裁き
地下シェルターの空を、アエルは見上げていた。
ずっと見ていても、それは移り変わることがなかった。よく見れば、確かに天井なのだ。巧妙に青空が再現されてはいるが、かすんだ大気の向こう側に終わりが見える。太陽も、凝視していればただの球体であることがわかった。わかってしまえばひどく稚拙で、余計に意味のないものに思われた。
どこまでも続くと思われた空間も、途中からは巨大な絵画に切り替わっていた。広大な敷地を使ってはいるものの、要するに、見かけ倒しのただの部屋なのだ。ティグレは遊び心といっていたが、それにしてもくだらない。足下の花も草も、すべて作り物で、息などしていない。
それでも──アエルは思った。それでも、感情を麻痺させるには充分だと。
かつてはどこの町も、このような景色だった。背の高い建物はほとんどなく、小さな木造の家が並び、草花が溢れていた。家々からこどもたちが飛び出して、手を取り合ってはしゃぎ出す。何をするというわけでもない。彼らは、共にいるということが、そのまま遊びにつながるのだ。
顔いっぱいの笑顔で、追いかけて、追いかけられてをくり返す。歩くこともおぼつかないような幼子を連れ出す若い母親や、楽しそうに笑うこどもたちを、温かく見守る老夫婦の姿も見える。小鳥がさえずり、木々の間から小さな動物が顔を出す──
やがて、その景色に、異質なものが入り込んだ。それは空から降りてきて、こどもたちの注目を集めた。
それは少女だった。少女は歌を披露した。どこまでも響き渡る澄んだ声で、ただ、歌った。
ただそれだけのことで、あたりは地獄絵図と化した。赤子が息絶え、母親が取り乱す。こどもたちの顔も恐怖に染まり、ひとり、またひとりと、内側から皮膚が膨張し、破裂していく。恐怖の声が聞こえる。罵る声が聞こえる。懇願する声が聞こえる。
そのすべてから目を逸らして、少女は歌った。歌い続けて、静かになるのを待った。
一切の物音がしなくなって、やっと少女は歌をやめる。そこにあるものを、見る。そうして、あらゆる感情を抱くことなく、再び空へと舞い上がる。
「夢でもみているのかしら?」
問われ、アエルは我に返った。
そうだ、夢だ。彼女が歌ったのは戦場だ。平和な村ではない。
しかし彼女には、何が現実で何が夢なのか、もうわからなくなっていた。そのどちらもが、恐ろしいほどに鮮明なのだ。
「……あなたに用はないけど」
現れた人物を一瞥し、アエルは冷たくいい放った。アエルの目の前に立っていたのは、黒い
ドレスの妖艶な美女だった。赤い髪の悪しき者──グリーヴァだ。
グリーヴァは左手を腰に当て、高圧的にアエルを見下ろした。地べたに座る彼女に右手を伸ばし、その顎に触れ、くいと持ち上げる。
「アタシにはあるのよ。アンタを殺しにきたの。やり合ってくれるんでしょう?」
「殺す?」
首を傾けて、その手から逃れる。
「おばさんさ、コスモスに飼い慣らされてるんでしょ? コスモスの偉い人……ティグレ=ガナドールって人からビジネスの話を持ちかけられたんだけど。殺しちゃっていいの?」
単純に疑問だった。グリーヴァは鼻で笑い、顎を突き出してアエルに迫る。
「イイのよ。アタシが仕えてるのはそれよりもっと偉い人、カメロス=ガナドールだから。カメロスが殺していいっていったの。だから殺すのよ。──それにしても、カメロスのいったとおりね。アンタ、ビジネスの話なんて持ちかけられたの? やめときなさいよ。アタシに殺された方がずっとラクでしょう?」
「楽に殺してくれるならね」
鼻と鼻が触れるのではないかというところまできて、アエルはすっと身を引いた。上品とはいいがたい甘い香りが漂ってきて、酔いそうだ。
「でもあたし、おばさんのこと嫌いだからさ。おばさんが殺して死ねるぐらいなら、自分で死ぬよ」
「死ねるわよ」
グリーヴァは舌で唇を舐めあげた。胸元に手を入れて、もったいぶるようにして谷間から小さな球体を取り出す。ビー玉サイズのそれを、全部で四つ、指の間に挟んだ。
「カメロスにもらったの、これ……なんだかわかる?」
それは、それぞれ違う輝きを放っていた。とはいえ、答えは一つしか思い当たらない。
「ジュリスでしょ」
興味なさそうにつぶやく。グリーヴァは微笑した。
「このジュリス一つ一つに、増幅の魔法が込められているの。ザーパト最高位の魔法士と讃えられる、カメロスの魔法よ。これをね、こうして……」
わざと見せびらかすようにして、舌先に乗せる。一つ、二つと口に入れ、すべてのジュリスを飲み込んだ。アルコールに酔ったかのように、グリーヴァの目がとろりと下がる。恍惚とした表情で、小刻みに震えだした。
「……あなた……」
アエルは立ち上がり、慎重に距離を取る。ジュリスを飲み込んだ瞬間の、グリーヴァの肉体の変化が、空気を通して伝わってくるようだった。もともと彼女を覆っていた赤い光が、さらに輝きを増す。
「増幅の魔法なんて……よっぽど効力を下げても、危険だってことぐらい、あなただって知ってるでしょ。ヴァストークの兵は、そうやってたくさん死んでいった。そんなものを四つも飲んだら、いくら悪しき者でも──」
死んでしまうかもしれない、と続く言葉を遮るように、グリーヴァは高らかに笑い出した。瞳孔の開ききった目を、ぎょろりとアエルに向ける。彼女は両手で赤髪をかき上げて、何本も髪を引き抜いた。
「ステキ……! 生まれ変わったみたいだわ! これならアンタを殺せる──!」
「──!」
ほとんど反射だけでアエルが飛び退くのと同時に、地面に無数の赤い刃が突き刺さった。以前対峙したときとは、スピードも威力も桁違いだ。刃に貫かれた作り物の草が、強烈な熱を浴びたかのように炭と化す。
一瞬、アエルは考えた。もしかしたら、本当に、死ぬことができるかもしれない──
「どうして逃げるのよ? 殺されなさいよ。死にたいんでしょう。数え切れない人間を殺して、後悔して、でもどうしようもないから死にたいのよね? 逃げたいのよね? イイじゃない! アタシが手伝ってあげる!」
グリーヴァの髪が生きているかのように宙に広がり、それらすべてから光がほとばしる。赤い光がアエルの視界を支配した。何かが爆発したような衝撃が、グリーヴァを中心として、放射状に炸裂した。
*
「……どういうことですか、父さん」
部屋を訪れたカメロス=ガナドールから聞かされた事実に、ティグレは反論せずにはいられなかった。それでは、計画が台無しだ。ティグレが組織長に就任して二十余年、ほとんどすべての力を、このためだけに注いできたというのに。
「重ねずとも理解して欲しいのだがな。言葉どおりだ。歌姫はあきらめろ」
杖を持つ手にも、厳しく息子を見つめる顔にも、皮膚という皮膚には皺が深く刻まれているにもかかわらず、カメロスという人間はまるで威圧感の塊のようだった。九七歳になるというのに、その眼孔は衰えず、老いを感じさせない。
「……ですが、彼女の歌のジュリスが高値で売れることは、間違いありません。以前の大戦とは比べものにならないほどの儲けが出るはずです。もう、歌姫は本部にいるというのに、なぜ止めるのですか」
気圧されながらも、父の目を見つめ返して、ティグレは説得を試みた。彼にしてみれば、これほど状況が整っているというのに、みすみすチャンスを逃せといわれている理由がまったくわからないのだ。
カメロスは、鼻を鳴らした。
「貴様の理解力はいまだにその程度か」
嘲笑し、デスクに座るティグレに歩み寄る。
「先の大戦で、戦力としてはザーパトが圧倒的有利に立っていたにもかかわらず、大勝とならなかったのはなぜだ」
「ヴァストークの歌姫の存在があったからです」
考えるまでもなかった。だからこそ、とティグレは続けた。
「その歌姫が、いま、我々の手中にあるのです。それなのに、なぜ──」
「ではその歌姫を有しながら、なぜヴァストークは負けたのだ」
「……?」
ティグレは眉根を寄せた。ザーパトが圧倒的有利に立っていたと、カメロス自身がいったばかりだ。
答えなど期待していない、といわんばかりに、カメロスは息を吐き出した。
「やつは化け物だ。利用しようなどと考えるな。手に負えない力を持てば、必ず不測の事態が起きる。生かしておいてもならん。ヴァストーク側に力が渡っては本末転倒だ。──いいか、戦争で金を儲けたければ、バランスを第一に考えろ。うまく両方を操って、武器と物資を売りさばき、展開そのものを操作しろ。そのためには、強大すぎる力は邪魔なだけだ」
その言葉を、ティグレは噛みしめた。しかしそれでも、納得できない。表情からそれが伝わったのか、カメロスは続けた。
「貴様は歌姫を知らないから、利用できるなどと愚かなことを考えるのだ」
重く、ゆっくりとした口調だった。戦争が始まった六五年前──武器売買に奔走し、コスモスを強大化させたのは、他でもない、カメロス自身だ。
だからこそ、経験として、彼は語っているのだ。大戦時、まだ生まれてもいなかったティグレには、たしかにわからないことなのかもしれない。
「それでも……それでも、うまくやってみせます。こんなチャンスはもう──」
遮るように、ノックが響いた。
ティグレが言葉を飲み込む。
「先約があったのか? 良い、どちらにしろ用はそれだけだ」
「いえ、先約など──」
去ろうとするカメロスを呼び止めようと、立ち上がる。すぐにもう一度ノック音がして、ティグレはいらいらと声を張り上げた。
「聞こえている! いったい何の用で──」
「失礼します」
許可もないのに、戸が開いた。そこにいたのは、リストとエイラだった。意外な客に、ティグレは言葉が出ない。まさか、のこのこやってくるとは思っていなかったのだ。
「これはこれは──」
リストに目を合わせ、カメロスは目尻の皺をさらに深くした。杖を突きながら歩み寄り、右手を差し出す。
「リスト=グランデだな。活躍のほどは聞いている。貴殿の活躍があってこそ、歌姫に相まみえることができるのだ。礼をいおう」
リストは、その右手を握り返しはしなかった。あとから入ってきたエイラが扉を閉め、その音だけが奇妙に響く。
ティグレの部屋には、必要最低限のものしか置かれていない。彼自身、死角のある部屋というものを好ましく思っていないこともあり、決して広い空間ではない。そこに、コスモス組織長ティグレ=ガナドール、コスモス設立者であり現在も最高責任者を務めるカメロス=ガナドールが揃っているというのは、リストやエイラにとってみれば、驚くべき光景だった。
そこに二人が合流したことで、部屋は窮屈なほどになった。しかも、そこにいるだれもが、重い空気をまとっているのだ。
エイラは、以前この場所に来たときよりも、よほど緊張していた。身体が汗ばむのがわかる。それでも、あのときのように、何もわからない状態ではない。いまの緊張は、ただ受け身に撤するような、弱気なものではない。
それはリストも同じだった。彼は、差し出された手すら見なかった。目の前のカメロスの、その衰えることのない鋭い瞳を、正面から見据えた。
「彼女を、殺すのですか」
ずっと身分が上の男を前にしても、その声は決して震えてはおらず、むしろ怒りが込められていた。
「盗み聞きか」
「聞こえたのです。生かしておいてはならない、と」
カメロスは笑んだ。真意のつかめない笑みだ。ティグレはあきらめたように椅子に座り直す。カメロスの代わりに、言葉を投げた。
「一介のツヴァイやドライが口出しすることではありません。下がりなさい。我々はまだ、話の途中です」
「話はもう終わっている」
息子をふり返りもせず、ぴしりと返す。ティグレが何ごとかをいおうとしたが、それよりも早く、エイラが前へ進み出た。
「用があって参りました。歌姫の居場所を聞こうと思ったのです。しかし……話の断片が聞こえてしまっては、そのまま聞かぬふりをすることなどできません」
これは本当のことだった。何はともあれ、アエルの居場所を聞き出さないことには始まらないと思ったのだ。まずアエルに会い、よく話し合って、その後のことはそれから考えるつもりだった。
しかし、扉の前まで来てみれば、聞き捨てならない会話が行われていた。リストとエイラの二人は、そのまま動けなくなり、聞き入ってしまった。
「……戦争の展開を操作しろ、と聞こえました。これは、どういうことなのですか」
エイラが、固い声で問う。たしかに、カメロス=ガナドールはそういったはずだ。そして、儲けろと。
リストとエイラの目が、カメロスを射抜く。ティグレも、この父親がどのように答えるのか興味があった。椅子に深く腰を下ろした状態で、カメロスを仰ぎ見た。
「そのままの意味だよなあ」
第三者の声が、それに答えた。
声の方向に視線が集中する。リストだけは、その声に覚えがあった。黒縁眼鏡の少年が、書棚の上で横になって、肩肘をついた状態でこちらを見下ろしていた。
「あなた……」
エイラにも、かすかに見覚えがあった。ベイスの町で、リストと一緒にいた少年だ。すぐに姿を消してしまったことを、気に留めていなかったが。
「……無礼な客が多いな。おまえの部屋はいつもこうか?」
「まさか。彼にいたっては初対面ですよ」
カメロスの不機嫌そうな問いに、無感情にティグレが答える。クルイークは足を投げ出すと、両手を書棚について、身を乗り出した。
「あんたらの悪だくみ、台無しにさせてもらったぜ。気になってさ、ちょっとヴァストークまで行ってきた。港町じゃ、おもしろい噂話でもちきりでさ。海にザーパトの船が出てて、攻撃の機会を狙ってるっていうんだ。また戦争が起こりそうだってな」
「それって……」
リストは、素早くカメロスとティグレの顔色をうかがった。カメロスは無表情だが、ティグレは明らかに動揺していた。
ベイスで聞いた噂話と、同じ内容だ。ただ、ベイスで聞いたのは、「海にヴァストークの船がいて攻撃の機会を狙っている」というものだったが。
要するに、どちら側も、向こうが戦争を仕掛けてくるのではと怯えているということだ。
「……台無しに、というのは?」
静かに、カメロスが先を促す。クルイークはにやりと笑んだ。
「ちょっと一暴れしてきた。んで、戦争が始まるってのは、悪しき者がイタズラで流した作り話でしたーってことにしといた。単純だけど、台無しだろ? あんたらにとっちゃさ」
「なるほど。それしきのこと、といいたいが……たしかに台無しだ」
それほど衝撃を受けた様子もなく、カメロスは淡々と返した。おもしろくなさそうに、クルイークは唇を曲げる。もっと悔しがるかと思ったのだ。
「つまり……」
頭をフル回転させて、エイラは情報を整理しようとした。本当はそこまでしなくとも、もう答えは出ていた。信じたくない、というのが正しい。
「……戦争開始すら、操ろうとしてたということ? 何のために?」
そう口に出してから、気づく。何のためになどと、愚問であるに違いない。戦争の展開を操作するとまでいったのだ。そうして、儲けるのだと。
「前の戦争のときだって、あんたら向こう側にもこっそり武器売ってたもんな」
「君は悪しき者だろう。なぜ、人間の争いごとに介入する?」
クルイークの言葉に答えず、カメロスが問いを重ねる。しかし、肯定も否定もしなかったことが、それが事実なのだと暗に告げていた。リストはぞっとした。目的のためなら手段を選ばない組織だと知っていたが、これほどとは思わなかった。エイラなどは、ここ数日で驚くことばかりだ。自分の所属している組織が──ザーパトにおいて絶大な権力を誇るこの巨大組織が──まさか、そんなことをしているなどと、夢にも思わなかった。
「戦争が始まったら、またあいつが泣くだろーがよ」
急に真剣な声で、クルイークがつぶやく。リストははっとして、彼を見上げた。
悪しき者である彼が、なぜ戦争のことを気にかけているのか──明確な答えが、やっとわかった。
ひどく単純な理由だったのだ。だからこそ、彼は動いた。
「……物好きもいたものだな。似たような物好きを、一人知ってはいるが」
カメロスが嘲笑する。それはグリーヴァのことに他ならなかった。一緒にするなよ、とクルイークは眉間に皺を寄せる。
「物好きついでに、いっこ質問してーんだけど」
その表情のままで、ぬけぬけとそんなことをいいだした。質問するような空気ではないことは明白だったが、かまわずに、勝手に続ける。
「そっちのじーちゃんも、タレ目もさ。ふつーにあいつを殺すだのなんだのっつってるけど、どういうことなわけ?」
その問いに、エイラとティグレだけが反応した。
ヴァストークの歌姫に下された裁き──それは、不死であったはずだ。ならば、殺すことなど、不可能なのに。
堪えきれない、といったように、カメロスが笑い出す。最初は抑えるように静かだったそれは、やがて高笑いに変わっていく。
だれもが、彼を見た。しかし、だれかが彼に言葉をかけるより早く、部屋全体が大きく揺れた。
「──っ、と!」
クルイークがバランスを崩し、書棚から飛び降りる。エイラはよろめいて、リストに捕まった。その中で、唯一カメロスだけが、杖を支えにして身じろぎしなかった。
メランタワーで経験した揺れよりも、もっと根本から揺れているような感覚だった。一度大きな衝撃があった後も、揺れは収まる気配を見せない。
それは地響きに似ていた。まるで、この建物そのものが沈没するのではないかと思われるほどだ。
どれほど続いただろう。そのうちに、揺れは収まった。
「……なんなの」
ぽつりと、エイラがつぶやく。カメロスはティグレに目をやった。
「危険だな。本部にいる職員をすぐに全員避難させろ。崩れるかもしれない」
ごく淡々と、指示を出す。ティグレは目を見開いたまま、声を発せられずにいたが、やがてその意味に気づいたようだった。さっと顔色を変えて、立ち上がる。
「あなたは、まさか──! グリーヴァを遣ったのですか!」
「考えるのは後だ。建物はつぶれても、いくらでも修復できる。この上人員まで失ったらどうなるかわかるだろう」
静かに告げて、クルイークとリストと、エイラの隣を通り過ぎ、扉の前に立つ。開ける前に、悠然とふり返った。
「貴様らは共に来るがいい。不死といわれた歌姫の死の瞬間を、見届けようではないか」
「──っ!」
地面にたたきつけられて、アエルは苦痛に顔を歪めた。すぐに刃が降り注ぎ、身をよじってそれをかわす。体勢を立て直す余裕などない。口の中で言葉を紡ぎ、走り抜けながら結界を形成する。結界が破壊される、その僅かな隙間に、跳躍して迎撃体勢を整える。
しかし、決断できずにいた。そのためらいを逃さず、刃が突っ込んでくる。攻撃のための魔力で刃を破壊して、建物の中に逃げ込んだ。息を殺すが、すぐに建物そのものが崩れ落ちる。
アエルは舌打ちした。息をつくひまもない。
「どうしたの、歌姫さん。さっきから逃げてばかり。死にたいんじゃなかったの?」
空中から、グリーヴァがそう声をかけた。アエルはそちらを見返したが、その向こう側にはすでに空はなかった。投影していた装置が破壊されたのだろうか。天井に亀裂も見える。何がシェルター、とアエルは内心で毒づく。内側からの衝撃には、これほどまでに弱いものなのか。
「おばさんこそ、外見に気をつかってるんじゃなかったの。髪も乱れちゃって、顔だって怖いし、何よりその身体。膨張しちゃって、みっともないよ」
「口のへらないガキね」
声は怒りを含んでいたのに、グリーヴァはにたりと笑った。その身体は、増幅の魔力に耐えきれなかったかのように、あちらこちらが膨れあがっていた。手足が奇妙に長くなり、関節と関節の間が盛り上がっている。ウィンナーみたいだ、とアエルは思う。
表情も、まるで別人のようだった。瞳孔の開いた目は、一度のまばたきをすることもなく、極端につり上がっていた。顔中の皮膚がほお骨で持ち上げられたかのように上向き、笑みの形を作り上げている。口の両端は裂けんばかりに上へせり上がっていた。もはや、美しい、美しくない、の問題ではない。
「いったでしょ。おばさんが殺して死ねるぐらいなら、自分で死ぬって」
「アッハ!」
グリーヴァが甲高い声をあげる。それが笑い声であったのだと、アエルは一瞬理解が遅れた。もう、ほとんど表情もわからないのだ。彼女自身、すでに理性などないのかもしれない。
「さっきからオイシイわよ、アンタの感情! 迷ってるのかしら? 死ねるかな、死のうかな、どうしようかなって! イイわね……! ステキ!」
赤い髪が、生きているかのように波打つ。そのすべてが、アエルに照準を合わせた。
「でもネ、食べてばかりもいられないのよ。アンタを殺したいの、アタシ!」
「…………」
理屈ではなかった。胸の奥からわき上がる嫌悪感に、アエルは眉を歪める。繰り出される攻撃をかわしながら、両の手を合わせた。地を蹴り、空中で刃をかいくぐり、グリーヴァに迫る。
「やっと本気になったの?」
心から楽しそうにグリーヴァが笑んだ。彼女が両手を払うと、腕そのものが剣に姿を変える。アエルは彼女の両肩に手をつくと、そこを支点にして逆さまに飛び上がった。
それは痛みを伴うものではなかった。しかし、一瞬触れただけの両肩から、力の塊のようなものが流れ込んでくるのを感じた。グリーヴァの腕が、さらに容量を増す。
「なんのマネ?」
「こうするの」
アエルが着地するのを合図とするかのように、グリーヴァの髪がぶわりと舞い上がった。グリーヴァ自身の両肩を向いて、一瞬動きが止まる。
「──!」
意志など関係なかった。赤髪は、二つの束になり、持ち主の肩を貫いた。
声も出せず、グリーヴァが前のめりになる。浮遊することすらできず、そのまま地面に崩れ落ちた。
「力の矛先を変えるのなんて簡単なの。人間はね、悪しき者と違って、頭を使うってこと知ってんだよ、おばさん」
横たわるグリーヴァを見下ろす。忌々しげにアエルを睨みつけたが、グリーヴァはまだ立ち上がれないでいた。
「ナニが人間……アンタなんてただのバケモノでしょう」
「いまのおばさんほどじゃないよ」
アエルは片眉を上げて、グリーヴァの前にしゃがんだ。頬杖を突き、変わり果てた姿に目を細める。
哀れむつもりなどない。ただ、ばかばかしくなってきていた。いったい何をやっているというのだろう。この悪しき者も、自分も。
「もうやめない? おばさんさ、どうしてそこまでするの」
「…………」
グリーヴァは、かすむ視界で、傷一つ追っていない少女を捉えた。増幅のジュリスを四つも使いながら、それでも歯が立たないのだ。力がみなぎっているというのに、彼女は赤子の手をひねるように、いとも容易に自分に勝とうとしているのだ。
「これほどナニかを強く望んだのは初めてだわ」
凪いだ声で、グリーヴァはつぶやいた。それはあまりにも小さなつぶやきで、アエルにまで届かない。もしかしたら、口に出しているという自覚はないのかもしれない。
「アンタに勝たないと、今度こそ見放される……もう一緒にいられなくなる……アタシには、カメロスだけが……!」
どくん、とグリーヴァの身体が波打った。彼女を覆っていた赤い光が、より深い赤へと変わる。
アエルは、この光を知っていた。使役されている悪しき者だけが持つ光だ。それが濃くなったということは、使役者が何らかの手を加えたことを意味する。
「ア……アア……」
グリーヴァはいっそう目を見開き、絞り出すような声で呻く。赤い輝きは厚い層となり、繭のように彼女の身体を包み込んだ。そのまま、高く高く持ち上げられる。
ひどくゆっくりとした速度で上昇し続け、やがて糸が切れたように、止まった。次の瞬間には、それは落下を始めた。正確には、単なる落下よりもよほど速いスピードだった。アエルがまばたきもできないでいると、グリーヴァは恐ろしい勢いで、アエルの目の前にたたきつけられた。人工の地面に亀裂が走る。
グリーヴァは意識を失っていた。夢でも見ているかのような思いで、アエルは落ちてきたグリーヴァの向こう側へと視線を動かす。
予感があったのだ。カメロス、という名には覚えがあった。気づかないままでいたかったのかもしれない。
「役立たずが」
視線の先には、皺だらけの老人が立っていた。その向こう側に、リストとクルイークと、エイラの姿も見える。
しかし、アエルの目には、カメロスしか見えていなかった。様々な情報が瞬時に脳裏に去来する。同時に、思い出される、あの日の記憶。
「カメロス=ガナドール……」
ティグレに聞いた名を、つぶやく。
アエルは彼を知っていた。
五十九年の年月を経て、面影などないに等しかったが、それでも、わからないはずがなかった。
『裁きを──』
無表情で、そう唱えた彼ら。
彼女を囲んだ四人の術師たちは、口々にいった。
『裁きを──』
『裁きを──』
『裁きを──』
最高位の術師たちは、彼女に裁きを下そうと、彼女を取り囲んでいた。
その中に、当時はまだ若者であった彼もいた。
八つの手が、彼女に伸ばされる。
あの日に、始まったのだ。
この苦しみ。この絶望。この──
「久しいな、歌姫」
変わらぬ声で告げられて、アエルはびくりと身を震わせた。
ひどくゆっくりとした足取りで、カメロスはアエルに向かって歩いてきた。埃を払うような仕草で、右手を軽く一振りする。それだけの動きで、地面に倒れ伏していたグリーヴァが、数メートル先の壁際まで飛んだ。まるで、紙の人形のように。
「十七年間の自由を満喫したのだろう。貴殿に生きていられては都合が悪いのだ。そろそろ、死んでいただけるかな」
「死…………ぬ、なんて…………」
喉が干上がってしまったように、うまく声が出てこない。それなのに、身体中を汗が冷やしているのを感じた。恐怖なのか、憎悪なのか、アエルにはわからない。ただ、この男の目に射すくめられたかのように、動くことができなかった。
それでも、アエルは懸命に声を絞り出そうとした。一歩、一歩と近づいてくる彼が、ここに来てしまうまでに、いわなくてはと思った。
「……それを奪ったのは……死すら、許さなかったのは……あなたたちでしょう」
「奪う?」
カメロスは両目を細めた。笑いをこらえるような、哀れむような表情を浮かべ、歩を進める。
そうして、アエルの前に立った。手を伸ばし、その頬に触れる。
「まだそんな愚かな思い違いをしているのか、哀れな歌姫」
カメロスの手は恐ろしいほどに冷たく、アエルは身じろぎできない。あの日から唯一変わっていない鋭い瞳に、自分の姿が映し出されているのを見た。ひどく怯えた表情だ。
「我々が下そうとした裁きは、意識のみを残した永久凍結──だが、不可能だったのだ。自分がどれほどの化け物か理解していないのだろう、歌姫よ。どんな術も、貴殿には効かなかったのだ。結果、ヴァストークの歌姫に与えられた裁きは──」
もったいぶるように頬を撫でる。目を見開いたままのアエルに、真実を告げた。
「──幽閉だ。永遠の幽閉。もっとも、十七年前、貴殿は逃げ出したがな」
「………………………………ゆう、へい?」
カメロスは、左手の杖を持ち上げた。杖の柄を握りしめ、左右に軽くねじる。柄の部分が外れ、ナイフが取り出された。音もなく、杖であったものが地面に落ちる。
「最期だ」
外見からは想像もつかないほどに、恐ろしい速さで刃を振り上げる。しかし、それは宙を切った。クルイークがアエルを抱きかかえ、すんでのところで飛び退いていた。
「おいこら! そんなんじゃほんとに死ぬぞ」
一度の跳躍で、アエルを抱えたままカメロスから距離を取る。しかし、腕の中のアエルの肢体には、ほとんどの力が入っていなかった。彼女は呆けたように、虚空を見つめていた。
「…………あたし…………」
呻くようにつぶやく。
それならば、どうして、死ねないのか。
どうして、見えるのか、聞こえるのか、消えないのか──
「ちゃんと聞けよ。こいつらがいる限り、戦争は起こるぞ。金儲けのために、情報を操作して戦争起こそうとしてやがった。……アエルちゃん、死ぬのはいいけどさ、こいつにだけはやられんな。価値が下がるぜ」
クルイークの言葉が、脳にまで届かない。何をいっているのかわからない。クルイークと、再び歩み寄るカメロスを見る。まわりの景色すべてに、死ぬ間際のたくさんの命が見えるような気がした。自分が奪った、命の数々。
それならば、自分は、自分の意志で、生きていたというのだろうか。
あれほどたくさんの命を踏みつぶしておいて、のうのうと、生きてきたのだろうか。
「あたしは…………」
目の前の現実と、記憶とが重なる。何が真実で、何が虚実なのかわからなくなる。どうすればいいのかわからない。何もわからない。
「あたしは──!」
何かがはじけた。アエルを中心として、強大な力が飛び出す。衝撃を受け、クルイークは後方に吹き飛ばされた。完全な不意打ちに防御の術もなく、地面に転がる。
力の風を受けながらも、カメロスはその場に立っていた。変貌した目の前の少女に、彼の身体は震えていた。恐怖からではない。それは、歓喜だ。
「おお……! 歌姫よ! 敵と知りながらも、貴様の歌には心打たれずにはいられなかった! 歌うがいい! だが私は死なぬぞ! 私は生き抜いてみせる!」
カメロスは瞳を大きく見開き、ナイフを捨てて両手を広げた。力すべてを受け止めるかのように、身体を反り返らせる。
アエルの全身は、黒い輝きに満ちていた。頭を抱えた彼女の周囲に、黒い光の渦が生まれていった。それを見る数々の瞳が、遠い日の瞳と重なる。そうだ、いつものことだ──いつものように、歌えばいい。それですべてが終わるのだ。
「あの子、どうしちゃったの? 本当に、歌ったりしたら……」
昇降装置の影で風をしのぎ、エイラが声を張り上げる。しかし、呼びかけた背中は、こちらをふり返らなかった。リストはアエルから目を離せないでいた。
「……正確には、歌うことで命がすべて消えるわけじゃない。歌という媒体に乗せているだけで、それは単純に魔法だ。事実、彼女の歌を聞いたことのある生き証人は現在でもたくさんいる。彼もそうだ」
視線はそのままで、リストはつぶやいていた。強風の中で、その声はエイラには届かない。しかし、最初からそれは、ほとんど独り言だった。自分にいい聞かせるように、彼は続けた。
「俺もそうだ。俺も、あの日、聞いたんだ。その歌で、俺は──」
渦の中のアエルの姿と、少年の日に見た歌姫の姿が、重なった。
彼女は歌ったのだ。そうして、自分を、助けてくれたのだ。その時に、気づいた。その目を見て、わかってしまった。
「──アエル君!」
腹の底から声を出し、リストはアエルに向かって歩き出した。立ち止まるつもりも、逃げるつもりもなかった。カメロスの隣を通り抜け、少女に近づいていく。
「君は知っていたんだ! 君が死んでも、君が忘れても、君が傷ついても、そんなことで事実は変わらないってことを、知っていたんだ。君は死ねなかったんじゃない、死ななかったんだ。忘れられないんじゃない、忘れなかったんだ。そうやって、どうにかして、償いたかったんだろう!」
リストは気づいていた。不老不死ということに疑いすら持たなかったが、それならば、つじつまが合わないのだ。老いることができないということは、彼女の中で時が止まっているということだ。ならばなぜ、胎児の状態になることができたのだろう。なぜ、育つことができたのだろう。本当についた傷が自動的に癒えてしまうなら、なぜ、彼女の両親は、そのことについて何もいわなかったのだろう。
すべては彼女の意志なのだ。
彼女の意志ならば、知っていた。
遠い昔に見たその目は、自分の目と同じだった。死にたくないと願ったリストと、同じ目をしていたのだ。
「君は──!」
黒い渦に触れると、リストの皮膚が引き裂かれた。それはまるで、刃の塊だった。アエルの心と同じだ。触れるものすべてを拒絶する、鋭利な刃物。
それでも、リストはためらわなかった。唇を噛みしめ、息を吸い込んで、両手でアエルの身体を抱きしめた。
「君は、生きていいんだ」
ずっと告げたかった言葉を、告げた。
それは、自分が思い描いていたものよりも打ち震え、消え入りそうな声だった。それでも腹に力を込めて、リストは声を絞り出した。
「君はまだ、君の人生を、生きていないじゃないか。楽しいことも、嫌なことも、ぜんぶ経験して、笑ったり泣いたりしながら、生きていけばいい。できるなら、俺は──」
その先はもう、続かなかった。ぶつりと途切れるようにして、リストは崩れ落ちた。最後までしがみついていた指からも力が抜け、アエルの腕に、血の跡が残る。
エイラが悲鳴をあげた。カメロスの嘲笑が聞こえる。クルイークが、何かを叫んでいる。
「…………生き…………る……?」
瞬時に、アエルの脳に記憶が蘇った。
十七年前のあの日、幽閉されていた牢から逃げ出したあの日、一人の少年を助けた。彼は死を望んでいるのだろうと思った。両親も、友人も、村人すべてが死に絶え、一人だけ残されて、死にたがっているのだろうと思った。
しかし、彼はいったのだ。死にたくないと。生きたいと。
羨ましかった。
生きることをまっすぐに望んだ少年が。
本当は、ずっと、思っていたのかもしれない。それでも、そのとき初めて、彼女は願ったのだ。
「あたしは……」
身勝手だということはわかっている。
許されないということもわかっている。
しかし、死んでも、悔いても、嘆いても、事実は変わらないのならば。犯した罪が消えないのならば。償えることなどできないのならば。
「いき、たい」
ひと筋だけ、涙が流れた。
アエルを取り巻く黒い渦は、いまや地下シェルター全体を覆うほどに巨大になっていた。それは彼女の下にクレーターを作り、壁や床に亀裂を走らせていた。
もう限界だった。
耐えることをやめたかのように、床が抜け、天井が落ちてくる。作り物の草も、花も、家々も、すべてが埋もれていく。
アエルは、小さく息を吸い込んだ。
自分の膝で血まみれになっているリストの手をそっとつかみ、目を閉じる。
そうして、透き通るような声で、歌った。
その不思議な歌は、ジュリスからジュリスへと感染していくように広がり、大陸中に響き渡った。まるでジュリス同士が共鳴し合い、囁き合い、歌い合っているかのようだった。歌が止むまでの長い時間、大陸に住む人々は、歩みを止め、仕事の手を止め、いさかいを止めて、大地を包み込む歌に酔いしれた。
やがて、歌は止んだ。役目を終えたとばかりに、大陸に存在するすべてのジュリスが砕け散った。
人々はそれを、歌姫の奇跡と呼んだ。
生活の半分以上をジュリスの力に頼っていた人々は、新しい生活に慣れるまでの期間、苦しい生活を余儀なくされたが、それでもそのできごとを呪いとは呼ばなかった。
呪いと呼ぶには、その歌は、あまりにも純粋で、美しかった。
そうして、月日が流れた。
*
「ちょっと、どうして苺パフェがないの」
混雑する『カフェ・ジョカットロ』のカウンターで、少女は店員に詰め寄り、不機嫌な面持ちで不満を口にした。
店員は、慣れた調子で、淡々と説明を始める。
「もうしわけございませんが、こちらの地方では苺の収穫ができないため、メニューから削除いたしました。新商品のオレンジパフェはいかがでしょう」
「そんなこといっても、前はあったでしょ。あのね、いくら経営者が変わったからって、そういうとこまで変えなくてもいいんじゃないの」
店員は笑顔のままで、もう一度頭を下げる。
「もうしわけございません」
少女はいらいらしながらも、結局オレンジパフェを注文する。手近な丸テーブルの椅子に腰を下ろし、頬杖を突いた。
肩よりも少し下まで伸びた髪を耳に引っかけ、長いスプーンを持つ。グラスに差し込んだ瞬間、後ろから声をかけられた。
「ご一緒しても?」
若い男の声だ。少女が手を止める。
返事もまたず、白いコートのその男は、少女の向かい側に腰かけた。
「……まだ答えてないけど」
「せっかくなんだからさ、おにーさんとお話ししようよ」
少女は苦笑した。
男を見上げ、目を細める。
「おにーさん、ロリコンなの?」
その問いに、彼は少し考えるそぶりを見せた。それから、小さく微笑む。
少女の目をまっすぐに見据え、告げた。
「心に決めた女性がいるんだ」
了
読んでいただき、ありがとうございました。心からお礼申し上げます。
『ヴァストークの歌姫』は、2008年2月〜3月に執筆したものです。
一度は公開してありがたい評価・感想等いただいていたのですが、公募の為に一度消去しておりました。その節はご迷惑をおかけいたしました。
公募先はアスキー・メディアワークス第15回電撃小説大賞、結果は一次選考通過(応募総数3541作、うち通過が285作)、二次選考通過ならず(通過は88作)でした。
結果を真摯に受け止め、今後の糧にしていく所存です。まだまだの実力不足。精進いたします。
もしよろしければ、感想等いただけると幸いです。
踊って喜びます。
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