




文化祭 17日前




「――だから、私は、あなたと一緒にいられない」


少しだけ、声が震えた。


感情を抑えて、静かに話そうと思ってた。迷ってることに気づかれないように、はきはきしゃべろうって。


でも、最後の言葉だけは、どうしてもうまく言えなかった。


怖くて、顔が上げられない。


くらまくんが、どう思ったか。私のこと、失望したり、それか、勝手だって、怒ったり……


でも、怒ってくれたら、私はそれでベースをやめられるかもしれない。くらまくんのためにベースをやめるって、そう、言えれば……


「わかった」


声が聞こえた瞬間、私は思わず顔を上げていた。


「俺はもう、ここには来ない」


そう言った、くらまくんの顔が……


その、静かな声が……


もう、決めてしまったんだって。本当に、決めてしまったんだって。そう、教えてくれた。


取り返しのつかないことに、なってしまった。


くらまくんがここに来ない。私と一緒に、いてくれない。私のベースを、聴いてくれない。


嫌だ。だめ。くらまくんがいなくなったら、私は……


くらまくんが背を向けて、茂みのほうへ歩いていく。このまま帰してしまったら、本当にお別れになる。くらまくん。くらまくん……!


「ま――」




声は、


かけられなかった。




いつの間にか上げていた手は、何もつかめなくて。つかみたかったくらまくんの背中は、茂みのなかに消えて、もう、どこにもいない。


もういない。この場所にもう、くらまくんはいない。


今、ここには、私ひとり。


…………よかった。


そう、これでよかった。と、思う。引き止めていたら、私はベースをやめるしかなかった。これで私は、ベースが続けられる。私は自分を抑えられた。冷静になれた。よかった、よかった。


そう、自分に言い聞かせて、私は……


少しだけ、泣いた。




文化祭 16日前




次の日。私はあたりまえに学校へいった。


くらまくんとおなじ教室にいるのは、すごくつらかった。


秘密基地で会えなくても、学校で会えるから大丈夫だって、思ってた。


でも、話せないのに近くにいるのは、もっとつらいってことがわかった。


話したら、いいのかもしれない。でも、話し方がわからない。あんなわがままをいって、くらまくんとどんな風に顔を合わせたらいいのか、わからない。


ちゃんと話した。理由は言った。くらまくんもわかってくれた。だから大丈夫。大丈夫。大丈夫、な、はず、だけど……


…………。


くらまくんは、ほんとにわかってくれたの?


ほんとうは、私のこと怒ってて、呆れられて、それで、すぐに帰っちゃったとか……


ほんとうは、ほんとうは……


もっとたくさん、くらまくんとお話したかった。


離れ離れになるまえに、くらまくんと色んな話をして、夜までずっと話して、星を観ながら歩いて、私の家の前でありがとうって言って。


文化祭、がんばれよ、とか。そんなふうに、くらまくんに応援してもらって。


そんなふうにお別れできてたら、今頃きっと、こんな気持ちにはなってなかったのに。


つらい。苦しい。くらまくんと、話したい。


くらまくん……




*  *




放課後、秘密基地にいった。


くらまくんは、いなかった。


私は、ひとりでベースの練習をした。いつもくらまくんが座ってる木の根元に、背中を向けて。くらまくんに、練習してるところを見られるのは、恥ずかしいから。


今日は、くらまくんはいない。こない。わかってる。わかってても、この場所で、この向きでないと、いやだった。


ときどき振り返って、木の根元を見る。


くらまくんは、いない。


今日のベースは、いつもより調子が悪かった。




文化祭 15日前




くらまくんと話さなくなってから、3日目。


そう、たったの3日。このまえケンカした時よりも、ぜんぜん短い。それなのにこんなに苦しいのは、どうしてだろう。


くらまくんのことを考えると、苦しい。


くらまくんと、顔も合わせられない。


お昼休み、後ろからくらまくんに声をかけられたような気がして、振り向いて……でもくらまくんは、自分の机で眠っていた。


そんなことがあって、ようやく私は、自分が、くらまくんのほうから話しかけてきてくれるのを期待してることに気づいた。


私は、ずるい。


自分からくらまくんを遠ざけたくせに、こんなこと……期待だけ、するだなんて。


……でも、もしも。


もしもくらまくんと、学校でお話できるようになったら。


くらまくんと、一緒に帰ったり。


くらまくんと、一緒にお弁当食べたり。


そんなふうに、過ごせたら。


それはとてもすてきなことだと、私は思った。




文化祭 13日前




「カペ谷ベル子。アンタ、なんかあったの?」


週に一度の、揃いの練習の日。


その休憩時間に、ドラムでリーダーの赤井さんにそう聞かれた。


「なにも……ない、けど」


「ふーん、そう」


赤井さんは、いつも怒ったみたいな顔をしてる。今もしてた。怒ってるから怒った顔をしてるのか、怒ってないけど怒った顔をしてるのか、私には、よくわからない。


赤井さんのことが、よくわからない。今だって、何を思ってこんなことを聞いてきたんだろう。今日は、ずっと一緒に練習してただけ。もしかして、音に出てたんだろうか。うまく弾けてたと、思ったんだけど。


そんな疑問は赤井さんに見透かされたみたいで、何も言ってないのに、赤井さんは答えてくれた。


「別に。ただ、ガッコで倉間マダオがなんか変だったから、またケンカでもしたのかって思っただけよ」


「くらまくんが……変?」


「変よ。なんかどよーんとした顔してるし。ちょっと見ればわかるでしょ」


見てないから、わからなかった。


でも、そうなんだ。くらまくんが……


「つくづく思うけど、アンタってほんと無愛想よね」


とつぜん、吐き捨てるみたいに、赤井さんは言った。


私は赤井さんに嫌われてるみたいで、事あるごとにこういうことを言われる。


「どうせまたその無愛想のせいで、倉間マダオになんかやったんでしょ」


「そんな、ことは……」


「ないことはないでしょ。きっとアンタが気づいてないだけよ。倉間マダオも、よくこんなのと飽きずに付き合えるもんだわ」


「くらま、くんは……」


私は思わず、近くに置いてあったベースを引き寄せて、抱きかかえた。


私の、大事なベース。私が唯一、自信を持てるもの。


「私のベースが、好きなだけ、だから……」


「そうね。最初にそれ聞いたときは半信半疑だったけど、よく考えたらそうでもないと、アンタなんかと一緒にいる理由なんてないものね」


「…………」


――赤井さんも、そうなの?


そう聞こうとして、やめた。


だってそんなの、わかりきったことだから。


「だいたいね、アンタはいっつもいっつも……」


「はい、そこまでだよ」


赤井さんが続けて言おうとしたことは、オーナーさんに止められた。


「それ以上は、それこそ喧嘩になる。公演も近いし、今下手にぶつかると不味い。それにロリ子君もいつも言ってるだろう? 『個人の事情には必要以上に踏み込まない』と」


「…………。……そうよ、私のバンドは過干渉はナシ。外で会っても話しかけない。勧誘・恋愛は厳禁」


「そうだね」


赤井さんのことをじっと見つめるオーナーさん。


しばらくして、赤井さんのほうが根負けしたみたいに、ため息をついた。


「……私が悪かったわ。ごめんなさいカペ谷ベル子。倉間マダオがどうとか完全に言いがかりだし、私が言えたことでもなかったわ」


「…………」


私も悪かった、とか。気にしてない、とか。


そんな言葉が頭のなかをぐるぐる回って、でも、どれをどんな風に言えばいいのかわからない。私はいつも、こうなる。


「それはそうと……オーナー?」


「何かな?」


「私、何度も何度も何っっっ度も言ってるわよね。下の名前で呼ぶなって」


そうこうしてるうちに、話が進んでしまう。


これも、いつものこと。


「おや。そうだったかな、赤井ロリ子君」


「フルネームならいいってもんじゃないのよ!」


「まあまあ。可愛らしくていい名前だと、僕は思うけどね」


「ど・こ・が・よ!」


ロリ子ちゃんが怒鳴って、オーナーさんが優しく笑って。


それだけで空気は軽く、暖かくなる。


でもこの空気も、私には少し、居心地が悪い。


「それにねぇ……カペ谷ベル子!」


「…………、なに?」


「確かに、さっきのは私の言い方が悪かった。チームのルールにも自分から違反してたわ。……でもね!」


詰め寄るように、赤井さんは言った。


「私から聞くのはルール違反でも、アンタのほうから話すのはルール違反じゃないのよ!」


「…………」


私は察しが悪くて、当の赤井さんにも、そう言われたことがある。そんな私でも、今の赤井さんが何を求めてるのかはわかった。


でも、どうしてそこまで赤井さんが私とくらまくんのことを気にしてるのかは、わからなかった。


話したらいいのか、話さないほうがいいのか。


わからなくて、私はオーナーさんのほうへ目を向けた。


「無理に話すことは、ないんじゃないかな」


オーナーの言葉に、赤井さんが何か言おうとした。けど、言わなかった。


「カペ谷君が話したくないなら話さなければいいし、話したいなら話せばいい。話して楽になることもあるだろうし、もしかしたら僕たちが力になれるかも知れない。こう見えて赤井君も、君の力になりたいと思っているんだよ」


「わざわざこっぱずかしい言い方するんじゃないわよこのエセ紳士が」


ふんっ、と鼻を鳴らして、赤井さんは顔を背けた。


「私はリーダーなんだから、メンバーのことを気にかけるのはトーゼンでしょ。今は問題なくても、先でカペ谷ベル子が抜けるなんてことになったらこっちは大損害なんだからっ」


やっぱり、私の価値はベースにしかないみたいだ。


でも、それも仕方がない。


ベースだけでも価値を認めてもらえて、渋々でも、ここまで大事にしてもらえるのは、きっとすごく幸せなことだ。


だから私は、それに応えないといけない。


「くらまくんに……来ないでほしいって、言ったの」


「どこによ。てか、前から言ってるけど、アンタは順序立てて話すことを覚えなさいよ」


「秘密基地、に」


「だからっ! その秘密基地ってのは……ああ、アンタと倉間マダオが逢い引きしてる場所ね」


あいびきって言葉の意味はよくわからなかったけど、たぶん合ってる気がしたから、うなずいておく。


「なんでそんなこと言ったのよ。倉間マダオのこと、ウザくなったとか?」


首を振る。そんなふうに、なるはずない。


「じゃあ、なんでよ」


「……ベースを、うまくなるために」


「………………は?」


私は、くらまくんの前で話した気持ちを、もう一度話した。


くらまくんの前で弾いてるときの、怖くて、どうしようもない気持ち。


このままじゃ、ベースがうまくなれないと思ったこと。


だから、ベースのために、くらまくんを遠ざけたこと。


話してるうちに、赤井さんの目はどんどん吊り上がっていった。本気で怒ってるのがわかる。でも、何に怒ってるのかわからなくて、嘘をつくこともできなくて、結局最後まで、私は話し切った。


「……バカじゃないの?」


いつもはっきりしゃべる赤井さんらしくない、震えるような声だった。


でも、だからこそ、それは心の底から思ってることなんだって、わかった。


「本当、バカよ。演奏家がファンから逃げてどうすんのよ!」


「…………!」


言われて、気づいた。


そうか。私は、逃げてたんだ。


くらまくんの前でベースを弾くのが怖いなら、その怖さを乗り越えて、弾かないといけなかった。すごいベーシストになりたいなら、そうしないといけなかった。


でも、私は逃げた。


どうしてだろう。どうして、私はベースをうまくなるためって思いながら、逃げて、逃げたことにも気づけなかったんだろう。


「いい、カペ谷ベル子。アンタもプロになるなら、それぐらいは乗り越えてみせなさいよ。これから先、もっと怖いことがいっっっぱいあるし、いつまでも逃げ続けていられないんだから」


「私、は……」


「たかがファンの一人がなんなのよ! そんなのいなくなったところで、後から百人ファンを作ればそれでいいじゃない!」


「…………っ!」


身体に、電気が走ったみたいだった。


赤井さんの言葉に感銘を受けたから――じゃない。違う。


そう、違う。


「……違う」


赤井さんの言ってることは、違う。間違ってる。


さっきまでは、そうかって思って、納得した。


でも今のは、違うって思った。


「違う? 何が違うってのよ。言ってみなさいよ」


なんだろう。違うのはわかる。でも、何が違うんだろう。


言葉にならない。でも違う。くらまくんは、違う。くらまくんは、私にとって、くらまくんは……


「またそうやってだんまり。なんなのよ、なんなのよ本当に。私だって、私だってね……!」


「まあまあ、落ち着いて赤井君。カペ谷君にも思うところはあるんだろう。今日の練習はここまでにして、解散にしないか?」


「オーナーは……! っ、……いいわ。いいわよ。でもね、カペ谷ベル子。私はアンタのこと、諦めないんだから。ぜったい、ぜったいに私は、アンタと――」

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