嘘
少年はただ、そこに座っていた。
最初は、西のはずれに住んでいたひとりの老人だった。身体中に斑点が浮き出て、三日後に死んだ。老人には身寄りがなく、村人たちはたいして気に留めなかった。
そのうちに、村中の老人が死んだ。やがて大人たちの身体にも斑点が現れ始めた。呪いか、病か──騒ぎ始めたときにはすでに遅く、ひとり、またひとりと、倒れていった。
村は、こどもたちだけになった。とはいえ、彼らも例外ではなかった。親を亡くした悲しみにうちひしがれているうちに、斑点に蝕まれた。
東のはずれに住む少年ひとりが、生き残った。
悲しめばいいのか、嘆けばいいのか、憤ればいいのか──少年にはわからなかった。だから少年は、腐臭を発する両親の前で、ただ座っていた。
腹に、ぽつりと、斑点が現れたことに気づいた。
ああ、やっと──少年は思った。
これでやっと、終わるのだと。
どこからか、歌が聞こえてきた。
この世のものとは思えないほど、それはあまりにも美しかった。天使が歌っているのだと、少年は思った。
少年の目の前で、母親であったものが、砂の人形が崩れるように灰に姿を変えた。自分の腹を見ると、あったはずの斑点は消えていた。
少年の家の戸を開けて、ひとりの少女が彼の前に現れた。
長い黒髪の、表情のない少女だった。
「あなたは、生きたい?」
その声は透き通るようで、少年は、歌っていたのが彼女だったのだと知った。
少年が答えないでいると、彼女は続けた。
「それとも、死にたい?」
その問いは、胸の深いところまで落ちてきた。
みんな、死んだ。親も、友人も。だれもかもが。
死にたいと思った。
ここは、自分のいる場所ではないのだと。
「ぼくは……」
その声はかすれていて、自分のものではないかのようだった。少年の目に、枯れたと思っていた涙が溢れた。
心とは裏腹に、彼は震える声で、告げていた。
「しにたくない……!」
「そう」
黒髪の少女は、ひどく寂しそうな目で、そっと微笑んだ。
その瞳を見て、少年は気づいた。
彼女は何も語らなかったけれど、気づいてしまった。
ああ、彼女は──
リストは目を開けた。
寝るつもりなどなかったのに、いつの間にか寝てしまっていたらしい。木々の間から、月を見上げる。ほとんど動いてないところを見ると、あまり長い時間は寝ていないようだ。
隣に視線を移すと、木の幹にもたれかかり、アエルも寝息をたてていた。その手から、本がずり落ちそうになっている。リストが渡したジュリスの灯りで読書をしていたのだが、そのうちに眠ってしまったようだ。
寝顔を見ていると、先ほどのできごとが嘘のようだった。穴だらけになったシャツは脱ぎ捨てられて、真新しいシャツに着替えられている。小さなポーチに圧縮して入れてあったようだ。そういえば、最初に会った店で衣類を大量に持っていってたな、と思い出す。
白いコートを脱いで、起こさないように細心の注意を払いながら、そっとその華奢な身体にかける。考えてみれば、寝ているところを見るのは初めてだ。
リストは、そっと目を閉じた。ずいぶん昔の話なのに、夢の中の彼女の姿は、明確に思い描くことができた。目を開けて、眠るアエルを見つめる。ずいぶんと、姿は変わってしまったけれど。
「へんたーい」
すぐ背後で声がして、リストは思わず大声をあげるところだった。ふり返ると、黒縁眼鏡の少年が、リストの背にもたれかかってきていた。
「アエルちゃんの寝顔なんてレアなもの、なんで出会ってすぐのタレ目が拝んでんだよ。ひでー話」
「クルイーク……君さ、ちょっと今更ってタイミングだね」
「え、なんで」
不思議そうにまばたきをするクルイークに、リストは丁寧に説明してやった。馬車が襲われたこと、悪しき者であるグリーヴァが追ってきたこと。
話せば話すほど、この少年の出現がもう少し早ければ、と思わずにはいられない。こんなのでも、いれば戦力になったはずだ。少なくとも、自分よりは──そう口に出すのは癪に障ったので、いわないでおいたが。
「グリーヴァ! あのおばさん、人間のとこで使われてるって噂、本当だったのかよ。物好きもいたもんだな」
目を丸くして、クルイークが吐き捨てる。もしかしたら、アエルにグリーヴァの噂を教えたのはこいつかもしれないな、と思いながら、リストはぼんやりと二人の関係に思いを馳せた。仲良し、にはとても見えないが。
「人間にストーカーしてる君だって、充分物好きなんじゃないの。あのグリーヴァっていうのが聞いたら、笑いながら同じこといいそう」
単純な疑問を口にした。クルイークは勝ち誇ったように笑む。
「オレはいいんだよ」
何がいいのかわからない上に、ストーカーについて否定する様子もない。リストは呆れて、それ以上いえなくなってしまった。
「んなことより、あんたのこと調べたぜ。そっちのがストーカーじゃねえか」
「調べたって……どうやって」
リストが聞き返すと、クルイークの方が驚いたような顔をする。
「あんたさ、悪しき者なめてんだろ。ふつーは興味ねえから、人間のこと調べたりしねえけど、やろうと思えばカンタンだ。オレらの中にも、情報通ってのはいるしな」
「……ああそう。まあなんでもいいや」
リストは億劫そうに手を振った。どうやら自分は興味を持っていただいたようだが、喜ぶべきなのか悲しむべきなのかわからない。先ほどのできごとで、もう充分以上に疲れているのだ。頭もまともに働かなかった。
「……あんたさあ……」
多少拍子抜けした様子で、クルイークが唇を曲げる。昨日会ったときはもっと熱い人間だという印象だったが、こちらの方が素らしい。張り合いがないにもほどがある。
何か不満めいたものを口にしようとしたが、リストの表情が急に緊張を帯びたのに気づくと、訝しげに視線を追った。
「なんだよ」
「しっ──」
リストは思わず人差し指を立てたが、それが正しいのかどうかはわからない。目線の先には、眠っているアエルの姿。
アエルは、一目で異常と思えるほどの汗をかいていた。顔色も悪く、寝息も安定していない。うなされているようだ。少なくとも良い夢を見ている様子ではない。
「……起こした方がいいんじゃねーの」
声をひそめてクルイークがつぶやく。リストには答えられなかった。出会って丸二日、その二日間でやっと初めて眠っているというのに、起こすのが正解なのだろうか。起こしたら最後、また何食わぬ顔で本でも読み出しそうだ。身体のためには、睡眠を取っておいた方がいい。
とはいえ、あまりにも苦しそうな寝顔だった。ふと、リストは考えた──彼女はなぜ寝ないのか、なぜいつも本を読んでいるのか。
「────!」
眠ったままで、アエルは鋭く息を吸い込むような、声にならない悲鳴をあげた。起きている状態からは想像もできない姿だ。その瞳から、涙がこぼれ落ちる。
リストは無言で、アエルにかけていたコートを、彼女の頭からかけ直した。起こすにしろ、起こさないにしろ、じろじろと寝顔を見ているというのは好ましくない。
「君たちは……」
クルイークに視線を戻し、思い直して言葉を変えた。
「君は、アエル君のこういう感情も、餌にしているの」
不機嫌な声で問うと、クルイークは肩をすくめてみせる。
「好みの問題だね。オレは好きじゃない、アエルちゃんのこういうの。グリーヴァのおばちゃんとかは好きそうだけど」
「……好みとかあるんだ」
それは単純に驚きだったが、突っ込んで聞いてみる気にもなれなかった。どんな感情がおいしいのか、などという話題で花が咲くとも思えない。
「本当にヒマなんだね、クルイーク」
不意に、アエルの声した。
いつの間にか目を覚ましていたようだった。リストがコートをかけ直したときに起きてしまったのかもしれない。ついさっきまで眠っていて、しかもひどい顔色をしていたことなど微塵も感じさせない様子で、クルイークに冷めた目を向けていた。
「来るならもうちょっと早く来ればいいのに。永遠に来ないのがいちばんいいけど」
基本的にはリストと同じ感想だったようだが、彼よりもなおひどい。クルイークは慣れているのか、気分を害した様子はなかった。
「四六時中いっしょにいて欲しいなら、そういいなよ、アエルちゃん」
「頭おかしいんじゃないの」
ずばりと切り捨てる。リストはちょっとだけいたたまれなくなったが、クルイークは喜々としてリストを乗り越え、アエルに詰め寄った。
「グリーヴァとやりあったらしいじゃん。どうだった? オレ、あのおばちゃん嫌いなんだよ。立ち会えなくて残念」
「自分に酔ってる感じだった」
疲れたようにアエルが感想を述べる。そういうことを聞きたかったのではないだろうに、とリストは思ったが、アエルの意見には賛成だった。確かに、自分の世界に生きている感はあった。
「おにーさん、これ、ありがと。こういう扱いって悪くないね」
アエルは立ち上がると、皺だらけのコートをリストに差し出した。手で隠すこともなく大きくあくびをして、ついでに伸びをする。
「……アエル君」
「あ、あくび? はいはいゴメンナサイ」
リストの小言を先取りして、アエルが適当に謝罪を述べる。しかし、彼のいいたいことはそこではなかった。
「まだ寝てなよ。もうしばらく朝は来ないよ。夜にこんな森の中を歩くのは、やめた方がいい」
「え、歩かないよ?」
きょとんとして、アエルはもともと大きな目をさらに大きくした。ね、と首をかしげるようにしてクルイークを見る。
「う、アエルちゃんがこういうテンションのときって、ろくなことないのに……! それでもときめく愚かなオレ!」
「ベイスまで送って欲しいんだけど、いい?」
アエルは計算尽くされた上目遣いを披露した。それを下から見ていたリストは、見てはいけないものを見てしまった、という顔で、思い切り眉を寄せる。
「アエル君、そんなキャラじゃないでしょう。なにそれ、なんか疲れてんの?」
「疲れてんの」
あっさりと素に戻り、いつもの目でアエルは吐き出した。クルイークは全身でがっかり感を表し、肩を落とす。
「あまりにも短い……もーちょっとがんばれよ……。つーかアエルちゃんさ、オレのこと便利なペットかなんかだと思ってない?」
「ペット?」
目を細めて、ばかにしたようにアエルが聞き返す。
「何いってんの。ペットってのいうのはかわいいもんでしょ」
言外におまえはかわいくないと宣告され──別にかわいいと思われたいわけでもないのだが──クルイークはさらに肩を落とした。何かを期待したわけではないが、それでも寂しいものはある。
「まあ、いいか。これで貸し二つだからな、アエルちゃん。使役されるのは疲れるから、出血大サービスでオレの意志で送ってやるよ」
「え、そういうことできるんだ」
リストは思わずそう口に出して、黒縁眼鏡の少年をまじまじと見た。最初から悪しき者のことを理解できるとは思ってないが、それにしても何を考えているのかわからない。自分の意志でできるのならば、メランタワーのときもやってくれれば良かったのに。
リストの言葉は無視して、準備運動なのか、クルイークは両腕を上げて左右に身体を傾けた。ふと思い出したように、つぶやく。
「そういえば、ヴァストークに行くって話なんだよな」
独り言なのか、それとも問いかけたものだったのか──どちらにしても、両者ともさらりと答えられる内容ではなかったので、おかしな沈黙が訪れる。
「もうヴァストークまで送ろうか?」
「……どういう風の吹き回しなの、気持ち悪い」
アエルは本気で気持ち悪そうな顔をした。
「タレ目のこと調べてるときに、噂に聞いてさ。またザーパトとヴァストークで戦争が始まるらしいじゃん。そんな状態でベイスに行っても、船なんか出ないんじゃねーの」
「なにそれ」
眉をひそめ、アエルはリストを見る。彼も同じような顔をしていた。まったく初耳だ。
「……いや、いいよ、ベイスまでで」
「あんたに聞いてねーよ」
「うん、そういわれるだろうと思ったけど」
リストは首を左右に振った。本当のところ、ベイスを通り越してヴァストークに行かれては困るのだ。しかし、正直にそういうわけにもいかない。
「その話、気になるけど。確かめるって意味でも、とりあえずベイスまでで──ってことだよね、おにーさん?」
アエルに話を振られて、慌ててうなずく。クルイークはおもしろくなさそうな顔をしたものの、了解したようだった。小さな力で地面を蹴って、彼は空へ飛び上がった。
*
コスモスの本拠地があるアウレーの町から、港町ベイスまでは、一般の馬車に乗って丸五日かかる。それでも、道が整備されたことによって、ずいぶんと移動は楽になった方だった。五日でベイスまで行けると聞いたときには、ずいぶん便利になったものだと感嘆したものだったが。
「一日で着いちゃうなんてね……」
馬車を降りて、人通りもまばらな早朝の街道に立ち、エイラ=ミリシアはため息を吐き出した。まだ身体が揺れている感覚が残っている。コスモスが所有する、「特別」な馬車に乗ってアウレーを出発したのが昨日の朝。まさか、翌朝に着いているとは思わなかった。小さな車を引っ張ってくれた二頭の馬は、どんな無理をさせられているのだろう──つぶらな瞳をした馬が帰りも激走しているのかと思うと、胸が痛まないではなかったが、考えても仕方がない。
それに、コスモスが研究しているのは、そういうことなのだ。エイラが気に病むのは、あまりにも身勝手というものだった。
充分に暖かい季節だったが、港町の早朝ともなると、風は冷たく、自分は歓迎されていないのだと感じた。茶色のコートの首元を抑えるようにして、それでも背筋を伸ばして、エイラは歩き出す。
とうとう見つけた、だからベイスに行く──リストから聞いたのは、たったそれだけだ。しかも、それからもうずいぶんと月日が経っている。まだこの町にいるとは思えない。本当は、いなければいいと思う。
だが、彼女には、ここに来るという選択肢しかなかった。ここに来て、形だけでも彼を捜さなければならなかった。
人気のない街道を進むと、そのうちに広場に出た。中央に色とりどりの花が植えられた巨大な花壇があり、花壇を囲むようにして円上に商店が並んでいる。すでに半分ほどの店が開いており、主婦らしい客の姿もちらほらと見える。
広場を抜けても、商店は並んでいた。どこか、適当な店に入って情報を集めようかとも思ったが、とはいえどうすればいいのかわからない。白いコートのタレ目を見ませんでしたか、などと聞いて回るのも気が進まない。
すでに営業しているこぢんまりとしたカフェが目に留まった。表に看板が出ていて、特製コーヒーとモーニングサンドウィッチの宣伝がはり付けられている。空腹でないわけではない。
店に入って休憩して、ついでに彼のことを聞いてみようか──逡巡したものの、初めて訪れる町のカフェというのは、エイラにとって敷居の高いものだった。『カフェ=ジョカットロ』のようなチェーン店ならともかく、地元密着型のカフェに入るには勇気がいる。結局エイラは、カフェの隣を通り過ぎた。
壁一枚を隔てた向こう側に、リストがいることなど、気づくよしもなかった。
「見てる方が胸やけする」
ベイスについて早々、腹が減ったということで手近なカフェに入り、おごりであることを確認してスウィーツパフェを食べ始めたアエルを見て、クルイークはそう感想を述べた。男性二人は、オススメだというコーヒーとサンドウィッチを注文したのだが、食べることよりもアエルの観察に撤してしまっている。
今回ばかりは、リストもクルイークの意見に賛成だった。
「睡眠もほとんどとってないのに、朝一番でそんな甘いもの、よく食べられるね。店のおじさん、二回も注文聞き返してたよ」
「あれは耳が遠いだけなんじゃないの」
にべもなくいい放ち、長いスプーンでクリームをすくっていく。メランの町でパフェ全種をおごったときにも思ったが、アエルは決しておいしそうには食べない。年頃の娘が幸せそうに甘いものをほおばる姿というのは微笑ましいものだが、アエルはとにかく黙々と食べるのだ。
「アエルちゃんさ、食べることには執着すんのな。それって矛盾してねえの」
手持ちぶさたなのか、飲む気もなさそうなのにコーヒーに山ほど砂糖を入れながら、クルイークがそんなことをいいだした。すかさずリストが非難がましい目を向ける。
「そのいいかたはないでしょう。あと、もったいないから砂糖で遊ばない」
「あんた、オレの身内かよ」
うんざりしたようににらみ返す。それからクルイークは、サンドウィッチがまとめられていたピックで、パンの耳をいじり始めた。とことん食べる気はないらしい。
そもそも悪しき者は、食事というものを必要としていない。送ってもらっ
た礼ということで、リストが社交辞令で声をかけたのだが、断るどころかのこのこついてきた。リストにとってはまったく予定外で、おもしろくない状況だ。
「あたしは、自虐趣味ってわけじゃないの」
縦に長いグラスの、底に残ったクリームもすくい上げて、アエルは淡々と答えた。
「矛盾じゃないよ。まったく別の問題でしょ。身体に穴が開いたりすると、甘いものが欲しくなるんだよね」
「……間違ってる、間違ってるよこの会話」
リストは額に手を当てた。投げやりな気持ちでサンドウィッチをつかむ。サンドイッチではなく、サンドウィッチであることが重要らしいそれは、オススメとするだけあって、確かになかなかの味だ。自家製ソースが濃厚な風味を演出している。
「なあ、あんた」
年季の入った木製の丸テーブルを、遠慮なく数度叩いて、クルイークが声を張り上げた。はい、と間延びした声を返し、エプロンをつけた女性が駆けつける。店長らしい男性をお父さんと呼んでいたので、この店の娘なのだろう。客もアエルたちだけだが、従業員も他には見当たらない。
「ご注文ですか?」
そばかすの眩しい、妙齢の娘だ。そうじゃなくてさ、とクルイークは続けた。
「また戦争が始まるって噂を聞いたんだけどさ。これってデマ? あんたも聞いたことあんの?」
注文どころか、突飛な質問だ。娘は戸惑ったように眉を下げ、カウンターの父に助けを求める。グラスを磨いていた店長は、やはり困ったような顔をした。
「デマかどうかは存じませんがね、噂があるのは確かですねえ。なんでも、闇海にヴァストークの船がたくさん出てて、攻撃の機会をうかがってるとかなんとかね。おかげで、漁は制限されるは、向こうへの船は出ないわ……地元のわしらにとっては厄介な話ですわ」
「そうなんです」
父親の言葉を受けて、娘は急に泣きそうな顔をした。
「でも、そんなのはいいんです。お魚が捕れなくったって、戦争が起こらないなら、それで。デマならいいんですけど……」
「ふーん」
クルイークは気のない返事を返した。ヴァストークの船が攻撃の機会をうかがっているという具体的な話が、果たしてデマだったということがあるだろうか。制限される前は船も出ていたのだろうから、船乗りの目撃談に基づいた話と考えるのが自然だ。
「……やけに気にしてるけど。そういうの、君でも気になるの」
娘がテーブルから離れてから、リストがそっと尋ねる。君でも、というのは、もちろん、悪しき者でも、という意味合いだ。
「別に」
しかし、帰ってきたのは答える気のない一言だった。了承も得ずにクルイークのサンドウィッチに手を伸ばしたアエルが、代わりに答える。
「人間の感情を餌にするなら、戦争なんてご馳走のチャンスなんでしょ」
「ああ、なるほどね……」
納得したものの、やはりこの会話も間違っているような気がした。なんというか、健全でない。
「そんな話よりさ、オレがなんでこんな店までついてきたかわかってんの?」
こんな店、が聞こえたのか、店長がごほんと咳払いをする。もちろん、それを気にするクルイークではない。
むしろ、聞かれたリストが気になったが、フォローよりも問いの意味の方が重要だった。心当たりがまったくない。
「……なんで?」
「なんで?」
リストどころか、アエルも同じように聞き返す。クルイークはいらいらとテーブルを叩いた。
「どんなツラしてアエルちゃんに本当のこというのか、見たかったからだよ。それ以外ねーだろ」
不機嫌そうに吐き捨ててから、思い直して深く椅子に座り直すと、底意地の悪そうな薄い笑い方をしてみせた。
「襲われた元凶もぜんぶあんただろ。何が味方だ、笑わせる」
「もしかして君は、怒ってるの?」
もし本当に怒っているのだとしたら──悪しき者がだれかのために怒っているのだとしたら──それはリストにとって、驚くべきことだった。しかし、間違った質問だったとすぐに後悔する。目に見えて、クルイークの表情の不快度が増したからだ。
「アエルちゃん、狙われてんのはタレ目じゃなくてアエルちゃんの方だって、気づいてんだろ。ぜんぶこいつのせいだ。もーこいつさ、殺しちゃっていい?」
「なんであたしの了承が必要なの」
クルイークのサンドウィッチも異常に甘いコーヒーも、残らず征服し終えたアエルが、口元を拭いながら淡々と問い返す。
「おお」
クルイークは目を見開いた。
「目からウロコ」
「ちょっと、アエル君。そこは嘘でもダメっていっといてよ」
リストは慌てた。まだ死ぬわけにはいかない。
「そんな義理ないもん。結局、何一つ説明されてないし。……それどころか、嘘なんでしょ、解呪の妙薬がどうの、って話」
アエルの言葉に、リストは思わず言葉に詰まった。驚いたように、クルイークもこちらを見ている。正直な反応に、アエルは苦笑した。
もともと、うますぎる話だとは思ったが、何か根拠があるわけではなかった。ただ漠然と、そう思っただけだ。騙し続ければいいものを、そんな表情をされてしまったのでは、確信しないわけにはいかない。
嘘だったのだ。最初から嘘をかざして、リストはアエルに近づいた。
「じゃ、ベイスっていうのも、偶然じゃないんだ?」
笑みを浮かべたまま、問いを重ねる。え、なにそれ、とクルイークがアエルを見たが、それには答えない。
リストは観念した。この場に第三者であるクルイークがいることが不満だったが、それでももう、説明するしかなかった。
「……君のお母さんが、病に倒れたのを、知ってるかな」
そう切り出して、注意深くアエルの表情を観察する。彼女が顔色を変えるのを見て、リストは気づかれないように、静かに安堵した。
「ずっと昔にね、俺は君に会ったことがあるんだ。どうしてももう一度君に会いたくて、魔法力を特定する研究を始めた。かつて君が残した魔法の痕跡は力強く、それ自体を特定するのにそれほど時間はかからなかったけど、その後の君を追うともなれば話は別だった。何年も、何年もかかったよ」
テーブルの上で、リストは両手を組んだ。思いを馳せるように瞳を閉じる。
「研究っていうのはね、お金がかかる。バックアップをしてくれるっていうんで、俺はコスモスに所属した。コスモスは、君の行方を捜しているようだった。全面的な援助を受けて、研究を重ねて──やっと、君の力の跡を見つけた。力の痕跡が、ベイスの商家で確認されたんだ。約十七年前……君は、とてつもなく大きな力を使ったね?」
「……ちょっと待てよ、おかしいだろそれ」
クルイークが声をあげる。アエルはちらりと彼を見た。
「お母さん、って何だよ。アエルちゃんの母親なんて、いま何歳だって話だろ。つーか生きてんの?」
「あたしを産んだ人は、まだ四十歳だよ」
ため息を吐き出すようにして、答える。クルイークは眉根を寄せ、リストの説明とアエルの言葉を頭の中でくり返した。理解できる気がしない。
リストにとっては、クルイークが事実を知らないということの方が驚きだった。ということは、力の波動だけを察知して、彼女がそうだと確信するに至ったのだろう。リストには不可能
な芸当だが、悪しき者にとっては難しいことではないのかもしれない。
「……わかった」
アエルは短くつぶやいた。長い沈黙を挟んで、あきらめたように続ける。
「わかったよ。行こう」
力が抜けて、リストは思わず頬をゆるめた。
一人で行けといわれても、行ける気がしなかった。
家を飛び出して六年──もう二度と、戻ることはないと思っていたのだ。
優しすぎた、あの家。あれほど後悔することなどもうないと、思っていたのに。
「……鳴らそうか?」
玄関戸の前で固まってしまったアエルに、リストが遠慮がちに声をかけてくる。リストとしては、アエルが一人で行けばいいと提案したのだが、それなら行かないといわれたのでは折れるしかない。結局、興味があるという理由でクルイークもついてきていた。
「立派な家じゃん。金持ち?」
空気を読む気配もなく、頭の後ろで両手を組んだクルイークが、家を見上げながらそんなことをいう。ベイスの町はずれにあるイーリス家は、豪邸というわけではないものの、一般家庭にしては大きく、造りもしっかりしていた。この地方では多少名の知れた商家なのだ。
玄関戸の上部中央には、鳥をかたどったモチーフ、そのすぐ下に鎖が伸びている。それを引っ張ればいいのだ。アエルがいた六年前から、変わっていない。
ここまで来て、呼び鈴を鳴らすのを他人任せにするのもおかしな話だった。アエルは息を飲んで、鎖を引いた。
家の中で鐘が鳴り響くのが、外までかすかに聞こえてきた。急に逃げ出したくなって、アエルはさっと踵を返す。そのまま走り出そうとしたアエルの首根っこを、リストが捕らえた。
「それじゃイタズラだよ、アエル君」
そんなことはわかっている。わかっているが、どうしようもないのだ──アエルは、困惑しきった目でリストを見上げた。いつものように、取り繕うことなどできる気がしない。
「そんな目で見られたらね、おにーさん何でもいうこと聞きたくなっちゃうけど。でも、行くって決めたんでしょう」
「なんだそのセリフ回し……! 変態くせえ」
淡々と諭すリストを、目を見開いたクルイークが穴が開くほどに凝視する。いつもならアエルも同じ感想を抱くところだが、いまはそれどころではない。
アエルはうつむいた。そうだ、行かないという選択肢もあったのに、行くと決めたのは自分だ──あの人が病に倒れたのだと聞いて、それでも知らない顔をしていることはできない。
たとえそれが、どんなに身勝手なことだとしても。
「はいはい、ただいま」
玄関戸が開いて、エプロン姿の女性が顔を出した。四十代半ばほどの、ふくよかな女性だ。栗色の髪を、頭の後ろで団子状にまとめている。
一番最初に、長身のリストの姿が目に入ったようだった。彼女はまばたきをして、ああ、と声をあげる。
「あなたは確か……以前にもいらっしゃいましたよね? どうぞ、中に──」
彼女の動きが、ぴたりと止まった。その目は、リスト、クルイークと順に見て、やっとアエルを捉えたようだった。徐々に瞳が大きく開かれる。
「……アエルちゃん?」
かすれた声で、声をかける。
逃げ出そうという体勢で背を向けていたアエルは、観念して向き直った。
「…………久しぶり、ミーチェ」
「──!」
エプロン姿の女性──ミーチェは、文字通り飛び上がった。そのまま、客人に声をかけることも忘れて、回れ右をしてばたばたと走り去る。旦那様、旦那様、という耳を塞ぎたくなるほどの大声が聞こえてくる。
彼女はすぐに戻ってきた。灰色のシャツを着た、細身の男性──ロード=イーリスも一緒だった。
扉までは全速力で走ってきた様子だったのに、ロードは急に立ち止まった。アエルをまじまじと見つめ、引き寄せられるように、一歩一歩、近づいていく。
「……アエル──」
うわごとのように、つぶやいた。アエルの目の前まできて、そっと手を持ち上げる。その手はひどく震えていた。
触れる直前、アエルは思わず身を引いた。ロードの手は宙で止まり、長い時間をかけて下ろされる。
「……ほら」
リストが、アエルの背中を押した。よろめく彼女をロードが受け止め、それから優しく、壊れ物のに触れるかのように、抱きしめた。
「お帰り、アエル」
彼の後ろでは、ミーチェがぼろぼろと涙をこぼしていた。アエルは、懐かしい香りに顔をうずめながら、背中に手を回すことも、言葉を返すこともできず、震える瞳を閉じた。
彼女は静かに悔いていた。
やはり、来るべきではなかった。