居場所
「何とお礼を申し上げれば良いのか……本当に、ありがとうございます。旦那様も奥様もお喜びでしょう。本当に良かった」
リストとクルイークを客間に通し、ミーチェは深く頭を下げた。アエルは、ロード=イーリスと共に、病床に就いているという母親の寝室へと向かった。家族水入らずで、と提案したのはリストだ。
「あ、改めまして。わたくし、祖母の代からイーリス家に仕えております、ミーチェ=アランと申します」
二人をソファへと促して、ミーチェは再び慌ただしく頭を下げる。興味なさそうにソファに座ろうとするクルイークの腕をつかみ、リストも一礼した。
「以前お伺いしたときには、ご挨拶もせず、失礼しました。リスト=グランデです。こっちはクルイーク」
「……ってーな。なんだよ」
不満を漏らすクルイークの後頭部をつかみ、むりやり頭を下げさせる。クルイークがなおも文句の類を口にしそうだったので、腕を引いたまま隣り合わせてソファに座らせると、急いで話題を変えた。
「貿易をやっていらっしゃるんですよね? さすが、見事な調度品ですね。大陸内部にいたのでは、なかなかお目にかかれない」
客間の壁には、鮮やかな色遣いの絵画や、青銅のモチーフなどが飾られていた。リストも話には聞いたことのある、ヴァストーク製と思われる絹の編み込まれたタペストリーも掛けられている。
そうなんです、とミーチェは嬉しそうに顔をほころばせた。
「この部屋にあるのは、ほとんど旦那様の趣味のものですが。わたくしも、一度はヴァストークに行ってみたいと常々思ってるんです。──最近は、よくない噂もありますから、わたくしが生きているうちには無理かもしれませんけれど」
「何をいうんです、まだまだお若いのに」
真顔でフォローするリストの横顔を、クルイークが胡散臭そうに見る。事実、ミーチェには老け込んだところなどなく、まだまだ若々しいのだが、そういうセリフがさらりと出てくることがクルイークには信じられないのだ。
照れたように頬を染めて、それからミーチェは急に真剣な顔つきになった。リストとクルイークの座るソファに、脇から詰め寄り、声をひそめる。
「そんなことはどうでもいいんです。あの、アエルちゃんは……何て聞けばいいんでしょう……そのう、要するに、どこで、何をしていたんでしょうか。何か良くないことに巻き込まれていたりとか、そういうのは、大丈夫なんでしょうか。わたくし、アエルちゃんが産まれたときから見てきました。あの子が出て行ってしまったときは、本当に悲しくて、もう心配で心配で……」
いいながら、もうその瞳には涙が溜まってきていた。付き合ってられないとばかりに明後日の方向を見るクルイークは放っておいて、リストは彼女の肩に優しく触れた。
「大丈夫です。お嬢さんを最初に見つけたとき、名前を聞いたら──彼女、ちゃんと、アエル=イーリスだと名乗ってくれました。そのことを、とても嬉しく思ったんです。彼女は、大丈夫ですよ」
「そうですか……」
実際のところ、ミーチェにはリストのいいたいことの半分ほどしか伝わっていなかったのだが、彼女は安堵したようだった。それから、うつむいて逡巡し、リストの向こう側のクルイークに視線を移す。
「あの……クルイークさんは、アエルちゃんの特別な方?」
「いえ、違います」
きっぱりとリストが否定する。クルイークはといえば、話を聞いているのか聞いていないのかもわからない。おとなしくソファに収まっていることが驚異だともいえる。リストにしてみれば、彼がミーチェと見つめ合って赤い瞳であることが知られるのはやっかいなので、そういう意味では好都合だ。
「では、あの……ごめんなさい、聞きにくいことなのですが、道中、何泊かされましたよね? アエルちゃんは、ちゃんと眠れていたでしょうか」
その質問に、リストの脳裏に眠りながら涙を流すアエルの顔が蘇った。眠れていたか、と聞かれれば答えは否だが、それをそのまま伝えるのはためらわれて、注意深く先を促す。
「……というのは?」
ミーチェは、目を閉じて、痛ましそうに首を振った。
「あの子は、赤ん坊のときから、とにかく眠れない子だったのです。大きくなっても、寝たと思ったら泣きながら目覚めることばかり。そのうちに、ほとんど寝ない子なってしまいました。この六年間、わたくし、夜になるとあの子の悲しそうな泣き声が聞こえてくるようで──あの子が、ちゃんと生きているのだとして、元気にやっているのだとして……ちゃんと、眠れているんだろうか、泣いていないだろうかと、そればかり」
ほとんど独り言のようにつぶやく。リストが何も答えられないでいると、ミーチェはそっと微笑んだ。喜びと悲しみとが同居しているような、複雑な笑みだ。
「でも、もう、六年なんですね。十歳だったあの子が、綺麗な娘さんになって」
彼女はリストの方を向いてはいたが、彼を見てはいないようだった。遠い日のアエルと、今日目の前に現れたアエルとを思い出しているのだろうか。目を細め、そのまま放心したように動かなくなる。
「──あ、ごめんなさい、お茶もお出しせずに! すぐにお持ちいたしますので、どうぞ、おくつろぎくださいませね」
突然覚醒したように大きな声をあげたかと思うと、彼女はばたばたと客間から出て行った。広い客間にリストとクルイークだけが残されてしまい、居心地の悪い沈黙が落ちる。
ミーチェがいる間には聞こえることのなかった時計の音が、等間隔に秒を刻んでいく。その音を数十回聞いたところで、クルイークはずるずるとソファに寝そべり、天井を見上げた。
「……なんでオレここにいんの。なんかすげー場違い」
「ちょうど俺も同じことを思ってたところだよ。でも、自覚があるようで良かった」
皮肉というわけでもなく、淡々と低いテンションで返されて、クルイークは剣呑な目つきでリストを見る。しかし、目が合うことはなかった。彼は宙を見つめ、何かを考え込んでいるようだった。
「もう、ぜんっぜん、わかんねンだけど」
その横顔にそう投げやりに言葉を吐き出すと、リストはすぐにクルイークを見た。
「何が?」
本気でわかっていないようだ。というよりも、思考に入ると周りのことは見えなくなるタイプらしい。
「オレはさ、あいつのことは……なんつーか、色でわかる。いってもわかんねえだろうけど、人間には色ってのがあんだよ。オレにとってあいつのそれはすげえ強烈で、見つけたときには、やった、って思った。見てくれが変わってるのとかはどうでも良くてさ。本人だってわかったから」
あいつ、と呼んだのを、リストは聞き逃さなかった。つまり彼は、アエルがアエルでないときから、ずっと、彼女に執着していたのだ。
「……つまり君は、捜してたの?」
「まあ、そうだな」
あっさりと頷く。リストが思っているよりも、二人の関係は浅いものではないようだ。
「見つけたのは、いつ」
そう問われて、クルイークは眉間に皺を寄せる。悪しき者の寿命は、人間のそれよりもはるかに長い。だからこそ、彼らにとって、時間の概念というのはひどく希薄だ。いつ、といわれても、すぐに答えを割り出せない。
「…………とりあえず、ここではなかったっつーことは、六年前以降ってことか」
結局、そういう答えしか出てこなかった。クルイークが『アエル=イーリス』に会ったのは、ベイスではない。ということは、彼女がこの家を出たあと、ということになるのだろう。
「なあ、あんた知ってんだろ。どういうことだよ。ここに親がいるとか、産まれたとかさ、そんなわけねーだろ」
「君たちは、人間の歴史にはあまり興味がないだろうけど──」
ふい、と視線を戻し、リストは再び何もない空間を見つめた。なぜ歴史の話になるのかと文句をいおうとしたが、言葉を飲み込んで、クルイークは辛抱強く待つことにする。基本的に、悪しき者が人間の歴史に興味がないというのは本当だ。ということはつまり、クルイークの知らない歴史とやらが、アエルのことに関わってくるのかもしれないと思い直したのだ。
「六十五年前、ザーパトとヴァストークの間で大規模な戦争が始まった。技術による発展を目指すザーパトと、魔術信仰が盛んで人間の手による発展を嫌うヴァストークでは、互いを異端と捉えていてね、大昔から戦争が絶えなかったんだ。六十五年前に勃発した大戦は、六年間続き、過去最大の負傷者を出した。ほとんど痛み分け──まあ、形上はザーパトの勝利として終戦したのが、五十九年前」
「そのへんのことは、あんたよりも詳しいかもしれないぜ。見てきたからな、人間同士のくだらないやり合いを」
くだらない、という言葉に、リストはかすかに反応した。クルイークが戦争の噂のことを妙に気にする理由がわからなかったが、もしかしたら単純に、戦争というものを嫌っているのかもしれない。アエルの負の感情を好きではないといったクルイークだ、その可能性は充分に考えられる。
「なら、君は実際に見てきたんだろうけど、その大戦で……ヴァストーク側の言葉を使うなら、『活躍』したのが、ヴァストークの歌姫、ファルーシュ=リゼだ。開戦当時、彼女は若干十歳。戦争兵器として、彼女は産まれた。これは文字通りの意味だよ。魔力の高い男女を選び抜き、ヴァストークの魔法士──ヴァストーク側では魔術師っていいかたをするんだけど──の英知を結集させて、術を幾重にもかけた上で生殖、母親が彼女を宿してから誕生までも、彼らは胎児に術をかけ続けた。より強力な兵器になるように。それこそ、呪いのようにね」
淡々と語られる内容に、クルイークは小さく眉根を寄せた。
「人間って、くだらねーこと考えるよな」
「俺は人間だけど、それでもひどい話だと思うよ。生命をばかにしている。その計画が、ヴァストークの中心国家であるエスタードが国をあげて取り組んだことだっていうんだから、なんていうかもう、呆れるしかない」
しかしそれが、ヴァストークの思考だった。とはいえ、ザーパトがヴァストークの行いを嫌悪するのと同じように、ヴァストークにしてみれば、ザーパトでだれもが利用する『ジュリス』の存在こそ恐ろしいものだということになるのだろう。根本から、考え方が違うのだ。
「そうして、後のヴァストークの歌姫が誕生した。十歳のときに戦争が始まり、彼女はその歌でたくさんの人間を殺した。六年間、ひたすら歌い続けて──結果は、敗戦。身柄がザーパトに引き渡され、裁きを受けることになる。その裁きっていうのが……」
「知ってるぜ。死ねないんだろ?」
「それだけじゃない」
リストは、ためらうように瞳を伏せた。
「忘れられないんだ。君は、忘れることができないっていうのが、どういうことかわかるかな。もしも人間が皆、忘れるということができなくなったら、世の中はたちまち精神崩壊者で溢れるだろうね。しかも彼女は……殺したという事実を、殺した人間の顔を、忘れることができないんだ。記憶が薄れることもない。死ぬこともできない。苦しみ続けるんだよ、永遠に」
釈然としない面持ちで、クルイークは唇を曲げる。想像しようとしたものの、よくわからない。
「それって、結局、罪悪感ってのがあるからってことだろ? オレにはピンと来ない」
「そうかもしれない」
リストは曖昧に頷いた。結局は、リストにも、理解できることではない。想像することしかできないのだ。
「戦後、不老不死になった彼女は、幽閉された状態で何年も過ごすことになる。ところが、いまから十七年前、彼女は突然消息を絶った。四十二年間、逃げ出す素振りなんて皆無だったのに、ある日突然、ね。それから十七年間、手を尽くして捜されて……いまに至る」
リストは目を閉じた。十七年前──リストがまだ、少年だったころ。生きることに絶望していた、あのころだ。
「……やっと、本題だ。ここからが俺が研究の末突き止めたことで、君の知りたかったことだよ。十七年前、おそらく彼女は、生まれ変わろうとしたんだ」
「……は?」
本題といわれ、身を乗り出したクルイークは、間の抜けた声をあげた。たったいま、死ねないといったばかりではないか。
「死ねないのにどーして生まれ変われるんだよ」
当然、その疑問に行き着く。
「その魔力を最大限に利用すれば、彼女には不可能ではなかったんだろうね」
そこまでいわれて、やっと、クルイークは気づいた。十七年前に、彼女が何に大きな力を使ったのか。どうしてこの町に、父と母が存在するのか。
音もなく、ゆっくりと息を吸い込んで、リストは続けた。
「彼女は、自らを胎児の状態にまで退化させて、女性の体内に宿ったんだ。もう一度生まれて、やり直そうとした──できることなら、すべてを忘れて」
アエルの見下ろす先で、レイティ=イーリスは静かに寝息をたてていた。
アエルの記憶の中の彼女よりも、ずいぶんとやつれていた。ロードには命に関わるほどの病ではないと聞かされたが、それでも病魔に蝕まれているのは確かなようだった。それとも、ひょっとしたら、心労によるものなのかもしれない。
ロード=イーリスは、扉の脇の椅子に、無言で腰かけていた。恐らく、いまアエルが座っているベッド横の椅子こそ、普段の彼の特等席なのだろう。視線は感じたが、何かを尋ねてくる様子はなかった。聞きたいことは山ほどあるだろうが、彼は黙っていた。アエルから口を開くのを待っているのか、それとも、レイティ=イーリスが目を覚ますのを待っているのかはわからない。あるいは、その両方かもしれない。
起こすのもためらわれ、こうして見つめ続け、どれほどの時間が経っただろう。ずいぶん長いような、まだほんの少ししか経っていないような、不思議な感覚だ。アエルの頭の中では、六年前までの彼女の様々な表情が、色鮮やかに蘇っていた。そのほとんどが笑顔だ。まっすぐに自分を愛してくれていた、温かい笑顔。
彼女が病に倒れてしまったという事実以外は、何一つ変わっていない。淡いオレンジで統一された寝室も、晴れた日は毎日のように洗われていた真っ白のシーツも、ときが止まっていたかのように、記憶の中のそれらとまったく一緒だった。何もかもを覚えているのだ。壁に掛けられた絵画、床に敷かれた絨毯、窓にひらめく薄手のカーテン、ベッドのすぐ上に飾られた金細工の時計──それらがいつ、どういった経緯でこの家へやってきたのか、だれの手でそこに置かれたのか、そのすべてを、アエルは説明することができた。六年も昔のことなのに、まるでついさっきの出来事であるかのように、色も、匂いも、ぬくもりも、何もかもが鮮やかだった。
だからこそ、彼女は悔いていた。
「…………ん」
ベッドの中で、レイティが身をよじった。まぶたがかすかに動く。
アエルは息を飲んだ。膝の上で握りしめた手が、汗ばんでいるのがわかった。彼女が目を開けて、それで自分は、いったい何をいうつもりなのだろう──その問いの答えは、どうやっても出てこない。
ひどくゆっくりと、レイティは目を開けた。
変わらない緑の瞳が、宙を見て、それからアエルを見た。半分ほどしか開いていない、まだまどろみの中にあるその瞳は、しばらくアエルを凝視して、そっと細められる。
「なんて素敵な夢かしら」
ふわふわと浮いているような声で、レイティはつぶやいた。その声を聞いた瞬間に、アエルは泣きそうになった。
けれど、アエルは耐えた。爪が皮膚に食い込むほどに手を握りしめて、口の中で震えるほどに唇を噛みしめて、耐えた。アエルは、決して、泣いてはいけなかった。それは彼女にとって、許されないことなのだ。
「夢じゃないよ、レイティ」
いつの間にか、アエルのすぐ背後に来ていたロードが、一音一音、確認するように、妻に告げた。
「アエルだ。リストさんが、連れてきてくださったんだ」
「…………え?」
レイティは数度まばたきをした。ロードに支えられながら、ベッドの上で身を起こす。身動きできないでいるアエルを、じっと見つめた。
瞳が、徐々に、開かれた。病のために青白かった頬が、少しずつ紅潮していく。その頬を、涙が濡らした。ゆっくりと一筋流れたあとは、抑えることを忘れたように、涙はぼろぼろと零れ出した。
「アエル……!」
アエル、という彼女の呼びかけが、記憶の中のそれと重なり、アエルは目眩がした。息を吸い込んで、唇の隙間から、少しずつ吐き出していく。喉の奥がひどく乾き、全身が熱を帯び、震えている錯覚を起こす。
「夢じゃないのだと、教えてちょうだい……アエル……アエル……」
レイティが手を伸ばす。皮膚が骨にはりつき、あまりにも細くなってしまった腕を見て、アエルは握り返さずにはいられなかった。ほとんど無意識に、両手でレイティの手をつかんでいた。
すぐに後悔した。
もう二度と自分からこの手を取らないと、あれほど深く誓ったのに。
「良かった……きっと元気でいてくれていると信じてたけど、でも、本当に良かった。あなたがこうして、無事でいてくれて」
なじられる覚悟をしていた。おまえなどもう娘でも何でもないと、突っぱねられた方がはるかに楽だった。
「大きくなったわね……」
その表情は、ただ純粋な喜びに満ちていた。
アエルは瞳を伏せた。
この人たちを、このまま、欺き続けることなどできない。
「………………あたしは……」
あたしは──
いいかけて、言葉が続かず、口を閉じる。
何というつもりなのだろう。
あなたたちの子ではないとでもいうのだろうか。大量虐殺をした犯罪者だとでもいうのだろうか。ただ死にたかったのだと、ただ逃げたかったのだと、なかったことにしたかったのだと──そのためだけに利用したのだと、いうのだろうか。
「あたしは……!」
口を開いてしまったら、もう、堪えることができなかった。制御できず、涙が勝手に溢れ出す。
アエルには、その涙の意味がわからなかった。自分の感情がわからないのだ。
本当は、謝罪を述べなければならない。感謝を伝えなければならない。けれど、そのどちらも、あまりにも傲慢で身勝手なように思われて、アエルの口からどうしても出てこない。
許してくれといいたいわけではない。許されるなどと思っていない。ならば、どうして謝罪を述べることができるだろう。感謝などという的はずれなことを、どうしてする権利があるのだろう。
事実は変わらないのだ。
何をしようとも、事実は事実として、決してそこからいなくなることはないのだ。
「アエル」
レイティは、優しく名を呼んだ。涙を流しながら、それでも頑なに声をあげないアエルの背にそっと腕を回し、抱きしめる。落ち着かせるように、その背を優しく撫でた。
「アエル、あなたはね、お母さんのお腹の中にいたのよ」
幼いこどもに聞かせるように、包み込むように、言葉を紡いでいく。アエルは黙って聞いていた。あまりにも心地よい声に、神経が麻痺していくのを感じた。
「信じられる? このお腹の中にね、本当にいたの。もう、お腹の中にあなたがいるってわかったときから、あなたのことが、かわいくてしかたないのよ。愛おしくてしかたないの。大好きなの。理屈じゃないのよ。お母さんも、お父さんもね、あなたのことを、心から愛しているの」
「…………」
アエルには、答えることができない。もう涙など枯れてしまったと思っていたのに、それはとどまることなく、次から次へと溢れ出す。
「産まれたときから、あなたはちょっと変わった子だったわ。なんでもすぐにできるようになって、本当に手のかからない子だった。そして、いつも寂しそうな目をしていた。きっと、何か大きなものを背負って、産まれてしまったのね」
背を撫でるのをやめ、より力強く、抱きしめる。
「私たちにできることは、何もないのかもしれない。あなたを、その悲しみから救うことは、できないのかもしれない。ずっと、そのことばかり考えてた。後悔していたの。あなたに謝っても謝り足りないの。私たちはこんなにもたくさんのものをあなたからもらったのに、何も返せないことが、悔しくてしかたなかった」
レイティは、そっとアエルの両肩をつかんだ。まっすぐに彼女の目を見る。
「ありがとう。私たちを選んでくれて、産まれてきてくれて。とても幸せなの。本当にたくさんの幸せを、もらったのよ」
「────あたしは……!」
何かをいおうとして開かれた口を、人差し指で静かに塞いだ。微笑んで、続けた。
「もっと傲慢になりなさい、アエル。もっと欲しがりなさい。あなたは、愛されている。あなたはちゃんと、望まれているのだから」
「…………!」
後悔ばかりが、アエルの胸に押し寄せた。
あまりにも無知だったかつての自分。あまりにも身勝手だった行動。ずっと変わっていない。何年も何年も存在し続けて、やっていることは、何一つ変わっていない。
傷つけてばかりだ。
自分の都合で、あまりにも多くの人を。
優しさに触れるたび、アエルの胸を激しい痛みが襲った。この優しさを、自分はいくつ壊してきたのだろう。幸せな母親を、父親を、こどもを、家庭を、いったいいくつ踏みにじってきたのだろう。どれだけの笑顔を奪ってきたのだろう。まるで息を吸うように、あたりまえに、あまりにも簡単に。
瞳を閉じるまでもなかった。目の前で倒れていく人々、魔女と罵る言葉、恐怖に震える姿、殺さないでと懇願する瞳──それらは無数に、消えることなく、常にアエルの脳を支配していた。いつでも、ひどく鮮明に、思い出すことができた。
彼女は歌ったのだ。
善も悪もわからず、自分には歌うことしか与えられていないのだと信じ、ただ歌ったのだ。
その意味に、気づこうともしなかった。
「…………」
何もいえなかった。
この優しい人たちに、何も、いえるはずもなかった。
押し流されそうな感情の中で、自分の中の一部分が、奇妙に冷めていくのを感じた。様々な思いに溺れ、捕らわれそうになるたくさんの自分の中で、冷めた自分だけが、静かに起きあがり、地面に立った。
忘れるな──アエルは、静かに、自分にいい聞かせた。
自分のしたことを忘れるな。
自分がだれであるかを忘れるな。
悲しみも苦悩も──ましてや幸せなど、決して感じてはならないのだということを忘れるな。
自分には、それらの一切の感情を抱く権利など、ないのだ。
「……もう、ここには、来ません」
感情のない声で、アエルは告げた。
心に浮かび上がった何もかもを、排除した。
ずっと、そうすることで生きてきた。そうして存在し続けるしかなかった。
リストとクルイークの二人は、ソファでおとなしく出された茶を飲んでいた。口を開いても不毛なやりとりになりそうな予感がしたので、お互いに黙っている。
間を保たせるために、出されていた焼き菓子に手を伸ばしていたら、二人では食べきれないほどに盛られていたにもかかわらず、とうとう空になってしまった。茶のお代わりも尽きようとしている。
「──アエルちゃん?」
廊下からミーチェの慌てたような声が聞こえてきた。クルイークがさっさと立ち上がるので、リストもそれに続く。空いた皿の類を失礼でない程度に整えて、白いコートを手にすると、廊下へと続く扉を開けた。
アエルがまさに家を出て行こうとしているところだった。ミーチェはそれを引き止めようとしているようだ。
「アエルちゃん、もう行くの? ほら、連れの方たちもまだ居間に──」
「いいよ、連れじゃないから」
ためらいもなくそういいはなつ。ショックを受けた様子もなく、クルイークは飄々とアエルに追いついた。多少ショックだったリストは、胸中で密かに感嘆する。経験値の違いだ。
「じゃあね、ミーチェ。元気で」
淡泊な言葉を投げて、すぐ隣まで来たクルイークにも、離れたところにいるリストにも目をやらず、扉を開ける。その表情があまりにもいつもどおりであることに、リストは違和感を覚えた。
六年ぶりに両親に会って、会話をしたはずなのに。
「アエル君」
屋敷から数歩出たところで、続く言葉も思いつかないままに、とりあえず呼び止める。アエルは動きを止めた。静かにふり返る。その目は、恐ろしいほどに、無表情だ。
「なに」
促されて、リストは言葉に詰まった。感じている違和感を、うまく言葉にすることができない。ご両親に会ってどうだったかなどと、聞くことでもない。
「おにーさんさ、これで用はすんだんでしょ? ヴァストークに行くって件が作り話で、ここに連れてくることが目的だったなら、ここで終わりってことだよね」
そのいい方に非難するニュアンスはなく、確認するように淡々と尋ねられたものだった。しかし、リストは責められているような気になった。確かに、解呪の妙薬は彼女の気を引くための作り話で、それがヴァストークにあるといったのも、通過点であるベイスに連れてくるのが目的だ。
しかし、ここで終わりということではない。ここで別れてしまっては、いったい何のために、彼女を捜し出したのかわからない。
答えないでいると、アエルは質問を重ねた。
「どうして、ここに連れてきたかったの?」
「……どうして?」
ここへ来たというのに、それが伝わっていないという事実は、リストを少なからず落胆させた。それだけ、根が深いのだ。理由など、一つしかないのに。
「あの人たちに頼まれたの? あたしを連れてきてって?」
「違うよ」
正確には、頼まれたというのは本当のことだった。ただそれは、リストにとって、あくまでも目的に付属してきたことにすぎない。彼は、あの日に会った彼女を──自分を助けてくれた、あの寂しそうな瞳をした彼女を──捜していたのだ。そうしてこの家に行き着いた。ここに連れてこなければならないと思った。
理由など、単純だ。
「俺は、君に居場所があるんだってことを、知って欲しかったんだ」
アエルは目を細めた。
「……おにーさん、結局、何がしたいの?」
単純な、それだけに辛辣な問いを、投げつける。リストは、これまで決して揺らぐことのなかったものが、初めて揺れているのを感じていた。リストの目的など、ただ一つだ。十七年前から、何一つ変わっていない。
「俺は……」
「リスト──!」
第三者の声が、リストの声を遮った。
名を呼ばれたリストも、アエルも、二人のやりとりを傍観していたクルイークも、一斉に声の方を見た。声は、イーリス邸とは反対側──リストから見てアエルのさらに向こう側から、聞こえていた。
茶色のコートを着た、ブロンドの女性が立っていた。彼女は声をあげたことを後悔するように、すぐに両手で口元を覆う。
「エイラ……どうしてここに?」
リストが名を呼ぶと、エイラ=ミリシアは音もなくため息を吐き出した。無言で左手を上げ、袖をめくり上げて、手首を示す。
彼女の細い手首では、ひどく頑丈そうな幅の広いブレスレットが、鈍い輝きを放っていた。茶色の宝石が埋め込まれている。ファッションのためにつけているようは見えない。
それを見て、リストは顔色を変えた。
「ジュリス……」
アエルは口の中でつぶやく。リストの表情と、さきほどの彼女の反応を見て、だいたいの事情はわかった。
「なんだ? どういうこと?」
緊迫した雰囲気とは無関係に、クルイークがのんきな声を出す。
エイラは緊張した面持ちで、リストと、クルイークと──それからアエルとを、じっと、見た。あきらめたように、首を左右に振る。
「……久しぶりね、リスト。上にいわれて、あなたを捜しに来たのよ。あなたの捜し物は見つかったかしら」
何気ない問いかけなのに、その声はかすかに震えていた。
「エイラ……」
リストは頭をめまぐるしく働かせた。どう答えるのが正解なのか。彼女がここにいるということ、腕につけられたブレスレットの意味、あえて彼女が投げた質問──
しかし、彼の中で答えが出るよりも早く、アエルが動いていた。アエルはまっすぐエイラに歩み寄ると、左腕をつかむ。あっけにとられるエイラにはかまわず、瞳ほどの大きさの宝石に向かって、大きく息を吸い込んだ。
「そっちで聞いてるのが、誰だか知らないけど」
わざと大きなボリュームでいって、少しだけためらうような沈黙を挟む。
「……あたしに、用があるんでしょ。レディの誘い方も知らない相手っていうのが残念だけど、こっちから行ってあげる」
エイラは目を見開いた。自分よりもずっと背の低い、まだ十代半ばほどの少女を見下ろす。
「え、どういうこと」
展開についていけず、クルイークが眉根を寄せる。説明してやる義理もなかったが、いちばん距離の近かったリストが彼の肩に手を乗せた。声をひそめる。
「あのジュリスのせいで、こっちの声が向こう側──要するに、コスモス本部に筒抜けってことだよ。あんまりいい流れじゃないな」
「コスモス? ああ、グリーヴァの雇われ先か」
普段、何ごとにもあまり興味のなさそうなクルイークだが、グリーヴァの名を口にするとき
には不快そうな顔をした。クルイークと同じ悪しき者だが、だからといって仲が良いということではないようだ。
「クルイーク、君は一緒に行かない方がいい。万が一のときのために、姿を消しておいて。コスモスに行ってしまったら、アエル君にとって、良いことには絶対にならないから。何かがあったときには……君が、彼女を守るんだ。残念だけど、俺に戦闘能力はない」
「……勝手いうなあ。あんただってコスモスなんだろーがよ」
だが、クルイークにとってもこのあたりが潮時だった。もともと、常にアエルと行動を共にしていたというわけではない。
「どっちにしろ、面倒はごめんだから、消えさせてもらうわ」
そういい残し、身を翻す。
「アエル君」
呼びかけたが、彼女はふり返らなかった。アエルはエイラを見上げて、無表情で告げた。
「そういうわけだから、案内してよ、おねーさん。逃げる理由もないし。連れて行ってくれるんでしょ?」
「え、ええ……」
でも、とエイラはいいかけて、言葉を飲み込んだ。
目の前の少女は、ヴァストークの歌姫のイメージから、あまりにもかけ離れていた。どこが、というのではない。そんな説明などできないほどに、何もかもが違うのだ。
正直なところ、エイラは迷っていた。自分がもしもリストを見つけられたとして──事実、見つけてしまったわけだが──自分のせいで、リストが何か恐ろしい目に遭うことは、避けたかった。リストを捜しているのは、平然とエイラの家族を人質に取るような人間だ。リストが裏切り、逃げ出したのは、そういう組織だ。
だからこそ、会話が向こうに聞こえているということを示して、リストに判断を委ねたのだ。うまくやれば、切り抜けられる可能性もなくはないはずだった。
それらはすべて、リストを思ってのことだ。彼女の頭の中には、ヴァストークの歌姫のことなどほとんどなかった。彼女がどうなろうと知ったことではない、というのが正しい。
それなのに──エイラは、息を飲んだ。自分の中の認識が覆されていくのを感じていた。
目の前のこの華奢な少女が、あの歌姫なのだろうか。
だれもがその名を知る、大量虐殺者なのだろうか。
だとしたら、なぜ──
「なぜ、そんな目をしているの」
思わず、つぶやいていた。
アエルの目は、エイラの知るどの瞳よりも、深い暗闇に捕らわれたような、寂しい色をしていた。
「どんな目? おかしなこというね、おねーさん」
その瞳のままで、アエルは薄く笑った。
*
赤い花畑の上に、グリーヴァは横たわっていた。
決して広くはないその部屋は、床も、壁も、天井も、すべてが花で埋め尽くされていた。ただ一か所、扉だけが花に埋もれず、そこが外界と繋がる部屋であることを示している。
その扉が、開いた。
杖を手にした白髪の老人が、視界を覆う赤い花に一瞬眉をひそめ、それでも室内に入ってきた。ためらいもなく、花を踏みつぶしながら。
「相変わらず、趣味の悪い部屋だ。以前は花ではなかったように思うが」
セリフとは裏腹に、人の良さそうな笑みを湛えていた。グリーヴァが答えないでいると、横たわるその肢体に、杖を突きつける。
まっすぐに、下ろした。老人の身のこなしからは想像もできないほどの速さで、それは彼女の腕と腹の間を鋭く突いた。
それでも身じろぎしなかったグリーヴァは、視線だけを老人に向けた。
「小言をいいに来たの? アタシが歌姫にやられたから」
「ばかな」
笑みは崩さずに、老人は鼻を鳴らした。
「もとより、貴様が歌姫に勝てるなどとは思っておらん。それでも頭を使えばどうにか、と多少の期待はしたがな」
「…………」
グリーヴァは唇を噛みしめた。悔しさに身が震えたが、それでも身体を起こすことができなかった。
歌ってもいない彼女を相手に、まるで歯が立たなかったのだ。
「カメロス」
愛する人間の名をつぶやく。しかし、そこに甘えの色は一切ない。決意すら込められた呼びかけに、老人は興味深そうに唇の端を上げた。
「もう一度チャンスを……とでも、いうつもりか」
「もう、負けないわ」
否定する様子はない。勝てるとは思えない、とまでいわれても、グリーヴァは引き下がるわけにはいかなかった。この男と共に居続けるためには、利用価値がないと思われるわけにはいかないのだ。
「勝手にするがいい。どうせ、歌姫はここに来る」
グリーヴァは眉を寄せた。自分が失敗したというのに、なぜそういうことになるのか。
「……どうして?」
カメロスは笑んだ。
「愚鈍なばかりだと思っていた息子でも、役に立つことがあるということだ」