追撃
ひときわ立派な扉の前に、エイラ=ミリシアは立っていた。ノックをしようと手を上げた状態のまま、動けないでいる。
長い金の髪は、頭の高い位置に結い上げられていた。気合いを入れようと、いつもはドレッサーの奥にしまい込んである値の張るジャケットに身を包んでいる。胸元では、いつものように白いバッヂが輝いていた。
コスモスに入って以来、この扉の前に立つのは二度目だ。一度目は、まだ希望に満ちていた、六年前の最終面接時に。二度目は、いま。
組織長に呼ばれた心当たりがないわけではない。というよりも、心当たりがあるからこそやっかいだった。考えれば考えるほど、気は重くなるばかりだ。
エイラは、唾を飲み込んだ。意を決して、持ち上げた手をそっと向こう側に倒した。二度。乾いたノック音が鳴る。
「ドライC413、エイラ=ミリシアです」
緊張を隠したつもりが、少しうわずった声になる。それとも、自分でそう思ってしまうだけだろうか──エイラは、もう一度唾を飲み、身じろぎせずに扉の向こうから声がかかるのを待つ。
「入りなさい」
朝会のたびに聞いている、低い声が投げかけられた。失礼します、と告げて、エイラは戸を開けた。
その部屋は、以前入ったときと印象が違っていた。自分の心持ちが違うからかもしれないとエイラは思ったが、コスモスの組織長の部屋が六年間まったく同じというのもおかしな話なので、やはりどこか変わっているのかもしれない。それでも、正面に構える、ひとひとりではもてあましそうな巨大すぎるデスクは変わっていなかった。エイラ自身が仕事に使うデスクの、優に三倍はあるデスクに両肘をつき、コスモス組織長ティグレ=ガナドールはエイラを見ていた。
デスク以外は、これといって特筆するものは置いていない。どこにでもありそうな書棚が一つと、中の見えない背の高い棚が二つ。調度品の類もない。それほど大きな部屋というわけでもない。
それでも、この部屋は、コスモス本部のどの部屋とも異なっていた。主人の存在のせいなのか、巨大なデスクのせいなのかはわからないが。
エイラは、緊張が表に出ないように冷静に努めながら、開けた扉を閉めた。一礼して、そのまま扉の前に立つ。
「もっとこちらへ。そんなところにいたのでは、話もできないでしょう」
まだ五十歳に満たない若き組織長は、柔和な笑みをたたえてエイラを呼んだ。決して張り上げた声ではないのにもかかわらず、その低い声には充分に威厳が感じられた。
エイラが歩みを進め、ティグレのデスクの前に立つ。ティグレはかけていた眼鏡を外し、緩慢な動作でケースにしまった。ぱちん、とケースを閉める。
「君は、リスト=グランデと特別に仲が良いと聞いているのですが」
ゆっくりと顔を上げながら、話のついでのようにそう切り出した。エイラは内心ひやりとしながら、言葉を選んで答える。
「特別、というのがどの程度のものかはわかりかねますが。同期ですので、仲は良い方だと思います」
「彼から何か聞いていますか」
柔らかい口調なのに、異を唱えることのできない力を帯びた声だった。エイラは指先にまで神経が行き届くのを感じた。身体の末端が妙に熱い。それでも芯が冷え切ったような緊張感。
「……何か、というのは?」
「ヴァストークの歌姫、黒の魔女──通り名は尽きないが、本名はファルーシュ=リゼといったでしょうか。もちろん、彼女について、です」
オブラートに包むことなく、直接その名が出てきたことに驚いた。しかも、彼は「もちろん」といったのだ。
「ヴァストークの歌姫について、コスモス内で噂が流れているのは知っています。彼女が生きているというのは、本当なのでしょうか?」
深い策略があったわけではなかったが、エイラはそう問いを口にしていた。本当のところ、彼女は、ヴァストークの歌姫については、リストから核心に近づくことを聞いているわけではなかった。同期のよしみで、姿を消している間のコスモスの状況を教えて欲しいと、情報の提供を頼まれているだけだ。だからその問いは、自然と口から出ていた。
ティグレは、目を細めた。彼女の言葉を、駆け引きの一端と捉えたようだった。
「無駄なやりとりは嫌いなんですがね。私は、君がリスト=グランデから聞いていることを、教えて欲しいといっているんですよ」
「わたしも、質問をしたところです」
「…………」
もうこうなっては、どう転んでも自分に良い方には話は進まないだろうと、エイラは腹をくくった。ティグレは、エイラのことを完全にリスト側だと思っているようだ。腹をくくってしまえば、金縛りのように動かなかった指先にも力が入った。そっと両の手を握りしめる。
「……いいでしょう」
ティグレは、やはり巨大なチェアの背に、息を吐き出しながらもたれかかった。
「では君は、ヴァストークの歌姫について、何を知っていますか?」
「大戦の大罪人です」
間髪を入れず、エイラは答える。ティグレが反応を示さないので、さらに続けた。
「彼女が歌う呪歌を聞いたものは、身体中の細胞が沸騰して死に至るとされ、ついた名が『ヴァストークの歌姫』──大戦ではヴァストーク側で力をふるい、彼女ひとりの力で、ザーパトでどれほどの被害者が出たのか、計り知れないとか……。戦後はザーパトに身柄が引き渡され、裁かれた──はずですよね?」
それはさらさらと口から流れ出た。ずっと疑問に思っていたことだったからだ。それがなぜいまになって、話題に上るのか、わからない。
「リストが……リスト=グランデが、彼女が生きているのだといい張っていたことも知っています。彼女を捜すといって、ここから姿を消したことも。でも、わたしが知っているのは、それだけです」
これには嘘が含まれていたが、ティグレはおもしろそうに唇の端を上げただけだった。
「教科書どおりですね。では君は、その『裁き』というのがどういうものだったのか、ご存じですか?」
質問を頭の中で反芻し、エイラは眉根を寄せた。そんなものは考えたこともない。というよりも、漠然と、死に直結するものをイメージしていたのだ。
「これは何も、私だから知っていることではありません。隠されてはいますが、知ろうと思えば知りうる情報です──そうですね、たとえば、金を積めば」
もったいぶるように一度言葉を切って、ティグレは続けた。
「不死です」
一言。
「……は?」
思わず、エイラは聞き返していた。
不死、といったのだ。ヴァストークの歌姫への裁きが、不死であると。
エイラは頭を働かせようとしたが、混乱する一方だった。たくさんの命を奪った代償が、不死だなどと、納得ができない。
「正確には、死な不、老い不、忘れ不──三つの『不』を与えた呪いだという話です。罪を悔い、死を乞うて、何度も自害を謀った魔女に、当時のザーパトとヴァストークの魔法士たちが、呪いをかけたといわれています。死なずに悔いろ、と」
エイラは言葉を発することができなかった。死な不、老い不、忘れ不──要するに、不老不死ということになる。不老不死といえば、一般的には憧れの対象になるものではなかったか。
「理解できないという顔ですね」
ティグレは、満足そうに目を細めた。
「安心なさい。私だって理解できません。不老不死が手に入るのなら、いくら金を積んでもいいと思っているような人種ですから、私は」
「……それが、本当だとして」
疑うわけではなかったが、エイラはそう前置きをした。
「ヴァストークの歌姫は、戦後もずっと生きていたということですよね……それを、どうしていまになって、コスモスが探す必要があるのですか?」
「そうではありません。我々は、ずっと、探していたんですよ。十七年前、ザーパトの監視下から逃れて、魔女が行方不明になったその日から、ずっと。いまになって探しているのではなく、いま、ようやく、見つかったのです」
そこまでいわれて、エイラは理解した。瞳を輝かせ、研究内容を語ったリスト=グランデの姿が脳裏に蘇った。情報の提供を求められた理由も、彼女がほとんど何も知らされなかった理由も、わかった。
「……ですがわたしは、リスト=グランデから何も聞いておりません。彼は元来、あまり自分のことを他に話す人間ではなかったので」
「いいでしょう。それが、嘘でも真でも」
つぶやいて、ティグレはもう一度ケースから眼鏡を取り出した。引き出しから書類の束を抜き取り、目を通しながら、今日の天気でも語るように話し出す。
「実はね、つい昨日まで、リスト=グランデの消息はつかんでいたんです。彼はばか正直に
うちコスモスの施設を利用していたのでね。それが、昨日、見慣れぬ若い女性を連れていたということで、念のため捕らえようとしてみれば、あっさり逃げられたとの報告がありました。タワーの八階の窓から、巨大な生物に乗って逃げた、などというばかげた報告です」
「……その若い女性が、ヴァストークの歌姫だと?」
質問には答えず、ティグレは一枚の書類を束から抜き取った。じっとそれを見つめる。
そのまま、沈黙が訪れた。エイラは重い空気の中で、ただ黙ってティグレの言葉を待った。ふと視線を落とし、彼の持つ書類を見る。それが何なのかを知って、息を飲んだ。
「私はね、目的のためには、何でもする男です」
ごくあたりまえのように、ティグレはそう告げた。
「ゲラベールか……気候の暖かい、良い町ですね。これといって目玉はないが、平凡に一生を暮らしていくにはあの町一つで不自由しないでしょう。そこで畑を耕しているのかな? 良いご両親なのでしょうね。おお、優秀な弟さんだ、ケウロのアカデミーで学んでいるとは」
ゲラベール──エイラの故郷だ。ブラン大陸の南西に位置する、小さな田舎町。ティグレが手にしているのは、エイラがコスモスに入る際に提出した、個人情報に関する資料だった。
それを、このタイミングで、わざわざ持ち出したのだ。
忘れていた緊張感が蘇った。エイラの背中を、冷たいものが伝っていく。
「どちらでもいいんですよ、君がリスト=グランデから、事情を聞いていようがいまいが。君が述べたのが、真実だろうが虚実だろうが」
ティグレは眼鏡をはずし、柔和な笑みをエイラに向けた。目の下には皺が刻まれているのに、その瞳は、ぞくりとするほど冷たかった。
彼は両手をデスクの上で組み、そっと目を細めた。そして、一言、告げた。
「協力してくれますね」
*
アエルとリストの二人は、港町ベイスへと向かう馬車に揺られていた。
昨晩、無事メランタワーから脱出した後、クルイークは疲れたといい残して姿を消した。も
ともと、フォシール悪しき者というのは、どこにでもいて、どこにもいない存在だ。生きている次元そのものが違う。目の前からいなくなったからといって、もうつきまとわれなくなるという保証などどこにもなかったが、リストはこっそりと安堵した。
フォシール悪しき者であるという事実を差し引いても──到底差し引いて考えられるものではないにしろ──あの少年は好きになれない。
そのまま身を隠し、結局野宿。朝一番で馬車に乗り込んで、すでに陽が傾こうとしている。
リストは、隣に座って本を読んでいるアエルに視線を移した。昨夜のできごとの後も、彼女は、リストにこれといって説明を求めなかった。聞かれないのに語り出すのもどうかと、リストもいわなくてはならないことは何もいえないでいる。
「その本、ずっと読んでるけど、おもしろいの」
結局のところ、口からでてくるのはこの程度のどうでもいい話題だ。アエルは本を閉じた。「ふつう。読んでみる?」
「や、俺はいい。馬車でそういうの読むと酔うから。繊細にできてて」
丁重にお断りすると、アエルはもう一度本を開いた。
「こんないい馬車でも酔うんだ? おにーさん、贅沢にできてるね」
繊細と贅沢では大きな違いだ。若干切なくなったものの、とりあえず、反論しないでおく。
彼女がふつう、と評した本は、ふつうのわりには複数回読まれているようだった。昨夜はページの真ん中あたりだったはずだが、いまは最初のあたりを読んでいるように見える。馬車に乗ってからもずっと読んでいるのだから、今日だけでも二週目に入っているのかもしれない。
アエルが本に集中しているようだったので、リストはそのまま彼女を眺めていた。文字を追うけだるそうな瞳に、長い睫毛が影を落としている。肩までの艶やかな黒髪が、彼女の耳を隠していた。そこから覗く頬の色はずいぶんと白い。
「何か用なの」
本から視線ははずさず、アエルがつぶやく。リストは慌てて目を逸らした。ここで慌ててしまっては余計怪しい、と理解はしていても行動が伴わない。
「アエル君さ、本ばっかり読んでないで、おにーさんとお話ししようよ。つまんないでしょ。俺は本とか持ってないわけだし」
ごまかすように話しかけると、アエルは苦虫を噛みつぶしたような顔をして、リストを仰ぎ見た。
「出た、『おにーさんとお話ししようよ』」
いつかのように、そのままくり返す。
「あのさ、そのセリフがどれだけ胡散臭いかわかってる? いつかほんとに捕まるよ。変態ってね、自覚なくても、周りの人が変態って認定したら変態なんだよ、知ってた?」
「え、そうなの?」
「あたしはそう思ってる」
リストは密かにショックを受けた。本当に変態だったらどうしよう。
向かい側で二人のやりとりを見ていた女性が、思わずといった様子で吹き出した。深紅のドレスを着て、馬車の中だというのにつばの広い帽子をかぶった女性だ。ひと目で、生活水準の高さがうかがえる。
「ごめんなさい、つい。仲がよろしいのですね。ご兄妹ですか?」
声を聞くと、見た目よりも年齢が上に感じられた。四十手前といったところだろうか。
「はい」
アエルが適当に返す。え、ちょっと、と思ったものの、リストは否定の言葉を飲み込んだ。年齢差は六つ、しかも「おにーさん」と呼ばれていれば、兄妹だと思われるのも当然だ。
目の前の女性の出で立ちは突出してはいたが、この馬車の中では、むしろアエルとリストの服装の方が浮いていた。ブラン大陸において、馬車というものは大きく二種類。一つは、馬が大きな荷台を引き、その中に荷物と一緒に人が乗り込むタイプ。もう一つは、馬が座席のついた車を引っ張る、人を乗せることを目的としたタイプ。アエルたちが乗っているのは後者で、しかも、馬は二頭しかいないというのに、連結式の座席車が三つ。それぞれに物々しい屋根とカーテンのついた、高級馬車だ。
馬の足にジュリスが埋め込まれることで、このような無茶を可能にしているのだという。アエルのもっとも嫌いな使い方だったが、異を唱えることはしなかった。リストが、このタイプの方が追っ手がつきにくいと断言したからだ。裏をかくのだという。
彼らの乗っているのは、三つのうち、一番前の車だった。広々とした座席に、アエルとリストが隣り合わせて座り、その向かい側には深紅のドレスの貴婦人。同じ車内に、あと三人が乗り合わせている。
「うるさくしてしまって、すみません。どうも、この手の馬車には慣れなくて」
正直なところ、自分たちがうるさい部類に入るのかどうかもよくわからなかったが、リストはとりあえずそのようにいっておく。貴婦人は、とんでもない、といって微笑んだ。
「わたくしも、これほど立派なのに乗るのは初めてですの。座席車が三台もついているなんて。速度も速いし──世の中は、どんどん便利になっていきますわね」
彼女はそのことを、純粋に素晴らしいと思っているようだった。アエルは黙って、手にした本に視線を落とす。リストは曖昧に笑った。
「ブラン大陸に、線路を敷く計画があるという話をご存じですかな」
貴婦人の隣、ちょうどひと一人分を隔てて座っていた、豊かな髭を蓄えた初老の男性が、話に加わってきた。
「線路?」
聞き慣れない単語に、貴婦人が聞き返す。男性は意外そうに目を見張った。
「アウレーに行かれたことは? あそこの町には、トレインが走っているでしょう。あれをね、大陸中に走らせようって話ですよ。途方もない話のようだが、実現すれば、メランからベイスまでなんて、それこそ一日もかからなくなる」
「ああ、トレイン。アウレーに行ったことはありませんが、話には。それが本当になれば、世の中は変わりますわね。ヴァストークには未だに馬車もないという話ですのに」
そんなばかな、とリストは胸中で思ったが、口には出さないでおいた。ザーパト側の人間は、ヴァストーク側をばかにしている節がある。純粋な魔術信仰が盛んなヴァストークは、技術面ではあらゆる点でザーパトに劣っているのは事実だが、世間で認識されているほどではない。ザーパト人の多くは、ヴァストークには背の高い建物は一切なく、食事といえば生の肉を手づかみで食べるのだと本気で思っているのだ。
「そういうのってさ、だれが考えて、だれが作るの?」
ぽつりと、小さな声でアエルが聞いた。アエルを見ると、やはり本を読み続けていたので、リストは一瞬聞き間違いかと思う。返事がないのを訝しんだのか、その目がこちらを見上げてきた。
「コスモスだよ。そういうのは、ぜんぶコスモスだと思っていい」
「やっぱり。希望の国コスモスね。やな感じ」
やな感じ、のところで、わざわざリストを見る目を細めた。貴婦人と髭の男性とが、まだ何やら話しているのを確認して、リストは少しアエルに寄る。
「……俺が所属してるところを?」
「コスモスでしょ。そうかなって。コスモスについて詳しいわけじゃないけど、やっぱりあんなタワーを建てるのはコスモスぐらいだよね」
内部にあれほどジュリスが活用されていなければ、確信には至らなかったが、昇降装置まで設置されているとなると、メランタワーを管理しているのがコスモスだというのは明らかだった。いまや世の中に溢れているジュリスを、開発したのも実用化させたのも、希望の国コスモスだ。となれば、そのタワーの豪華客室を無料利用できるリストの所属先は、コスモスということになる。
「あたし、コスモスって好きじゃない。コスモスが経営してるふつーの店は別だけど」
「まあ、そうだろうね……」
リストは苦笑した。アエルの言動を見ていれば、コスモスが好きといわれた方が驚く。
「じゃあ、アエル君はどんなものが好きなの。好きなものがあるなら、おにーさんが買ってあげよう。何でもいってごらん」
「『おにーさんが買ってあげよう』……」
目を見開き、リストの言葉をくり返して、アエルは思わず笑みをこぼした。こらえきれず、肩を震わせる。
「おにーさんって、ちょっとおもしろいよね。じゃ、町に着いたらパフェおごってよ」
それは年相応の笑顔だった。リストも顔をほころばせる。
「そうやって君が笑ってくれるなら、いくらでもおごるよ」
直後に、後悔した。アエルの表情が急に強ばったからだ。いつも冷めた目をしている少女が笑ったことが、ただ嬉しかっただけなのに。
その表情は、いつものように、リストの言葉が胡散臭いからとか、そういった理由で固まったものではなかった。アエルは何ごともなかったように目を逸らし、カーテンの隙間から見える景色に視線を移す。
奇妙な沈黙が訪れた。リストの前では、まだ乗客二人が話し込んでいる。話題はすでに変わっていたようだったが、そんなことはどうでもいい。同じ車内にいる他の二人の乗客は、どうやら眠っているようだ。
声をかけようとしたが、窓の外を見るアエルの横顔は、完全にこちらを拒絶していた。触れるな、話しかけるな──いわれてもいないのに、強い反発が伝わってくる。
彼女は笑えないのではない、笑わないのだ──リストは悟った。
そんなことは、知っていたはずなのに。
馬車は、林のなかを走っていた。メランからベイスへの道のりは、どのルートを取ろうとも、山をいくつか越える必要がある。窓から見える景色は、うっそうと繁る木々ばかりだ。いつの間にか太陽は完全に隠れたのか、それとも葉に阻まれて光が届かないのか、辺りは暗くなっていた。ジュリスの灯りが、進路と馬車を照らしている。馬車は夜通し走り続ける。数回の休憩を挟む以外は、基本的にはノンストップで目的地へと向かう。
「…………?」
林の中で、何かが動いたような気がして、アエルはまばたきをした。パール色のラメの入った、それだけでも高級そうなカーテンを、そっと開ける。
ただでさえ、普通の馬車よりも速いスピードで走り抜けているのだ。木々はどんどん後ろへと遠ざかっていく。そんな中で、何かが動くというのは──間違っても、獣の類ではない。
「何か……」
何かがあるかもしれないと、漠然とした不安を口にしようとした。
そのときにはもうすでに、ことは起こっていた。
「うわ──っ」
御者台から、短い悲鳴が聞こえた。それに気を取られる間もなく、車全体が大きく跳ねた。自分たちの入れられた箱を上下左右に振られたような、わけのわからない衝撃。だれ一人として、何が起こったかなど理解できない。
アエルは目を閉じなかった。自分の座っている目の前で、つい先ほどまで談笑していた貴婦人の表情が、驚きに変わるのを見た。そこに、恐怖の色は一切なかった。ただ、その目が見開かれる。
「──っ」
アエルは反射的に、リストの腕を引き寄せると、抱え込むようにして座席の下に潜り込んだ。二度、三度と衝撃が続く。
やがて、嘘のような静寂が辺りを包んだ。
「……いたた……」
アエルの腕の中で、リストが呻く。彼にはまったくもって状況が理解できていなかった。リストにしてみれば、車体が揺れ、アエルに引っ張り込まれて床に転がった、ぐらいの認識だ。
一瞬の出来事だったのか、長時間に及ぶ出来事だったのか──起こったのがついさっきなのか、ずっと気を失っていたのか、とにかく混乱して、時間の感覚すらつかめない。
「アエル君……?」
視線を上げようとして、リストは息を飲んだ。
すぐ目の前に、驚愕に染まった貴婦人の顔があった。深紅のドレスに身を包んだ彼女は、いまは額から鮮血を流していた。脈を測るまでもない、一目で、もう動くことがないのだとわかる。その顔は上下が逆さまだった。彼女の上半身は、だらりと座席から垂れていた。
貴婦人の身体を押しつぶすようにして、何か巨大なものが乗っかっていた。それは座席車だった。前から二つ目の座席車だ。後ろから恐ろしい勢いで衝突したのだろう、前の車の壁を粉砕し、座席に乗り上がった状態になっている。
やっと事の重大さを理解した。自分が生きていることが不思議なぐらいだ。座席の下にできた小さな空洞だけが、何ごともなかったように平然としているようだった。
「ケガは」
頭上から、静かな声が聞こえた。見上げると、不自然なほどに無表情なアエルの顔が、ごく至近距離にあった。
「オレは、どこも。君は?」
アエルはリストを見て、小さく笑った。リストは、自身の質問の意味に気づいたが、いってしまったものは今更取り消すこともできない。
「これは……事故?」
「さあ」
気のない返事をして、アエルは座席の下から身をよじるようにして顔を出した。潰された貴婦人など見えていないかのように、表情一つ変えず、そのすぐ横の隙間から身体を出す。窓はすべて割れていた。落ちていた木片で、窓枠に引っかかっているガラスをなぎ払うと、するりとそこから脱出した。
アエルのようにはいかなかったものの、リストもどうにか抜け出す。貴婦人だけでなく、髭の男性も、眠っていた他の乗客も、もう二度と動かないであろう姿で転がっていた。
「……これは」
ひどい、などという言葉ではかたづけられず、リストは言葉を飲み込んだ。目を覆いたくなるような光景がそこにはあった。
アエルたちの乗っていた最初の車は、脇の木にぶつかったようだった。二台目がそのまま後を追い、止まりきれずに乗り上げ、三台目も二台目に食い込むようにして横転している。
それが馬車であったのだと、いわれなければわからないほどに、もみくちゃになった木の塊が無惨に横たわっていた。効力を失っていないジュリスの灯りが、静かに惨状を照らしている。
「俺たちのほかにも、生き残っている人がいるかもしれない」
ぼんやりと突っ立っているわけにはいかなかった。我に返り、リストが駆け出そうとする。
「いないわよ」
すぐ目の前で、場違いな甘い声がした。
「──?」
危うくぶつかりそうになり、リストは慌てて立ち止まる。気配がないどころか、そこにはだれもいなかったはずだ。それが、いつの間にか、長身の女性が立ちはだかり、リストと、その向こう側のアエルとを値踏みするように見下ろしていた。
「生存者は、アンタたち二人。これってやっと、アタリってことかしら」
それは、完全に太陽の沈んだ森の中、それもこの惨状を背景にするには、あまりにも不似合いな、美しい女性の姿だった。豊満な胸を強調するような、ぴたりと身体に張りついた漆黒のドレスに身を包んでいる。燃えるような赤い髪が、装飾の一部であるかのように簡素なドレスを彩っていた。
むせ返るような甘い香りを漂わせながら、鼻にかかった甘い声で、彼女はそっと尋ねた。
「アンタ、リスト=グランデね?」
尋ねる形にはなっていたが、確信があるようだった。ドレスのスリットから足を出し、身を屈めてリストを見下ろす。
「その、趣味の悪い白いコート、聞いてたとおり。四つ目の馬車でアタリって、アタシ、運がいいのかしら、悪いのかしら。どう思う?」
「……?」
香りに酔ったかのように、頭がくらくらする。あまりにも場違いな女性の出現に、リストはこれが夢なのではないかとすら思った。
「これ、おばさんがやったの」
感情のない声で問いを投げ、アエルはリストの右手を引き寄せた。庇うように、前に出る。
赤髪の女性は、気分を害した様子もなく、濃いアイシャドウの引かれた目をそっと細めた。
「もしかして、アンタがファルーシュ=リゼ? だとしたら、ずいぶん様変わりしたものね。アタシの知ってる歌姫は、もっと高潔で美しかったけれど」
「質問に答えることもできないの」
リストはそっとアエルを見た。その声から感情は伝わってこなかったが、彼女は怒っているようだった。これほど身長差のある二人なのに、気迫で負けているようには見えない。
赤髪の女性は、艶笑した。
「いまのカンジは、ちょっとファルーシュ=リゼっぽかったわ。リスト=グランデと一緒にいるってことは、やっぱりそうなのかしら?」
「あのね、あたしはさっきから、質問してんだけど。あなたがやったのか、って」
一歩も引かず、問いをくり返して睨み上げる。その質問の意味を、リストはやっと理解した。つまり、これは事故ではないのだ。
背後に目をやると、車の下敷きになっている馬の姿が目に入った。動く様子はない。そういえば、馬のいななきも聞こえなかった──これは、何を意味するのか。
「そうよ。アタシがやったの。お馬さんをね、こうやって、貫いて」
赤い髪を指に巻きつけて、一本引き抜く。軽く払うような仕草をすると、それは針のような鋭い刃に姿を変えた。彼女は何気ない動作で、刃を地面に突き立てる。
「悲鳴もなく、苦しむこともなく、お馬さんは一瞬でオシマイ。その後はカンタンよ、あっという間に大惨事。アタシ、こういう地味なことって向いてないのよ。……そうね、四つ目でアタってラッキーだったってことにしとこうかしら。もうね、イライラしてたのよね」
大きな動きで肩をすくめてみせて、ぞくりとするほど美しい笑みを浮かべる。
リストは、アエルの前に出た。名目上、護衛の意味合いで雇っているとはいえ、年下の少女の後ろにいつまでもいるわけにはいかない。
「……君は、コスモスに雇われて?」
「雇われる?」
彼女は目を丸くした。
「本気でいっているの? ああ、暗いから、わかりにくいのかしら。説明してあげたら、歌姫さん?」
ジュリスの灯りのせいで、暗いどころか三人の周りは異様なほど明るかったが、赤髪の女性はそういっておどけたようにアエルを見た。
アエルは眉を寄せ、ため息を吐き出す。
「さっきから、やめてくれないかな。あたしには、アエルっていう名前があるんだよね。おばさんは……グリーヴァで、合ってる?」
「あら」
赤髪の女性──グリーヴァは、嬉しそうに笑んだ。
「アタシも有名になったものねえ。こうして、お会いしたことがあったかしら?」
「どうもハジメマシテ。フォシールのくせに、進んで人間に使役されてる化粧の濃いおばさんがいるって、知り合いに聞いたことあってね」
アエルの言葉で、リストも気づいた。クルイークと同じ、赤い瞳。ジュリスの灯りと赤髪でかえってわかりづらいが、全身がぼんやりとした赤い光に覆われている。
フォシール悪しき者だ。それならば、自身の髪を刃にするという手品まがいの芸当も、場にそぐわない異様な雰囲気も、納得できる。
「どこかの組織に使われてるって聞いたけど──つまり、それがコスモスってことね。このおにーさんを追ってきたの?」
「なるほどね……」
リストは、やっと状況を理解した。コスモスがフォシール悪しき者を使役しているという話は聞いたことがなかったが、そういうことならば、間違いなく標的は自分だ。自分と──そして、隣にいる少女。
そして、気づいた。グリーヴァの、「四つ目」という言葉。
さっと、血の気が引いた。まさか──
「まさか、アウレーから出る馬車を、手当たり次第襲ったのか?」
「あらオニイサン、怒ると色っぽいわね。その方がいいわよ。その下がり目、魅力的だから」
否定する気はないようだった。長い足をそっと前に出し、怒りに染まるリストの顔をのぞき込むと、その顎に指先を当てる。
「アンタがイケナイのよ、逃げたりするから。しかたないじゃない?」
リストは手を振り払った。自分でも驚くほどに、強い怒りが渦巻いていた。自分たちを探す、ただそれだけの目的のために、四つの馬車が襲われ──そして、たくさんの人間が死んだのだ。
「いいわね、その感情……とってもおいしいわ」
赤い口から長い舌を出し、べろりと唇を舐め上げる。その挙動すらどこか艶めかしく、リストは背筋が急に冷えるのを感じた。巨大な怒りに支配されそうだというのに、身体は動かない。怒りすら上回るほどの、確かな恐怖を、感じているのだ。
「おにーさん、もしかして自分のせいで、とか思ってんの? 勘弁してよ」
剣呑な目つきでリストを見上げ、アエルは疲れたように嘆息した。グリーヴァとリストが対峙する中、自分には関係ないといわんばかりに、体操でもするような動作でゆっくりと首を回す。足下に転がる棒きれに目をやると、足先で蹴り上げてキャッチした。
腰を屈め、少し離れたところに円を描く。半径一メートルほどの小さな円だ。その中に、サインでもするように手早く何かを書き込んだ。
「何か行動を起こすなら、必ず何かはついてくる。いい大人なんだから、わかるでしょ、そんなこと」
手を払い、ゆっくりとした足取りで戻ってくる。急に素早く踏み込むと、リストの腕をつかみ、円の中に押し込んだ。
不意を突かれ、リストはよろめく。しかし、地面に手をつくことはなかった。見えない壁にぶつかり、そのままほとんど身動きが取れなくなる。
「何を──!」
叫びかけたが、その声すら深い地中にあるかのようにくぐもっていることに気づいた。アエルが地面に描いた円と、そこに書き込まれた模様のようなものが、青白い光を発している。
防御結界に閉じこめられた──気づいたときには、もうどうにもできない。
「おばさんが何者だろうが、目的がなんだろうが──」
あっさりとリストに背を向けて、アエルはグリーヴァに向き直った。
「あたし、おばさんのいいなりにだけはなんないよ。ちょっと久しぶりに、ムカついてんだよね」
「あら、こんなことで?」
グリーヴァは唇の両端を奇妙にねじ曲げた。目尻を下げると、笑いを必死に押し殺しているような表情になる。
「おかしな話! アタシの殺した数なんて、アナタサマには遠く及びませんわよ?」
「…………」
アエルは無言で動いた。
戦闘に関する経験値がゼロに等しいリストには、目で追うことすらほとんどできなかった。体勢を低くして地を蹴ったかと思うと、次の瞬間にはその姿が見えなくなる。
「いまの味! ステキ、もっともっと怒ってよ、歌姫さん!」
グリーヴァは歓喜に打ち震え、両手をかかげると、ためらいもなく赤髪を数本引き抜く。宙に舞ったそれは、瞬時に刃に姿を変えた。四方八方へ、赤い刃が飛び散る。
「──!」
自分に向かってまっすぐに刃が飛んできて、リストは思わず目を閉じかける。しかし、狭い視界の中で、それは結界に阻まれて地に落ちた。結界がなければ、避けることなど到底不可能だったろう。
だがもちろん、守られているのはリストだけだった。馬車の中で動くことのないかつての乗客たちに、容赦なく刃が突き刺さる。
すでに死んでいる身体だ。それでも、目を覆いたくなるものがあった。
「アエル君──!」
たまらず叫ぶ。その声を合図とするように、周囲の木々が一度に倒れかかってきた。寸分の狂いもなく、すべてがグリーヴァめがけて、放射状に一点に集束する。
「ちっ」
舌打ちして、グリーヴァが跳躍する。砂と葉が舞い上がり、あたりを照らしていたジュリスのいくつかが砕け散った。もう二度と動くことのない馬車も、木々に埋まる。
「おばさんのほかに、十三人。ずいぶんと大げさじゃない」
いつの間にか、倒れた木の上に、アエルが立っていた。空中で難を逃れたグリーヴァも、慎重にアエルと距離をとって着地する。ふわりと、ドレスの裾と赤髪が遅れて落ちる。消えかけた灯りに照らされるその姿は、こんな状況でなければ、幻想的でさえあった。
木々は、器用にリストを避けてなぎ倒されていた。状況についていけず、見えない壁にへばりつくリストの足下に、黒装束の男が落ちてくる。気を失っているようだった。
「十三人……」
結界のせいで触れられなかったが、しゃがみこんで観察する。黒い布で隠されて、顔もわからない。しかし、リストには心当たりがあった。
表向きには、コスモスは四つの階級──上から、アインス、ツヴァイ、ドライ、フィーアの四つだ──で構成されている。だが、そのどこにも属さない、極秘任務を請け負う少数精鋭の部隊があると聞いたことがある。
階級名は、ゼロを表す、ヌル。組織長ティグレ=ガナドールではなく、その父、コスモス設立者であるカメロス=ガナドール直属の部隊だという話だったが。
「……そこまで動いているのか」
リストは唇を噛んだ。自分はどこまでも、考えが甘かったらしい。
「いいわ、どうせ数に入れてない。……そんなことより、さすが、ためらいなく死体をつぶしたじゃない。そういうのって、ナニ? 死者への冒涜っていうんじゃなかった? そういうとこ、尊敬するわ」
「冒涜?」
アエルは鼻を鳴らした。
「ばかいわないでよ。死んじゃったものは、もう冒涜もできない」
「…………」
その言葉には何か強い意味が込められているような気がして、リストがアエルを見上げる。しかし、彼女の冷めた目からは、やはり何の感情も読みとることはできない。
「ねえ、聞いてみたいことがあったのよ、歌姫さん」
グリーヴァは両手を腰にあてると、挑発するようにアエルに視線の高さを合わせた。
「アタシたちってね、人間を殺すことはなんとも思わないけど、フォシール悪しき者同士殺し合うことは滅多にないの。罪の意識があるからよ……わかる?」
罪の意識、という言葉をさらりと口にする。アエルは小さく眉を動かしたが、答えない。
「アタシね、アンタに興味があったの。アタシたちの心すら、あれだけ震わせる歌を歌う歌姫が──息を吸うみたいにたくさんの人間を殺した人間が、いったいどんな顔して生きてるのかって。ねえ? アンタ毎日楽しく生きてるの? それってどんな気分?」
「知りたい?」
氷のような微笑みを見せて、アエルは何でもないことのように問いかけた。
グリーヴァは、毛先を人差し指にくるくると巻きつけて、小さな動きでそれを引き抜く。彼女が息を吹きかけると、それは剣ほどの太さの刃になった。右手にからみつき、まるで腕の一部であるかのようだ。
「もちろん。でも、そうね──どうせなら、死にたくなるぐらい痛めつけて、それから聞くことにするわ」
腰のあたりで水平に刃を構え、グリーヴァは地を蹴った。彼女がいた場所に残像のように残った無数の髪の毛が、その姿を刃に変え、宿主の突進に合わせてアエルめがけて飛びかかってくる。
しかし、アエルは避けなかった。
微動だにせず、笑みさえ浮かべて、そこにいた。
「──!」
声にならない悲鳴をあげたのは、リストだった。
彼の目の前──倒れた木の上で、アエルはグリーヴァの刃に貫かれていた。手にした刃と、空中からの刃、それらすべてを一切避けることなく。
「……どうして、って顔してるね」
彼女は確かに貫かれていた。
身体のあちこちから血が流れ出す。それでもアエルの声音には、一切の感情がこもらない。
「痛くないわけじゃない。ちゃんと、痛い。でもこんなのは……痛みのうちには入らない」
「──ア、アンタ……! どうかしてる!」
顔色を変えて飛び退こうとしたグリーヴァの右手をつかみ、もう片方の手で彼女の頬に触れた。前に垂れてきていた赤い髪にそっと触れ、恐怖の色さえ帯びたその赤い瞳を見つめる。
「知りたいんでしょ? あたしの感情を餌にしなよ。いくらでも食べるといい。死にたくなるぐらい痛めつけて、なんて、おもしろいこというよね」
「…………! や、やめて……!」
アエルの両手が、青白い光を帯びた。グリーヴァの表情が、苦痛に歪む。
「ちゃんと受け止めてよ、ぜんぶ」
身をよじるグリーヴァを、アエルは決して解放しなかった。頬に触れる手に力を込める。
「あたしは、最初から、死にたいの」
グリーヴァの全身が波打った。
アエルの触れている頬から、腕から、全身に大量の液体が流れ込んだかのように、どくどくと皮膚が揺れる。ゆっくりと、身体が膨張していく。
「アア……!」
「アエル君!」
破裂するかと思われた、まさにその瞬間に、リストの声がした。結界に阻まれ、ほとんど音は通らないはずなのに、それはアエルの耳まで確かに届いた。ほんの一瞬、注意が逸れる。
「──!」
もちろん、それを見逃すグリーヴァではなかった。後ろに跳躍し、アエルから距離を取ると、肩を上下させて酸素を吸い込む。彼女はアエルを鋭く睨みつけたが、何もいうことなく、そのまま林の中へ姿を消した。気配が完全になくなるまでに、たいした時間はかからなかった。
アエルは息を吐き出した。ぼんやりと、そのまましばらく突っ立っていたが、やがて緩慢な動作で、突き刺さった刃を一本一本抜き始める。
引き抜いたときには、すでに傷口は塞がっていた。